第12話 小悪魔的な……

「お前、いい加減にしろよ!」


 これには俺の堪忍袋かんにんぶくろの尾が切れた。生徒会室を抜け出して、逃げる阿久津の背中を追いかける。


 裸眼で視界がぼやけるが、幸いあの派手な色の後頭部は目立つ。帰宅部の貧弱な体力を振り絞って、俺は全力で追いかけた。ようやく彼女に追い付いくと、俺たちは人気の無い校舎の裏側に到着していた。


「ゼェ、ゼェ、ゼェ……」

「へへへ、男のくせにだらしないっスね」

「うる……さい、俺のメガネ……を、返……せっ」


 帰宅部の俺は虫の息であった。対して運動神経抜群の阿久津は余裕の態度である。


 それも妙に腹立たしいのだが、もはやそんなことはどうでも良くなってしまった。とにかく俺はこの面倒な掛け合いを、早く終わらせたいのだ。


「じゃあ音々のワガママを聞いて欲しいっス」

「そんなの……内容次第に、決まってるだろ」


 虚構きょこう証言をしたことにして停学を揉み消せ――なんて話は十分あり得る。俺がそれを承諾してしまうと、一生こいつの奴隷だ。それだけは避けたい。


「それにお前がこれ以上脅迫を続けるなら、こっちとしても黙っているわけには……あれ?」


 ぼやけていた俺の視界がクリアになった。阿久津が俺の顔に直接眼鏡をかけたのだ。


「音々はただ、実くんと仲直りしたかっただけなんスよ」


 そう言って今度は、あの暗黒物質ダークマターの入った袋を俺の方へ差し出す。


「菓子折りっス。これをずっと実くんに渡そうと思ってて」


 正直言って俺は耳を疑った。常識を逸脱いつだつするのが日常の阿久津の口から、そんなひんのあるワードが飛び出すとは思いもしなかった。


 今日の昼休みも、さっきの生徒会でもこれを渡すために、俺を待っていたのだ。


 俺がした密告は正しい行為ではあるが、反省して俺に謝罪しようとしていた彼女からすれば、それは裏切り行為だったのだろう。


「だったらもっと早く言ってくれたら……」


 もっと早く反省していることを伝えてくれていたなら、俺はこいつのことをかばっていたのかもしれない。


「とにかくこれでチャラっスよ! 音々が手作りしたクッキーだから、食べて欲しいっス」

「分かった。気持ちだけ受け取っておこう」


 この謎の物体の正体はクッキーらしいが、どう見ても身体に悪そうなので貰うのは遠慮しておこう。


「何でっスか? せっかく音々が作ったんスよ? 一口でいいから食って欲しいっス」

「それはお前が味見をして大丈夫なものだったのか? はっきり言わせてもらうが、どう見ても人間が食えるものに見えないぞ」

「だからカルロスくんに毒味してもらおうと思ってたんスよ」「今毒味って言っただろ! やっぱりお前は反省して無いじゃないか」「いいから口を開けるっスよ。音々が直接食べさせてあげるから」「やめろ、離せ!」


 すっかり逃げるタイミングを失った俺は阿久津に襟を掴まれ、自称クッキーを口元に突き付けられている。


 そしてあっという間に俺は押し倒されてしまった。


 本日2度目のマウントポジションを、あの小さい体に取られる。


「へへへ、もう逃げられないっスよ」

「もう分かった。食べるから、せめてお前が先に味見をしてくれ」

「チッ、しょうがないっスね」


 阿久津は俺に押し付けていた黒い物体を、自分の口に持っていき、一口齧かじる。


「まっず……ペッ、ペッ。なんスかこれ?」

「お前が作ったものだろ。俺に聞くな」

「おかしいっスね。原材料は完璧だったのに」

「何を材料に使ったんだ?」

「食パンっス。固くなるまでぎゅーっと握りつぶして、トースターでこんがり焼いて」

「パンはパンでも食べられないパンを地で作るな。まず使う材料からして違うだろ」

「なんでっスか? パンは小麦っスよね?」

「お前は原材料が大豆と言う理由で、豆腐から納豆を作れるのか? パンが加工食品であることを考えろ」


「……ハッ! 言われてみればそうっスね。やっぱ頭いいっスね、実くんは」


 阿久津はこれで納得してくれたのか、またがっていた俺の腹部から立ち上がった。


 どうやら俺は、あの発がん性物質のかたまりを口に入れずに済みそうだ。


 阿久津がそっと手を差し伸べてくれたので、俺は彼女の手を掴むために手を伸ばした。 


 すると突然、その手は俺の胸元まで伸びて、俺の脇をくすぐる。


「おぃやめ……あむっ」


 反射的に口が開くその瞬間を、阿久津は見逃さなかった。俺の口に黒い物体が詰め込まれる。


「約束っスよ。音々が味見したから、今度は実くんが食べる番っス」


 もうこうなってしまっては仕方ない。焦げたパンだと正体は分かっているので、一つくらい食べても死ぬことはないだろう。


 俺は苦味を我慢しながら、ゆっくり口を動かした。


「……ゲホッゲホッ」


 すると突然、口の中の食感が変わった。


 それを舌にのせた途端、むせ返り、鼻の奥にツーンと刺激が来た。

 俺はこの正体を知っている――ワサビだ。こいつはクッキーの中にワサビを練りこんでいたのだ。


「ああああ! 辛い! 痛い!」


 前に本で読んだのだが、ワサビの辛味はアリスイソ……名前は忘れたが、その成分は揮発きはつ性が強く、すぐに蒸発して鼻を刺激するらしい。つまりワサビの辛さを回避するには、その辛味成分を鼻から逆流させる――激しく鼻呼吸をして口の方へ押し返すことだ。


 俺は何度も鼻から息を吸って、ワサビの辛さを軽減させた。


 阿久津はその様子を見て、腹を抱えて笑っている。


 全くもって冗談じゃない。反省の皮を被ったタチの悪いイタズラだ。


 やはり阿久津音々は最後まで阿久津音々である。この反応を見たいがために、自分の目の前で俺に食べさせることにこだわったのだ。


「キャハハハハハハハ、ハーッ、お腹痛いっス」


 文句の一つや二つを用意していたのだが、阿久津があまりにも楽しそうに笑うので、そんな気は吹き飛んでしまった。もはや俺も呆れて笑うしかない。


「いくらなんでも……ふふ、笑いすぎだろ」


 俺の歪んだ顔を見て、阿久津が再び笑い出し、それに釣られて俺も笑ってしまう連鎖がしばらく続く。


 彼女が笑い疲れたことで、ようやくこの連鎖が終わった。


「いやー、面白かったス。やっぱドッキリ企画は最高っスね。カメラ回しておけば良かった」

「お前まさか、この一部始終をMytubeに投稿するつもりだったのか? 勘弁してくれ」

「だから言ったじゃないっスか。カメラは回してないって。本当は別のを……いや、なんでもないっス」


 彼女は何かを言いかけた途中で言葉をにごす。


 そしてイタズラを終えて満足したのか、この場から立ち去ろうとした。


「待てよ阿久津」


 俺は彼女を呼び止める。


「お前のワガママを聞いてやる。ただし、今日だけだぞ」


 俺はこいつが言いかけた言葉を聞き逃さなかった。それに何となく、俺に何を頼みたかったのかは察しは付いている。


「動画撮影を手伝えばいいんだな?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る