第11話 長身で、髪の長い後輩

 6限目の授業終了を知らせるチャイムが鳴った瞬間、俺は逃げるように荷物をまとめて教室から脱走した。


 それは阿久津から逃げるためである。昼休みに阿久津が俺を呼んだのは、俺に何かを渡すためだったらしい。彼女がそれを自分の教室に忘れたため自然と解散になったが、放課後にまた来ると言っていたので、巻き込まれたくない俺はこの選択をした。


 一応俺は生徒会長に呼ばれていたので、あとで文句を言われても「先約があった」と言い訳がつく。俺は周囲に奇抜な頭髪の女が現れないかを警戒しながら、生徒会室へ向かった。


「失礼しま……」


 生徒会室の扉を開けた瞬間、嫌なものが目に付いた。椅子に座るカルロスに執拗しつように絡む阿久津。それを目にした瞬間、俺は頭を抱え込んだ。


「た、助けてくれ、田中」


 カルロスは目と声で俺に訴えかける。阿久津は何やら黒い物体を彼の口元に押し付けようとしていた。


「あら田中くん、早いわね」


 後ろから生徒会長の声が耳に入った。

 俺は彼女が中の惨状さんじょうを見ないように、あえて扉の前で道を塞ごうと配慮したのだが、彼女は首を伸ばして中を覗き込んでしまった。


「げっ、何でいるのよ」

「すいません」

「あなたが謝ることじゃないわ」


 生徒会長はポンと俺の肩を叩いて、生徒会室に入る。


「よっ、爆乳会長! 自慢のIカップが揺れてるっスよ!」


 阿久津は部屋に入る生徒会長の姿を見た途端、セクハラ発言をかます。


「なんで知ってんのよ!」

「実くんに教えてもらったっス」


 それを聞いて生徒会長は俺の方を振り向いた。


 俺は両手を激しく振って全力で否定する。


「いやいや、俺がそんなこと知ってる訳ないでしょ。そもそもあいつには虚言癖があって……」

「実くんは頭がいいから、それくらい朝飯前っスよ。少し観察すれば、バストサイズを当てるだなんて造作もないことっス。この前なんて音々の秘密をたった数回の質問で……」

「もうこれ以上余計なことを喋るな! 大体なんでお前はここにいるんだ」


 さっと部屋に入って、俺は阿久津の口を手で塞いだ。


「痛っ」


 阿久津は大きく口を開けて、俺の手の薄皮を噛み、俺は反射的に痛みで手を離してしまった。


 発言する口を解放した彼女は、ニヤニヤしながら俺の疑問に答える。


「カルロスくんに味見をしてもらってたんスよ」


 そう言いながら、彼女は黒い物体が入った透明な袋を誇示した。


「その暗黒物質ダークマターをか? 大体なんだそれは?」

っス」


 黒く見えたそれは、焦げであった。俺の知っているクッキーと形は似ているが、似ているのは形だけ。発がん性物質の塊は暗黒物質と呼ぶに相応しい。


「お前はカルロスを殺す気なのか」

「これは実くんにあげる物っスよ」

「なるほど、俺を殺す気か」なら仕方あるまい。


 生徒会長との約束を破棄することになるが、俺は自分の命が惜しいので、この場から立ち去ることにした。


 阿久津を適当にあしらいながら、出口の方へ向かう。


「おっと」


 不意に、扉の奥に壁のようなものが見えてぶつかりそうになり、足が止まった。


「ああ、すいません」


 そこに立っていたのは一人の女子生徒であった。ちょうど俺の目線の先に胸部が見えるので、彼女はかなり背が高い。


 腰まで伸びるつやのある黒髪。垂れる前髪も長く伸び、右目が隠れてしまっている。左の三白眼でじっと俺の顔を見つめながら、彼女は廊下の前に立っていた。


「一年生か。いや、俺の方こそすまない」


 田平岡高校はネクタイの色で学年分けがされている。

 一年生――つまり彼女は緑のネクタイ。二年の俺や阿久津、カルロスは赤。三年の生徒会長は青だ。実は初めて生徒会長を確認した時も、誰が先輩なのかをネクタイの色で判別したのだ。


