第5話 形勢逆転

「………………もういいっス」


 彼女がふと呟いたそんな声を耳にすると、俺の腹部を圧迫していたものが消えた。

 ぼんやりと正面に映っていた阿久津の姿がない。


「阿久津?」


 俺は彼女がマウントポジションを解いたことを理解した。


「解放してくれるのか?」


 体をゆっくりと起こしながら、恐る恐る彼女に尋ねる。


 一度彼女の言葉を信じて裏切られた経験があるので、警戒せざるを得ない。

 俺は無意識に両手を胸の前に構えていた。


「安心して大丈夫っスよ。もう実くんに暴力しないっス」

「なぜだ?」

「同情っス。音々は優しいから、かわいそうな実くんを見逃してあげる。ただそれだけっス」

「なっ……」


 開いた口が塞がらないとはこのことだ。

 その発言に対して、指摘したいことが山ほどある。

 たくさんの罵詈雑言が頭の中から湧いてくるが、脳のフィルターを通して阿久津を煽りすぎない言葉を抽出する。


 そして最終的に導き出されたセリフを返した。


「随分な物言いだな」


 そう言い捨てながら、俺はゆっくり立ち上がった。

 乱れた襟を正して、袖と背中に付着した埃を手で払う。


「ああ、すまん」


 阿久津が手渡してきたのは、膝蹴りのせいで床に飛んでしまったメガネ。

 俺は何も疑わずにそれを受け取り、装着する。


 視界良好。フレームもレンズも無事。これで阿久津の姿をしっかり見ることができる。


「はっ、しまった!」


 メガネで視界が開けた瞬間、小柄な彼女は軽い足取りで俺の背後へ回った。

 体の一部であるメガネを取り戻し安心し、俺は彼女に対して気を緩めてしまった。


 警戒して背中に力をぐっと込める。


「何ビビってんスか?」


 彼女はそう言って俺の背中をポンと叩いた。

 どうやら自分の背中が見えない俺の代わりに、埃を払ってくれているらしい。


 力を込めていた背中を脱力させ、俺は強がる言葉を吐いた。


「け、警戒して当然だ。俺はお前を許していない」

「そうっスか」


 彼女は覇気のない声で相槌を返す。


 ここで謝罪に一つでも入れてくれれば、少しは気を許せたものだが、彼女はその一言を添えない。


 悪逆無道、暴虐非道、唯我独尊、人面獣心。幼稚な表現にはなるが『じゃじゃ馬』が一番近いかもしれない。


 とにかく彼女は、自分の我を貫くためなら、ルールや常識を顧みない人間だ。


 普通、校則を守って身だしなみをきちんとする。

 普通、常識を守って学校にボーリング玉を持ち込まない。

 普通、ルールを守って侵入禁止の屋上に入らない。

 普通、ほぼ初対面の人間に暴力を振るわない。


 そんな誰もが自分に持っている枷をものともせず、気が赴くまま行動するのが彼女だ。


 俺は阿久津音々という人間のことを、少し理解した気がする。

 だから――


「お前はそれでいい。暴力はいけないことだが、自分を傷付けるよりはマシだ」

「自分を傷付ける? 実くん、見た目で判断してないっスか? 音々はメンヘラじゃないっスよ」


 彼女はそう言って俺の背中を雑に叩くと、ポケットに手を入れながら俺の正面に回った。


 ワザとらしく頬を膨らませながら、不満げな表情をこちらに見せつけている。


 遠回しな言い方をしたせいで互いに齟齬そごが生じてしまったので、俺は詳細を加えて一度確認した。


「ちょっと待て。お前が屋上にいたは、死のうとしていたからじゃないのか?」

「ぷっ、マジっスか? 音々が飛び降り自殺すると思ってたんスか?」阿久津は鼻で笑う。

「昼休みに職員室でお前が説教されたのを見て、てっきりそれが原因かと……」

「あんなの日常茶飯事っスよ。大人は音々のこと何も分かってない。音々はただ、好きなことをして生きたいだけ」


 そう言って彼女は左手の甲を見せながらポーズを取る。

 顔の下に添えられた左手から小指と人差し指をピンと伸ばし、その指の間に食い込むように長い舌をべーと出した。


「うっ……」


 舌の中心に刺さった小さな銀色の玉。それがピアスだと気づいた瞬間、俺は気分が悪くなって目を背けた。


