第13話 動画撮影
4畳半ほどの薄暗い空間。部屋にあるのは白いテーブルと白い壁の隅に張り付いた黒のソファー、それに一台のつけっぱなしのテレビだ。
阿久津は部屋に入ると、慣れた手つきで自分のカバンをテーブルの上に放り投げた。
「実くん、もしかしてカラオケに来るの初めてなんスか?」
当然彼女の言う通り、俺はカラオケに来たことがない。俺はどうすればいいか分からず、扉の前で立ち
すると突然、こちらを向いた阿久津が俺の肩の横にある壁に手を付いた。
お互いの息がかかりそうな距離に顔が近付く。薄暗く、微かに聞こえるBGMの雰囲気のせいか、自然と鼓動が高まる。
「い、いきなりどう言うつもりだ」
「あーもう、いちいち反応がめんどくせぇっスね。心配しなくても壁ドンなんかじゃないっスよ」
阿久津が
どうやら壁に手をついたのは、そこにある証明のスイッチを触るためだったらしい。
俺は要らぬ心配をしてしまったようだ。
「そこに突っ立てられると
「ああ、そうだな。すまない」
俺が一番近くのソファーに腰を下ろすと、阿久津はテレビの方へ向かった。彼女が何やら機械の下の方を弄ると、今度はテレビの音量が下がった。
「なるほど、これなら動画撮影に適しているな。カラオケボックスは盲点だった」
初めて入った時はどうかと思ったが、今は静かで明るい普通の場所だ。机とソファーがあり、もし使おうと思えばマイクもある。カラオケの性質上、会議室と違って騒いでも迷惑にならない。
「毎回使えたら良いんスけど、そんなに金はねぇんスよ。さぁ、時間も
阿久津は部屋のセッティングが終わると、今度は機材を取り出した。
……と言っても使う機材は阿久津のスマホである。俺がそれを構えて彼女の指示通り録画ボタンを押すだけ。
そしてもう一つが、コンビニで買ってきたカップ麺である。今回はそれを食べる動画を撮るらしいのだが、それの何が面白いのか、俺にはまだ理解出来なかった。
「すいません、失礼しまーす」
「あ、来たっスね」
彼女のスマホを受け取ろうとした瞬間、店員が突然この部屋に訪ねて来た。
「こちら『ピザマルゲリータ』です。取り皿とおしぼり、タバスコも置いておきますので、ご自由にお使い下さい」
知らぬ間に阿久津はピザを注文していたらしい。店員が部屋から出ると、俺は彼女に確認した。
「カップ麺とピザを食べる様子を、俺は撮ればいいのか?」
「ピザは別にどうでもいいんスよ。音々が欲しかったのはこっちっス」
彼女が指差したのは、テーブルに置かれた小さな赤い瓶。
「阿久津、お前まさか……」
阿久津の買ったカップ麺は、見るからに辛そうなパッケージをしていた。嫌な予感がするが、今回それを食べるのは俺ではなく彼女である。
「本当に良いんだな? 俺は動画を撮るだけだぞ」
俺はそう言いながら立ち上がり、少し距離を取ってスマホを構える。
彼女は平然とした顔で、首を縦に振った。
そしてテーブルの上を整理すると「よし、準備OKっスよ」と俺に合図を送る。
「……じゃあ、ボタンを押すからな。3、2、1……スタート!」
そして動画撮影が始まった。
「えーっと、今日はこの
スマホの画面には――阿久津の上半身と、テーブルの上には辛辛麺と言うカップ麺、そして彼女の右手にはタバスコが握られている――が映っている。
そして動画を盛り上げるために、セリフを言い終えると彼女は
拍手を終えると、次の説明に入る。
「辛辛麺くらいみんな知ってるっスよね。とにかく、見た目通りめちゃくちゃ辛いラーメンっス。ちなみに音々はあんまり辛いのは得意じゃなくて……とまぁ、だらだらと話しても仕方ないので、早速お湯を注いで食べるっスよ」
セリフを一旦言い終えると、阿久津は無言になって固まってしまった。
少し心配になったが、カメラを回している都合上、俺が声を出すわけにはいかない。
「いつまで動画回してるんスか? 一旦終わりっスよ」
「え、もう終わりなのか?」
俺は彼女に言われた通り録画ボタンを停止させると、押し殺していた声を発した。
「今からお湯を注ぐんだろ? だったら録画を止めなくても良かったんじゃないか?」
「誰がそんなつまらない映像見るんスか。そんなシーンをいちいち撮る必要は無いんっスよ。次のテイクはお湯入れて3分後からっス」
「な、なるほど」その意見には同意しかない。
「……じゃあお湯入れに行くっスよ」
急かす阿久津に連れてこられたのは、廊下に設置してあるドリンクバーであった。
ホットドリンクのコーナーでカップ麺にお湯を注ぎ、次いでに給水用のソフトドリンクも運ぶ。それらをテーブルの上に並べると、動画撮影が再開された。
「3、2、1、スタート」
「はい。ってことでお湯入れてきたから、今からタバスコを入れていくっス。まずその前に」
阿久津の手招きで俺はカメラを寄せた。タバスコを入れる前の様子を映せと言うことらしい。
青いネイルが塗りたくられた指で
阿久津は顔を近付けて匂いを確認する。
「ふーん、まぁこれくらいなら行けそうっスね。ちょっと一口食べてみるっス」
彼女がそう言い出したので、俺はカメラを元の位置に戻した。
阿久津は割り箸で麺を掴んで、口に運ぶ。
「うん、うん。余裕っスね。いけるいける」
と言っていたのは束の間。
「……ブッ! ゴホッゴホッ!」
むせ返って、口の中身を吐き出してしまった。
カメラを構える俺は、その光景が面白くて肩を震わせる。
「ゲッホゲッホ! あー、辛い辛い」
俺が阿久津に
「ふふ、はははははは」
ついに俺は吹き出してしまった。
「あーもう、カメラストップ! 実くん、笑い過ぎっスよ」
「すまない……いや、ふふふ。ははははは」
これほど笑ったのはいつぶりだろうか。
読書体験では得ることの出来ない
それだけに、笑いながらも少し寂しい気持ちも生まれる。
……阿久津は停学になってしまうのだ。
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