 後輩である彼女は、どうやら生徒会に用事があるらしい。


「何やってんのよ田中くん、マキちゃん。早く入りなさい」――マキと呼ばれる彼女は俺と同じ来客者であった。生徒会長が俺と彼女を部屋に呼び込む。


「仕方ない。阿久津は無視するか」


 俺は諦めて、席に着くことにした。


 そしてマキが部屋に入ると、五人の人間がこの部屋に揃った。

 奥の特等席は生徒会長。縦に並んだ二本の長机には上座からカルロス、俺、阿久津、マキの順で座っている。


 改めて全員が席に着いたことを確認すると、生徒会長は少し意気込んで発言した。


「さて、四人全員揃ったわね……でもその前に邪魔者を排除しましょうか。阿久津音々さん」

「なんスか?」


 不意に名前を呼ばれて、阿久津は生徒会長の方をにらむ。


「あなたのことは調べさせて貰ったわ。いいのかしら、こんなところにいて? これ以上罪を重ねるのは辞めておきなさい。停学が退学になるわよ」

「……は? 会長もワケ分かんないことを」阿久津は首を傾げる。


 あまりにも本人が平然としているので、山下が隠蔽いんぺいしたと思い込んでいたのだが、阿久津の停学は既定路線だったのか。


 この話が生徒会長の耳に入っていたのは意外だったが、そんなことよりもこれ以上先を言われると、俺の命が危ない。


 俺はさっと立ち上がって生徒会長の方へ向かう。


「ちょっと田中くんどうしたの? なんなの急に」

「すいません、俺は命が惜しいので!」


 彼女の後ろを通り、掃除ロッカーへ向かった。少々扉は固かったが、力を込めて無理矢理こじ開けることができた。俺は内容物を取り出して、その中に入る。


「一体なんなの? いきなりどうしたのよ?」

「自分の身を守るためです」


 声のこもるロッカーの中から受け答えをすると、その後生徒会長の口から明かされるであろう事実の公表権を奪い取り、阿久津に俺が直接伝えることにした。


「落ち着いて聞いてくれ阿久津。お前は恐らく一週間の停学処分になる」

「……実くんは何を言ってるんスか?」

「昨日のアレは現状復帰が不可能だった。生徒や教師が見つけるのは時間の問題だ。犯人探しなどの大ごとになる前に、俺が第一発見者として山下に報告した」

「音々を、裏切ったんスか?」


 阿久津はドスの効いた声で机を叩き、椅子を蹴飛ばして立ち上がった。隣で座っていたカルロスはそれを聞いて小さな悲鳴を上げる。


「怯えるなカルロス! この中で阿久津を止められるのはお前だけだ。そのデカい図体は飾りなのか?」

「無茶なこと言わないでよ田中ぁ」やはりカルロスは役に立たないか。


 視界情報の少ないロッカーの中だと、外の様子は音でしか判断できないはずだなのだが、阿久津が放つ覇気で徐々にこちらに近づいてくるのが分かる。


「生徒会長逃げてください! カルロス、せめてお前はそこの一年を連れて逃げろ!」

「止まりなさい阿久津さん。これ以上暴れると、処分は重くなるわよ」


 生徒会長は俺の忠告を無視して、阿久津の前に立ち塞がろうとする。


「やめろ無茶だ! 小さい体をしているが、こいつの殺傷能力は高い。加減のできない化け物なんだ!」


 扉の隙間から生徒会長の背中が見える。彼女は良い人だ。これ以上迷惑はかけられない。


「くそっ、やるしかないのか」


 俺は防護シェルターから飛び出して、姿を表した。


 あいつの目的は俺だ。彼女は関係ない。


「阿久津、俺はここだ。お前の怒りは分かるが、俺はお前のためを思って――」

「うがあああああああ!!!!」


 鬼のような形相ぎょうそうをしながら、阿久津がこちらに向ってくる。覚悟を決めた俺は腕を盾にしながら目をつむった。


「あああああ! なんスか? なんなんっスか!」


 拳や蹴りが飛んでくる気配がない。阿久津の様子がおかしい。


 まさかカルロスが?


 俺はそれを確かめるべく、まぶたをゆっくり開いた。


「離せええええ! デカ女ああああ!」


 彼女を止めたのは大男ではなく大女だった。マキが阿久津を後ろから羽交い締めをして、完全に拘束していた。身長差のせいで阿久津は体を浮かせ、足をバタバタさせてもがいている。


「デカ女とか言われるの傷付くんで、やめてもらっていいですか?」

「うるさい、黙れえええデカ女あああ!」


 阿久津は必死に抵抗するが、マキは一切動じない。まるで大木のように足を床に固定してさせている。


「なんなんスか、もう……離してよ」


 阿久津は疲れ果て、心が折れてしまった。

 暴れ回って頭に上っていた血が下がり、無様な姿を晒していることに気付いて、それに耐えられなくなったのだろう。

 後輩相手に威勢を放っていたが、彼女には敵わないことを理解したらしい。


「じゃあ私と先輩たちに謝って下さい」

「……ごめんなさい」


 まさか阿久津の謝罪が聞けるとは。それは確かに彼女の口から聞こえた言葉だ。

 それを聞いたマキは素直に阿久津を下ろす。だが俺は知っている、阿久津はそれで終わらないことを。


「待て、まだ離すな。こいつは――」

「帰るっス」


 解放された阿久津は騙し討ちも企てず、肩を落としながら大人しく去っていった。


 はっきり言って拍子抜けだ。


 実物よりも大きく見えるその背中が、俺にはとても小さく感じる。あの阿久津が反撃を諦めてしまったのだ。


「田中くん?」


 生徒会長に呼び止められて、阿久津を追いかけようとした足が止まった。


 俺は何を考えているんだ。あんなやつ、どうでも良いじゃないか。


「では邪魔者が消えたと言うことで、始めましょうか」


 生徒会長が仕切り直しをした瞬間である。


「なんで誰も追いかけて来ないんスか!」


 乱暴に教室の引き戸をこじ開け、阿久津が戻って来た。


 呆気に取られていると、彼女は俺が耳にかけていたメガネを奪い取って、そのまま逃走してしまった。

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