第24話 音々と牧田

 放課後、俺は職員室の前で珍しい光景を見た。


 生徒会長と阿久津が談笑している。


 それを目撃した瞬間、俺は逃げるように引き返した。


 このまま生徒会室に向かうと、彼女たちに気付かれる可能性がある。

 生徒会長単体ならまだしも、阿久津に見つけると厄介だ。


 俺は何事もなかったかのように校舎の外に出ると、迂回して逆側の階段から生徒会室へ向かった。


 生徒会室の扉を開けると、牧田の姿を見つけた。

 彼女の様子を見て、俺はホッとした。


 牧田はいつものように右奥の席でノートパソコンを開いて、キーボードをカタカタ叩いている。


 昼休みの件があって心配していたが、すっかり元通りである。


 軽く会釈えしゃくをして部屋に入ると、俺は左側の席に腰を下ろした。


 先程見たことは忘れて、いつもの日常に戻ろう。


 ――今週末にある、生徒会補充選挙。

 これが終わるまでは生徒会は舵を取れない状況であり、言ってしまえば仕事がない。


 俺はこの退屈を有効活用すべく、タブレットを開いた。

 昼休みは色々と邪魔が入って本が読めなかったが、これでようやく落ち着いて読める。


 ――『白人伝~白人はなぜ世界のトップに立てたのか』


 エジプトやメソポタミア、中国やモンゴル帝国、オスマン帝国、インカ帝国。これらの大国が衰退し、なぜヨーロッパを中心とした白人の天下になったのか。土地、気候、小麦、病原体、宗教など、さまざまな視点から考察していく人類史。今流行りの書籍だ。


