第8話 音々襲来

 そして何事もなく午前の授業が終わった。


 チャイムが鳴り教師が去ると、静まり返っていた教室から徐々に活気があふれ、彼らは各々の時間を過ごす。学食へ向かう生徒や、仲のいい友人同士で机を合わせて食事。右手に箸を、左手にスマホを。食事を取りながら友人と会話し、スマホでSNSやソーシャルゲームをするマルチタスク――これが現代高校生の昼休みのスタイルだ。


 俺も当然それに近く、右手におにぎり、机に置いたタブレット端末を左手で操作し、電子書籍に没頭する。ちなみにおにぎりは、視覚をほとんど使わずに食べれる、便利な食べ物である。


 いつもの喧騒けんそうを聞きながら、昼休みを過ごす――普段と何も変わらない日常を取り戻したことを、俺は実感した。


「あのーぅ」

「…………」


 本の世界に潜り込んで《ダイブして》いると、不意に異界からの雑音が耳に入った。


「あの、田中くん」

「ああ、俺か」


 名前を呼ばれて、ようやく自分が呼ばれていることに気付いた。


 俺のような近寄りがたい男に用があるとは珍しい。クラスメイトの女子生徒が俺に声を掛けてきたのだ。


 俺は失礼のないように端末を閉じ、食べ掛けのおにぎりをラップにくるんで机の上に置くと、彼女の方を見た。


 クラス替えしたばかりなので名前は覚えていないが、確か近くの席の女子である。


「音々ちゃんって知ってる? あの派手な髪の……」

「あいつがまた何かやらかしたのか?」


 つい脊髄せきずい反射で答えてしまった。


 その反応を聞いた彼女は、口を小さく開けて驚いている。しばらくの間を挟んで、彼女は本題に入った。


「その子が田中くんに『2ーAに来い』って」


 それは阿久津からの呼び出しであった。

 朝の一件もあるので、嫌な予感しかしない。


「そうか、伝えてくれてありがとう。食べ終わったら行くことにする」

「うん、気を付けてね」


 意味深な言葉を残し、彼女は去って行った。


 彼女にはそう伝えたが、当然俺はその教室に向かうつもりはない。貴重な昼休みの時間をあいつのために裂くなどまっぴらごめんだ。


 あのクラスメイトの女子は阿久津の恐ろしさを知っているような口振りであり、俺のことをわざわざ心配してくれるいい人だったので、あえて嘘を吐いた。

 彼女の中のわだかまりを取り除くためにだ。


 ため息をついて一旦気持ちを断ち切ると、俺は仕切り直して読書を再開した。


「おい、田中」


 昼食を完食してしばらくした後、今度は男子生徒から声を掛けられた。


 読書を中断し顔を上げると、今度はの男子生徒が立っていた。たしかこいつもクラスメイトだ。


「阿久津音々か?」


 もう大方検討はついていたので、俺は目星を付けて聞き返した。彼は「おう」と一言で返事する。


「悪いが風邪で早退したと伝えてくれ」


 山下曰いわく阿久津は一週間の停学。今日一日逃げ切れば、しらばくの期間は無事で過ごせるだろう。


 そして俺は次の手に出る。


 片手にタブレットを持って立ち上がり、教室のすみに向かうと、あの扉を開いて中に入った。


 これで田中実は存在しないことになり、阿久津は昼休みの時間、俺を探し回ることになる。


 俺はこの中で読書をしていれば無事に昼休みの時間を過ごせる。阿久津と言えど、午後の授業に単身で乗り込むような真似はしないだろう。


「お前何やってんだ?」

「いいや、気にしないでくれ。俺は今から30分間、この世界に存在しない概念がいねんになる」

「何言ってんだお前、頭おかしいぞ」


 掃除ロッカー。小学生ならよくある話だが、高校生にもなってその中に入るのは、確かに彼の言う通り頭がおかしいかもしれない。


 だが対阿久津防護シェルターとして、これほど身近で便利なものはない。


 俺は阿久津の恐ろしさ、そして面倒な性格を知っているのでこの択を選んだ。


「なぁお前、田中見なかったか?」


 外では何故かもう一人加わって俺を探していた。恐らく彼も阿久津に言伝ことづてを頼まれた苦労人であろう。


「ああ、田中ならそこに……って、なんだこれ!?」


 彼らは俺が潜む掃除ロッカーを見つめると、異常なまでのへこみを発見して驚きの声を上げた。


 そう、この凹みこそが阿久津の恐ろしさを伝える物的証拠なのである。散々蹴られて凹んだスチールの薄壁は、原状復帰で誤魔化せないほどボコボコであっだ。


「こんなに凹んでだっけ?」「さぁ?」「そういえばさ、俺の机もなんか凹んでたんだよ。まさか昨日、ここで誰か暴れたのか?」「いやいや、俺たちもう高校生だぞ。いい歳してそんなバカなやついないだろ」


