第12話 現代編 空と海の狭間で
風が吹いていた。
遮るものは何もなく、足元からは波の音が聞こえてくる。
見上げれば鉛色の空が、見下ろせば暗い海がどこまでも広がっている。
不吉な空と海の狭間に、ごつごつした岩壁がむき出しになった岬が突き出していた。
探していた小さな姿をその舳先に発見した瞬間、
眼前に広がっていたのは、あまりにもイメージどおりの光景だったから。
絶壁にひとり。
彼女が――
考えるまでもなかったし、考えたくもなかったし、考えている場合でもなかった。
「と、とお、るさ……」
さんざん走り回って疲労困憊で汗まみれな篤志の口から漏れた掠れた声は、風に引き千切られて消えた。
震える喉はヒューヒューと鳴るだけで、乾いた唇はそれ以上意味のある言葉を紡ぐことはできなかった。
もし、透が足を踏み外したら……否、足を踏み出したらすべてが終わる。
想像するだけで背筋が凍る、最悪の展開。
――あとちょっとなんだ。どうか、踏みとどまってくれよ。
心の中でどこかの誰かに祈りを捧げつつ、まともに言うことを聞かない身体を引きずって接近を試みる。
幸いというべきか、それとももともと予定はなかったのか。
篤志が透に十分に近づくまでの間に、彼女は微動だにしなかった。
前に進むこともなく、後ろに退くこともなく。ただ、そこに立ち尽くしていた。
「透さん!」
呼吸を整え、あらん限りの声で叫んだつもりだったが、大した声は出なかった。
びょうびょうと風が吹きすさぶ中で透の耳に届くか心配であったが、小さな身体をびくりと震わせた透は、ゆっくりと振り向いて――目を大きく見開いた。
風に揺れはためくポニーテールが、痛々しかった。
「
絶句、そして戸惑い気味の声が続いた。
決して大きくはなかったが、聞き逃すことはなかった。
ただ……振り向いた上にほんのわずかに身を引いたせいで、篤志としては気が気でない。
それだけ海に近づいたということだから。
「ど、どうしても、何も、お、追いかけてきたに、きき決まってるだろッ……ごほっ」
「だ、大丈夫ですか? なんだか大変なことになっていますが」
「大変って、俺は別に」
『なんともない』と言いかけて、ふと自分の体を見下ろして、口が強張った。
宿を出るときに着替えなかったせいで浴衣のまま。
さんざん走り回ったおかげで裾は乱れ、帯が外れかかっている。
全身汗みずくで髪はぼさぼさ。
呼吸は荒く、『はぁはぁ』と不気味な吐息が混ざっている。
控えめに言って変態だった。
「……」
「……」
殺風景に過ぎる岬に沈黙が下りる。
お互いに顔を見合わせて、何とも言い難い表情を浮かべてしまった。
ややあって――
「お、俺のことはどうでもいいし!」
「誤魔化しましたね」
耳にするだけで背筋が震えてしまうはずのフラットな声。
今この時に耳に馴染んだ声が聞こえて、ちょっとホッとした。
緩みかけた口元を引き結んだ。状況は何も改善されていない。
「どうでもいいの! 透さん、こんなところで何してんの?」
「……海を見ていました」
透は露骨に視線を逸らした。
口元にいびつな笑みを浮かべながら。
「海なら、あっちで見ればいいじゃん」
指さした先に広がっている砂浜は、やはり殺風景だった。
冬が近いから仕方がない。季節外れにも程がある。
それでも、こんなところよりはマシだろう。
そう続けると、透は寂しげに首を横に振った。
「大久保さんは、どうして私を追いかけてきたんですか?」
『追いかけてきた』
透はそう口にした。
偶然ここで出会ったとは考えていない。
追われるだけの『何か』をしようとしていると白状しているようなものだ。
「それは……」
思わず言いよどんだ。
きっかけは『なんとなく胸騒ぎがした』だった。
でも……透の姿を求めて駆け回っているうちに、篤志の心を寒からしめる原因に思い当たった。正確には思い出した。思い出してしまった。
口にすべきか否か迷い、決断した。
先の言動から察するに透は自覚している。ごまかしても意味がない。
「さっき宿で透さんと別れた時さ、似てたんだよ」
「似てる? 私が? 何にですか?」
「ミミちゃん」
「誰ですか、それは」
氷柱を髣髴とさせる声だった。
冷たくて、尖っていて、正面から突き刺さった篤志の胸を凍て付かせる。
「ちょ、ちょっと待って。猫、猫だから。俺が昔飼ってた猫!」
「猫……ですか」
「そう。だから落ち着いて」
透の反応はいまいち解せないものだったが、篤志は本能的に言葉をチョイスしていた。
殺気立っていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
さっきまでの寂寥たる彼女に戻っただけの話ではあるが。
「俺がガキの頃に飼ってた猫。家族みんなで可愛がってたんだけど、ある日突然いなくなってさ。なんか、その時のことを思い出したんだよ」
「……その猫、結構年を取ってたりしました?」
「ああ」
透の問いに頷いた。
続く言葉も予想がついた。
「だったら、その猫は最期の姿を大久保さんに見せたくなかったんでしょうね」
「同感」
「その猫と私が被って見えた、つまり私が……」
その先は言わせなかった。
ただ黙って首を縦に振った。
再び沈黙が下りる。
重い、ただひたすらに重い沈黙だった。
「別に……最初から決めていたわけではありませんよ」
沈黙を破ったのは透だった。