 この作品が、俺の契約している読み放題のサブスクサービスに、先日追加された。


 今日はこれを読めるところまで読もう。

 作品は既に自宅のWi-Fiでダウンロード済みだ。


 ……だったはずだが。


 ダウンロードが上手く完了していなかった。


 だが頭を抱える必要はない。

 牧田いわく、この部屋は下の階の職員室のWi-Fiが使えるらしい。


「すまん牧田。Wi-FiのIDとパスワードを教えてくれないか?」


 俺の斜め前に座る彼女は今、それにノートパソコンを接続してネットに繋いでいる。

 どうやってそれを入手したのかは知らないが、今は彼女が頼りだ。


「タブレットですか? 口で言うのめんどくさいんで、それ貸して下さい。私が直接設定しますんで」


「助かる」と一言添え、俺はロック画面を解除したまま彼女にタブレットを手渡した。


 彼女の手に渡った、その瞬間である。


「ちーっス! マキちゃんはいるっスか?」


 壊れるかと思うくらい勢いよく扉を開け、阿久津が生徒会室に現れた。


「わぁっ!」


 彼女が現れたショックと、名指しされた衝撃で、牧田は俺のタブレットを放り投げてしまった。


 一0インチの電子板が、空を舞う。


 俺は立ち上がって、それをキャッチしようとした……届かない。

 タブレットは机を通り過ぎ、重力加速を伴って床に落下する。


「よっ!」


 もうダメだと思い、目を瞑ろうとした瞬間――


 阿久津が前屈みになって、床に落ちる寸前でそれを捕らえた。

 バレリーナのように片足を上げてバランスを取り、持ち前の体幹で軽々と元の姿勢に戻った。


 彼女と一緒に部屋に入ってきた生徒会長が、その一部始終を見て拍手をしている。


 彼女の圧倒的な反射神経と運動神経に、俺は初めて平伏した。


「ダメっスよ投げちゃ。これは実くんの大事なものなんだから」


 阿久津はそう言いながら、俺のタブレットを優しく机に置いた。


 牧田は声にもならない音を漏らして、震えている。


 そんな彼女を見た阿久津は、呆れてため息をついた。


「なに緊張してんスか。会長から聞いたっスよ。マキちゃんが音々のために動画を作ってくれたって」

「ひ、ひぃいいいいい。ご、ごめんなさあああいぃ」


 先ほど生徒会長が阿久津と話していたのはこのことだったらしい。


 牧田の方は未だに緊張しているが、阿久津のベクトルは彼女の方を向き、一歩前進した。


「あーもう、鬱陶うっとうしいっスね!」


 阿久津は落ち着かない牧田に腹を立て、座っている彼女の背後から抱きついた。


「グギウェゴアごうじゅ愛うごふぇうおふぁ

 !」


 突然抱きつかれた牧田は、声にならない叫びを上げる。


 阿久津はお構いなしに、次の攻撃を仕掛けた。


 後ろから脇の下に両手を入れ、くすぐり攻撃。


「あっ……あっ……ああっ……んっ、あっ……あんっ……あっ」

「なんか声がいやらしいっスね。ちょっとムカつくっス」


 そう言って阿久津は攻撃を強めた。


「ああっ、アッ! あっあっ、あッ、ああっ! ああんアアアァアッ! ンハハハハァ! アハハハハン!」


 陸に上げられた魚のように、体をくねらせながら牧田は叫ぶ。


 生徒会長は口を押さえて笑っている。


 その反応とは対照的に、俺は冷静に阿久津の行動を評価していた。

 くすぐりにより緊張状態を解こうとする、彼女の機転に。


 牧田が過呼吸になったところで終了。

 彼女は乱した髪を垂らして俯きながら、息を整える。


「落ち着いたっスか?」

「はぁ、はぁ、はぁ……ね、音々……先ぱ、い。ありがとう、ござい……ます」


 落ち着いた牧田は、ようやく阿久津と言葉を交わした。


 阿久津は腕を組んで先輩風を吹かしている。


「じゃあ、隣失礼するっスね」


 彼女は牧田の隣の椅子を引いて、そこに座ると、椅子を引いて牧田の体に寄せた。


「動画は今見れるんスか? ノーパソに入ってるんだったら、見たいっス」


 彼女はノートパソコンを指差しながら、声を踊らせる。


「も、勿論です! ちょっと待って下さいね」

「あ、私も見たいかも」


 牧田が返事してパソコンに向かうと、釣られて生徒会長も歩み寄り、牧田と阿久津の間に立ち、画面を覗き込んだ。


 動画の編集自体は終わったのだが、完成品を見るのは初めてである。


 気にならないことはないが、今の俺の関心は『白人伝』である。

 今彼女たちをさえぎって牧田からWi-Fiのパスワードを聞くのは骨が折れる。

 牧田の時間が空くまで待つにしても、かなりの時間がかかりそうである。


 ……俺は帰宅することにした。


 タブレットをリュックに仕舞って、静かに席を立つ。


「あれ? 実くんどこ行くんスか?」


 阿久津が俺の動きに気付き、声を掛ける。


「ちょっと……トイレに、だな」絡まれると面倒なので、嘘をいた。


 彼女は手を伸ばして、俺のブレザーを掴む。


「離してくれ、漏れそうだ」「なんでトイレに鞄持って行くんスか?」「そ、それは……貴重品が、入ってるからな」「なんか怪しいっスねぇ」


 阿久津は椅子の上からお尻を滑らせ、机の下に収納していた膝をこちらに向けて立ち上がる。


 あっという間に俺の胸元に潜り込み、両手を伸ばし、俺の脇をくすぐった。


「ンフ、や、やめろ、フフン……」

「さぁ実くん。くっスよ、本当のことを」

「わ、分かったから……ンフン、もう……辞めてくれ」


 俺は観念し、帰るつもりだったことを彼女に伝えた。


「音々と一緒に見ないんスか? 実くんも、一緒に手伝ってくれたんスよね?」

「どうせ投稿するなら、あとでMytubeで見ればいいんだろ。俺はこれからどうしても読みたい本があるんだ」

「本は逃げないし、腐らないっスよ。後でゆっくり読めばいいんス」

「それは動画も同じだ。後で見てやると言ってるだろ」

「ひどいっス! 音々より本の方が大事なんっスか!」


 俺は真顔でうなずく。


「うわあああん、ひどい、ひどいよおおお」


 阿久津はわざとらしい泣き声を出しなら、牧田の元へ行き、彼女の膝に顔を埋める。


「ダメじゃないですか、音々ちゃ……ネオン先輩を泣かしちゃ」

「誰がどう見ても嘘泣きだろ。もう帰ってもいいか?」


 牧田は鼻息を荒らしながら、阿久津の頭を撫でる。

 彼女は分かっていながら、わざとこの茶番に付き合っているのだ。


 これ以上は付き合いきれいなので、俺は扉に手を掛けた。


「田中先輩、いいんですか? 帰ってしまっても」


 牧田が呼び止めるが、俺を止める楔はない。


「Wi-FiのIDとパスワード。私の気分次第では、一生教えないかも」


 ……その手があったか。


 今後生徒会で過ごすには、Wi-Fiの有無は死活問題である。

 これがある限り、俺は牧田に逆らえない。


 悔しいが従うしかなく、俺は『白人伝』を諦め、動画視聴に参加した。


 阿久津はケロッとした顔で席に戻り、足をバタバタさせている。


「じゃあ、再生しますね」






 動画は簡潔で見所もあり分かりやすく、五分ほどの尺でまとめられていた。


「音々先輩、どうですか?」

 マキタが恐る恐る、阿久津に尋ねる。


「……いいっス。凄いっスよ、マキちゃん! 音々の期待以上っス! 天才っスか?」

「うbヴィエアbごヴェqgゔぉくぅvpwqvぬあbふおえキエーッ!」


 阿久津に抱きつかれて、牧田は歓喜のあまり謎の奇声を発する。


 俺と生徒会長は互いに顔を見合わせ呆れていた。

 そろそろ牧田には慣れてもらって、耐性を付けてもらいたい。


「うん、いいんじゃないかな。Mytubeに投稿しても違和感無いレベルだ」

「うわっ、ビックリした! カルロス、いたのか。いつの間に」


 後ろから突然声がしたので振り向くと、カルロスが俺の背後に立っていた。


「え、あの……僕、最初からずっといたんだけど。って言うか僕、オチ担当?」


 訳の分からないことを言うカルロスのことは一旦忘れよう。


 それから阿久津と牧田は入念に最後の仕上げ――動画投稿の作業を行なった。

 タイトル設定、動画説明文、タグ、サムネイルなど、考えることが多いらしい。ちなみに事前に必要であるチャンネルというものは、阿久津が事前に作っていた。


 チャンネル名は『ねおんちゃんねる』。


 そして『ねおんちゃんねる』に一本の動画が投稿される――

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