 阿久津の本当の恐ろしさを知らない彼らは、謎の事故現場にあれやこれやと推理をぶつけ合う。


 彼らはそれを一通り話し終えると、後から来た男子生徒が本題に戻った。


「おい田中、中にいるんだよな? お前のことを3年生が呼んでいたぞ」


 無視して本を開こうとした瞬間、ピタリと俺の手が止まった。


 俺は同級生はおろか、上級生とは全く接点がない。


「しかもすげぇ可愛い人だったぞ。なんで田中に用があるんだろ?」

「マジで!? どんな感じ? 誰似?」

「ほら、扉の近くにいる人。あれだよあれ」


 なんと、その人物は教室の前に来ているらしい。ますます意味が分からなくなってきた。


 俺は扉を開けて、その人物の顔を確かめることにした。


「うわっ、すげー美人。っておい田中、なんだよお前、硬派に見えて性欲まみれじゃねぇーか」


 阿久津の使い走りの方が馴れ馴れしく俺に構う。


 確かにタイミングとしては『美人』という言葉につられて、天岩戸あまのいわとから出てきてしまった天照あまてらす大御神おおみかみのような展開だ。


 だが自分の名誉のために言っておくと、俺は礼儀には礼儀を返す信条があるので、その人に会おうと思ったまでだ。わざわざ下級生の教室まで出向いてくれた先輩に無礼は働けない。


 ロッカーの中から出ると、その目的人物が直ぐに目に留まった。


 ウェーブのかかった短い髪に付随ふずいする整った顔立ち。左目の下の泣きぼくろが色気を醸し出している。すれ違うクラスメイトと見比べるとスタイルの良さも顕著けんちょにあらわれている。たった一つ歳が違うだけなのに随分と大人びている容姿だ。男たちがはしゃいくのも分かる。


「違う、そういうのじゃない」


 一応、否定はしておいた。俺は相手を容姿によって態度を変えない……一部のを除いては。


「またまたぁ、田中も隅に置けないな。俺がついて行ってやろうか?」


「必要ない」と一言返し、俺は彼女の元へ向かう。


 ――その時、俺は気付かなった。もう一人の男の忠告に。


「おい、気を付けろよ田中。阿久津音々もここに来てるぞ」


 その台詞は先に聞いておきたかった――その名を聞き終えると同時に、俺は天井を眺めていた。


「実くん遅いっスよ! なんで音々のところに来てくれないんスか?」


 美人の上級生とやらに気を取られ、横から迫る猛獣の存在に気付かなかった。俺は阿久津に死角から襲われ、見事に横転。幸い教壇の平な場所に倒されたので、大事には至っていないが。


 扉の近くにいるあの先輩も目を見開いて驚いている。無理もない、あんな珍獣の奇行なんて見たことないだろう。


「こうなることが分かっていたからだ! 言っておくが、これ以上罪を重ねると停学が退学になるぞ!」

「停学? なんで真面目な音々が停学なんスか?」

「お前……まさか」どうやら彼女はまだこの件を知らないらしい。ならこのまま深入りせずに、黙っておくのが吉である。


「ワケ分かんないこと言って……お仕置きっスよ」


 阿久津は悪童あくどうのような笑みを見せながら、仰向けで天井を見つめる俺の腹の上をまたいで、黒板から何かを取り出す。


 腰をかがめてそれを俺の近づけようとした時、先輩が初めて口を開いた。


「やめなさい! あなた何をしようとしているの?」

「実くんは白い粉が大好物なんスよ」


 そう言って阿久津は、手に持っている黒板消しを俺の顔に近づけた。


 俺は両手で彼女の腕を掴んで、必死に抵抗する。


「やめろ阿久津、俺はその人に用があるんだ。お前の相手は後でしてやるから、大人しくしていてくれ」


 都合良く声をかけてくれたので、先輩を利用することにした。そうでもしないと、阿久津の暴走は止まらない。


「もしかしてあなたが田中実くん?」

「はい、そうで……ゲフッ」


 力の抜けた阿久津の腕から、黒板消しが俺の顔の上に落ちる。幸いメガネをしていたおかげで目は無事であったが、舞い散るチョークの粉が俺の気管に入り込んでむせ返った。


「田中くん、大丈夫?」


 扉の近くにいたのは、下級生の教室に入ることに躊躇ためらっていたからだろう。先輩はいてもたってもいられなくなり、わざわざその垣根を越えて駆けつけ、俺の頭に付いた粉を払ってくれた。


 この一連の流れにより、教室中の目線が俺に向けられる。


 問題児阿久津音々に襲われ、なぜか美人の上級生に世話されている地味なメガネ男。注目の的になって当然だろう。


「ちょっと目立っちゃったわね。場所を変えましょう。良いかしら、田中くん」

「ええ。俺もこの場から逃げ出したいと思っていたところです」


 メガネについた粉をハンカチで払いながらゆっくり起き上がり、いつものように埃も払うと、俺は教室を後にした。

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