風になぶられる髪を抑えながら、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「ここに、この街に来たのは、ひとりで考える時間が欲しかったんです」
「飛び降りるつもりはなかった?」
かすかな期待を込めて尋ねると――透は首を横に振った。
呼吸が止まった。心臓が握りつぶされそうな苦しみを胸が訴えてくる。
「いえ。考えてみて、やっぱり駄目だと思いました」
「
その問いに、透はほんの少しだけ頭を揺らした。
ポニーテールが風に舞いながら、縦に流れる。
決して短くはない沈黙があった。
「後から考えてみれば……高校の時、大久保さんに協力してもらったあの時が……ダメだったんでしょうね」
「それは……」
「ごめんなさい。大久保さんを悪く言うつもりはないんです。あの時、私は許してしまった。あの人を失う恐怖に負けて、安易に妥協してしまった。きっと……それがよくなかった」
『結果論ですが』と前置きした上で透は続ける。
風祭は反省した。それは間違いない。
同時に理解した。謝れば透は許してくれる、と。
それが盛大な勘違いであることに気づかなかった。
あるいは気づいていたのかもしれないが、気にもかけなかった。
「地元を離れていた大久保さんはご存じないでしょうが、夫の浮気は今回が初めてじゃないんです」
「……」
衝撃的な告白に今度は篤志が絶句させられる。
浮気の可能性は考慮していたが、初犯だとばかり思っていたのだ。
それが違うとなると――
「大学に入っても、就職しても、そして結婚しても。事あるごとにあの人は浮ついて。でも、私も許してしまうんです。あの人のことは好きでした。愛していました。それに、もともと家族ぐるみで付き合いがあったから、あまり揉めたくなかった。あの人のご両親は本当にいい人なんです。でも……あとは悪循環ですね」
浮気されて、喧嘩して、許して。
許されるから、また浮気する。
透と風祭の関係は、ずっとそんな感じだったと言う。
話を聞かされて、想像するだけでウンザリする。
実体験した本人の心中は如何ばかりか、思いを馳せることすら叶わない。
――透さん……
かけるべき言葉が見つからなかった。
自分の恋と、そして失恋から目を逸らすために姿を消した篤志に、いったい何を言う資格があるだろう?
ある意味では篤志もまた彼女を追い詰めていたのだ。
こんなことになるとわかっていたら……すべてが遅かった。
「ふふっ、見てください。もう……涙も出ないんです」
乾いた笑顔と掠れた声。
これがあの『
再会した時から予感はあったが現実を認めたくなかった。
自分が失恋したのだから、彼女は幸せになっていなければいけないと思い込もうとした。
それもまた過ちだった。間違っていることはわかるのに正解がわからない。
でも――
「透さん、そっち行っていい?」
「ダメです」
「って言われても行くけど」
答えが見つからなくとも、立ち尽くしているわけにもいかない。
今の透はあまりにも危うい。こうして話している間にも、ふっと飛び降りてしまいそうな儚さをまとっている。
思い返してみれば彼女の情緒はずっと不安定だった。
時折見せる寂しそうな顔。高校時代と変わらぬ笑み。ふとしたことで弾ける怒り。
結婚しているくせに、旧知の馴染みとは言え余所の男の部屋で飯を食って酒を飲んで。
意識を失うほどに酔いつぶれ、挙句の果てに泥酔する。
感情の振れ幅が大きすぎるし、危機意識が決定的に欠落している。
後のことを、未来を見ようとしていない。その気力がもう残っていない。
「どうして……今になって大久保さんがいるんです!」
俯いて身体を震わせていて、篤志が目と鼻の先に来るなり爆発した。
大粒の瞳に涙はなかった。
『涙も出ない』と彼女は言った。嘘ではなかった。
それが、あまりにも痛々しい。
「偶然だよ」
「あの時だって、あの時だって!」
「それも偶然」
「偶然、偶然って……偶然で私の邪魔をしないでッ! もう嫌なんです、何もかも! つらいんです。苦しいんです。こんなことになるなら、いっそ……」
「ごめんな。余計なお世話かもしれんけど……俺、透さんに死んでほしくねーんだわ」
透の頭に手を置いて撫でた。
ゆっくりと、何度も。
「……ッ!」
透は俯いて顔を隠してしまった。
表情を窺い知ることはできない。
それでも頭を撫で続けた。
「繰り返しになっちまうけど、ごめんな。『困ったことがあったら何でも言え』って言っといて、透さんを放ってひとりで東京なんて行っちまって」
しばらくなされるがままだった透の声が、風の狭間に耳を掠める。
微かに肩が震えている。
「……いてください」
「え、聞こえない」
「後ろ、向いていてください」
「そんなこと言って、飛び降りたりしない?」
「飛び降りませんから、早く」
「……わかった」
頷きはしたものの、正直に言えば不安はあった。
透が嘘をつくとは思えなかったが、ここまで思い詰めているとなると何をしでかすかわからない。
それでも、彼女の願いを叶えたい気持ちが勝って背中を向けた。
とん
背中に軽い衝撃があった。
透が頭を置いたのだと気が付いた。
両手が添えられて、乱れた浴衣に顔をうずめて。
やがて熱い液体がシミを作って、言葉にならない嘆きが耳朶を打った。
――透さん、泣けたじゃねぇか。
篤志は何も言わなかった。
ただ黙って、その場で背中を貸した。
慟哭する透のために他にできそうなことが、何ひとつ思い当たらなかった。
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