「あれ、もしかしてピアス苦手っスか? 耳も凄いっスよ。ほらほら」


 俺の反応が面白かったのか、彼女はからかうように髪をかき上げて耳元の金属をジャラジャラさせながら、俺の正面に回り込む。


 逃げる俺の手を掴むと、耳のピアスを触らせるために引き寄せようとした。


「やめてくれ、気持ち悪い。そもそもピアスなんて、自傷行為の最たる例じゃないか」

「ファッションすよ。髪もメイクもピアスも……あと服も。音々の個性っス」


 好きで奇抜なファッションをしていることは否定しないが、俺にそれを見せつけるの

 はやめてくれ。

「そ、そんなことより。自殺じゃないならなぜ屋上にいた?」


 俺は矛先を逸らすために、話題を変えた。


「またそれっスか? 実くんには教えないっス」


 彼女はそう言うと、近くの机の上に腰掛けた。


「やはり犯罪行為か?」

「音々はそんな悪い子じゃないっス」


 阿久津は首を横に振り、口を尖らせる。


 慌てるどころか、それを言われて不満そうな態度。後ろめたさは感じないので、嘘は吐いてなさそうだ。


「実くんが音々の雑用係になるなら、教えてあげてもいいっすスよ」

「なら俺は、教師にお前がしたことを報告するまでだ。これでお前は屋上を使えなくなるぞ」

「勝手にどうぞ。仕方ないから、屋上は諦めるっス」


 おどしのつもりで告げたが、彼女はあっさり屋上を手放した。

 あれだけ暴力で口封じをしようとしていたのに、あっけなくだ。


 俺は彼女が隠しているそれが、気になり始めた。


「もしかしてそれは、屋上以外の場所でもできることなのか?」

「他人に邪魔されなかったら、どこでもいいっス。屋上は邪魔が入らないから、好都合だったんスよ」

「邪魔とは、物理的なものか? それとも音か?」

「さ、さぁ。どうなんっすかね」


 阿久津は動揺を見せた。特に『音』の部分に。


 恐らくこの質問は核心を突いている。

 もう少し攻めてみるか。


「なら家でやればいいだろう。家の中なら誰にも邪魔されない」

「それは無理っスよ。音々の家、兄妹多くて狭いから」

「そうか」

 つまり、ある程度の広さと他人に干渉されない空間が必要だと言うことだ。

「それを始めて長いのか?」

「いや、最近始めたとこっスね」


 この質問にはあっさり答えてくれた。


 素早い返答とその解答の内容。あまり重要ではなさそうなので、一旦保留。


「っていうか探偵ごっこのつもりっスか? どうせスマホ嫌いの実くんには、一生解らないことっスよ」


 阿久津はそう言いながら、机の上から足をフラフラさせて遊ぶ。

 クイズの出題者として勝ち誇った表情だ。俺には一生解けないと思い、自惚れている。


「俺がスマホ嫌いだと? まぁ、あながち間違いではないが……」


 スマホが関係していると確信した。


 俺が絶対にやらないことだ。


 ある程度の広い場所が必要で、雑音が入るとまずい行為。

 スマホで、

 広い場所で、

 雑音がNG。


「……動画撮影か。それも、Luckystargram《ラキスタ》やTicTac《チックタック》のような短い動画ではなく、長い動画――Mytube《マイチューブ》だな」

「なっ……」


 阿久津は口を大きく開けながら、大きくのけぞる。

 そしてそのまま机の上から後ろに倒れそうになった。


「おい阿久津」――大丈夫か? と言葉を付け足す前に、彼女は踏ん張って元の姿勢に戻った。


 流石さすがの運動神経だと感心したが、感心したのは向こうもらしい。


「なんで、分かったんスか?」


 彼女は驚きよりも尊敬の眼差しを向けて、こちらを見ている。


 今まで散々やられてきたが、少しは阿久津を見返せたみたいだ。

 主導権を手に入れた俺は、鼻を高くして答える。


「いわゆる『水平思考ゲーム』ってやつだな。お前は分かりやすくて簡単だった」


 まさか一発目で的中するとは思わなかったが、それは黙っておこう。

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