第3話
カス… カス… カス… カス… カス… … …
雨が墓場を濡らしている。
いつもなら、土砂降りでも酔っ払いが何人か転がっているのに、
今日のションベン通りは、どうかしている。
雨音で息苦しくなるほど静かだ。
人の気配が無い。
屍人に会う事も無いだろう。
何故なら、もう何ヶ月も生理が無いからだ。
とうとう女として終わってしまったか…
子供が産め無いのに、生理がある事自体、神様の嫌がらせだ。
雨が降っている。
軽い雨だ。
細かい粒子が、髪や産毛に乗って、気持ちいい。
… … カス… カス… ガツ。ガツ。カス… ガツ。カス… ガツ。ガツ。ガツ。
暗いションベン通りの先で、規則的な雨音に混じって不規則な音が耳障る。
……しばらくすると不規則な音が止んだ。
酔っ払いか物取りでも潜んでいるのか?
屍人を見て何とも無い私だが、お化け屋敷やホラー映画は怖い。
屍人は、こちらから関わらなければ、何もしないが、イカれた酔っ払いは何をしでかすかわからない。
恐怖は、常に、得体の知れない生身の人間から伝わるのだ。
鞄から防犯ブザーを取り出し、身構えて進む。
ミドリ!
傘をさす程の雨でも無いのにカッパを着込んだ母が立っていた。
母は杖をついている。
さっきの不規則な音は、移動する母を支える杖の音だった。
私はミドリと言う。
なんとも安直な名だが、父がつけた。
ヒイラギにされなかっただけ良かった。
ヒイラギにされれば、サラシ首の生垣の所のヒイラギちゃん。
それは御免だ。
こんな時間に何してるの?
心細い夜のションベン通りで、母との出会いは安まる。
いやね、お酒が無くなっちゃったから…ちょっとね。
缶チューハイが5、6本、入っているであろう、雨に濡れて取っ手がちぎれそうな紙袋を持ち上げて、下品に笑った。
冷蔵庫に美味しいキムチがあるのよ。
つまみにするから切って下さいね。
母は酒の入った紙袋を大事そうに抱えながら、器用に杖をつく。
ガツ。ガツ。ガツ。ガツ。ガツ。カス…
サラシ首の生垣が見えた。
カス カス カス カス カス カス
軽い雨がヒイラギの葉にも乗っている。
家に明かりがついた。
母は一緒に帰る訳でも無く、私を置き去りにして、さっさと家に入ってしまった。
ミドリさん。あなたも飲むでしょ。
酒の入っていた紙袋は、雨に濡れて、へたり、千切れて、母のカッパと一緒に、乱雑に散らかったテーブルの上に放ってあった。
缶チューハイが1本だけテーブルに乗っている。
母は、ほとんど外に出ない。
家から出ないと言う理由で、いつも、私が中学の時のジャージを着ていた。
いつ洗濯したか知れないジャージはヨレヨレで、胸より出しゃばった腹でウエストのゴムが伸び切っている。
見苦しく肥えた身体を横たえて、買って来たばかりの缶チューハイを舐めていた。
冷蔵庫を開ける。
酸えた臭いが鼻を突く。
私が昼夜、働くせいで、母と食事が出来無い理由から、少し手を掛ければ独りで食べれるように、冷蔵庫には潤沢に食材を詰めていた。
その食材が、ほぼ腐っている。
毎日、何を食べているのだ…
母に食材を腐らせた事を、とがめても無駄だろう。
黙って、冷蔵庫の中身を処分する。
腐臭の中からキムチを探り出した。
キムチを切って皿に盛る。
痛。
指先を切ってしまった。
キムチのタレに血がにじむ。
思ったより深く切ったようだ。
何の躊躇も無く、血のしみたキムチを差し出した。
母はゴリゴリとキムチを噛み締めている。
母は綺麗な人だった。
美しかった頃の母の写真を財布の奥に忍ばせ、時折ながめると気持ちが落ち着く。
母の研ぎ澄まされた刃のような美しさは、私の自慢だった。
憧れだった。
リンとした母の言葉は、全て正しい。
しかし、歳を重ねるにつれ、憧れだった美しさが息を潜め、正義だけが出しゃばるようになる。
そんな母の正義が世間に通用する訳が無い。
母は仕事を辞めてしまった。
母は人と関わるのを止めてしまった。
今、憧れだった母は跡形も無く消え失せ、母の正義だけが形を変えて、経済的にも、心理的にも、私を締め付ける。
キムチを頬張り缶チューハイで流し込む母を見つめながら、思い出したくも無い母との過去のあれこれが、頭の中で涙を流すのを感じた。
母は父を語りたがらない。
早くに亡くしたせいで、私の記憶は薄い。
優しい人だったのか…
父の遺影から作った、私の勝手なイメージなのかも知れないが、血の通った顔は良く思い出せない。
幼い頃、私の自慢の長い髪を、よく褒めてくれた声だけは覚えている。
父に褒められた自慢の長い髪は、父が居なくなった頃に、母から男の子でもしないような刈り上げのショートカットにされていた。
私は今だにショートにしている。
ミドリさん。あなた男ができたわね。
母が、ちょっと震えたように見えた。
濡れたジャージがだらし無く下がり、見た目で重さを感じる。
見かねてタオルを投げた。
いい歳して、いやらしい。
私にはわかるの。
あなた、男ができると新しい靴を買うものね。
冷蔵庫の中身をあらかた片付けて、テーブルの上に1本ある缶チューハイに手を伸ばす。
あんな靴。
あなたには似合わないわよ。
床に座り込み缶チューハイを、ひと口含む。
唇から胃まで、一直線に疲れが落ちて行く。
だいいち、趣味が悪いわ。
あなたの男選びと同じね。
同僚達は、まだ居酒屋通りで祝い酒を楽しんでいるのだろうか…
今になって、参加を断った事を後悔した。
あなたは、私が選んだ男で無いと幸せになれないんだから。
昔、母の紹介で見合いした時の事を言っているのか…
結局、母の無理な条件のおかげで断られたではないか。
一度キリ。
あれ以来、男を与えられた覚えなど無い。
誰も迎えに来ないし、あなたが、あの悪趣味な靴で、この家を出る事もないわ。
床に座ったまま、無雑作に置いた鞄から財布を取り出し、母の写真を引っ張り出す。
あたしの許可が必要なの。
ミドリさん。
わかるでしょ。
いつ見ても、写真の母は美しい。
美しすぎて涙が出た。
あら?泣いてるの?
いい歳して、みっともない。
勝手に男選んで、勝手に妊娠して、勝手に流産して…
同じ事を繰り返すには、歳を取り過ぎているわよ。
いつ見ても写真の母と視線が合わない。
視線の先は何処なのか?
誰なのか?
目の前の母に聞いても、答えてはくれないだろう。
それどころか、大切なこの写真を、取り上げるに決まっている。
ミドリさん。
あなた、まだ、女をあきらめて無いようね。
窓が開いている。
ヒイラギをたたく音が変わった。
雨音が強く、母の言葉を聞かせまいと鳴っている。
私には強くて優しい雨だ。
何が悪い…
勝手に私の唇が動いた。
私も濡れている。
軽い雨だったとは言え、疲れに任せてグズグズと歩いていたからだ。
座り込んだ床の冷たさと、雨に濡れたせいで、下腹の中心から震えが、ゆっくりと身体の隅々まで広がって行く。
身体に入り込め無かった余分な雨だけが、ポタポタと身体の先端から床を濡らしている。
目の周りだけが、涙であたたかかった。
ミドリさん。何か言ったの?
雨がうるさくて聞こえ無いわ。
何が悪い…
え?何?
聞こえ無いわ。
窓を閉めてちょうだい。
何が悪いのよ!
カラン。カ。
チューハイの缶の転がる音がした。
ちょっと、お酒が足りないわね。
ミドリさん、買って来てもらえない?
雨で大変だろうけど、それだけ濡れてればいっしょよね。
……。
雨音が私の耳をふさぐ。
とうとう土砂降りになったようだ。
母はまだ何か言っている。
……。
いきなり部屋のスイッチを切った。
周りが墓場で大した明かりも無い為、家中が真っ黒に塗り潰される。
窓は雨が吹き込んでいるが、閉めるつもりは無い。
視覚と聴覚を奪われている状態に幸せを感じた。
痛。
さっき切った、忘れていたはずの痛みを思い出す。
指先から温かい血が伝う。
無意識に強く拳を握り締めていたようだ。
身体は冷え切ってしまった。
涙も乾いた。
震えも止まった。
さっきまで見つめていた大切な母の写真が、私の手を離れて、何処かに行ってしまった。
この暗さでは探せ無い。
明日の朝、母より早く起きて探せばいい。
……。
母が何か言っている。
さすがに部屋を暗くされて寝るしか無いと観念したのだろう。
おやすみ。
こんな優しい声が出るのか…
自分の声に驚いた。
ヒイラギが騒いでる。
強い雨だ。
このまま寝てしまおう。
今日は酷く疲れた。
あがいていないと生きて行け無い。
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