第5話 現代編 十年後の君は、罪の味 その3

 差し込んでくる太陽の光を顔に受けて、篤志あつしはゆっくりと目を開けた。

 全身が気だるく、それでいて心地よい。かつてない起床感だった。

 布団がちゃんと肩までかけられていたことに驚きを覚えた。いつもは寝相が悪いのに。

 そして――左半身が妙に暖かく、柔らかいものが押し付けられていて。

 重いような、軽いような。

 知っているような、知らないような。

 どうにも言語化し難い奇妙な感覚に思わず眉を寄せた。


――ん? なんだっけ?


 脳内がかすんでいて思考が定まらない。

 何かとても大切なことがあった気がしたのだが。

 鼻先をくすぐる甘い香りが意識を濁らせる。


「んぁ~」


 声は出たが言葉にならない。

 金縛りとは違う、気絶しているわけでもない。

 不快ではない。恐怖を覚えるわけでもない。

 ただ――


 左。

 左側。

 左を向け、早く。

 頭の片隅から声が聞こえた。

 左、左と……どこぞのコントみたいに。

 こういう胡散臭い声には従わないの一択である。

 案の定、しばらくぐずっていたら声は消えた。

 相変わらず左半身に重みがあり、思うようには動かせない。

 さりとて何かしら問題が発生しているわけでもない。


――まぁ、いいか。もうひと眠りしよ。


 せっかく温泉くんだりまで来ているのだ。

 あくせく働くこともなければ、アラームに急き立てられることもない。

 夜討ち朝駆けがデフォルトな担当編集とバチバチやらかすこともない。

 ぬるま湯じみた幸福感を享受すべく、再び目を閉じながら寝返りを打つと――黒い瞳と目が合った。  

 穏やかな眼差しの柔らかい笑顔が返ってくる。


「おはようございます、篤志さん」


「おはよう、とおるさん」


――あれ?


 ごく自然に口をついて出た挨拶に違和感を覚えた。

 聞き覚えのある声と聞き覚えのない呼び名。

『篤志さん』って誰だっけ? 

 あ、俺だ。

 納得。

 うんうんと頷いて透に抱き着くと、ゆっくり目蓋が落ちて、そのまま意識が闇へ――


「うおっ!? 透さん? 透さん何で!?」


 慌てて跳ね起きて距離を取ろうとしたが無理だった。

 透の手が篤志の腰に絡まっていたし、布団の外は微妙に寒くて身体が脳の命令を拒絶する。


「あの、その反応は傷つくんですが……」


「いや、だって、透さんって、透さんが、透さんに、ってあれ?」


 混乱の坩堝に放り込まれた篤志は、意味をなさない言葉を吐きながら記憶を遡行させる。

 昨日、自殺未遂(と認識している)をやらかした透を連れて宿に戻り、風呂に入って一緒に夕食を摂ってお酒に酔って。

 十年間胸の奥に秘めていた思いの丈をぶちまけて、受け入れてもらえて。

 そのまま透をお姫様抱っこで布団に横たえて、唇を奪って。

 そして、そして――


「あ、ああ、ああああああ」


 反射的に透に背を向けて頭を抱え込んだ。

 昨晩の記憶が完全に甦ってしまったから。


風祭 透かざまつり とおる』と肉体関係を持った。

 それは身も蓋もない表現をするならば、浮気だ。否、浮気をしたのは透だった。

 篤志は独身だから浮気にはならないが、不貞行為であることは間違いない。

 社会的にはネガティブな行為であり、善性と規律の人である透だけでなく、ちゃらんぽらんな篤志をして一線を越えるには並々ならぬ勇気を要した。

 透は精神的に追い詰められていて、しこたま酒を干していて。

 篤志は――特に何もなかった。勢い任せに欲望を露わにしたものの、正気のままだった。

 判断能力に疑念がある人妻を言いくるめて……これはもう言い訳なんてしようもないほどのクズ。我が事ながら認めざるを得ない。『大久保 篤志おおくぼ あつし』は最低のクズだ、と。

 でも、それでも透が欲しかった。すべてを投げうってでも欲しかった。

 罪悪感はあったし後ろめたさはあったけど、後悔はなかった。

 むしろ十年来の本懐を成し遂げたというふしだらな爽快感すら覚えるほどだった。

 

 篤志が頭を抱えている問題は、そこではない。

 問題は別のところにあった。

 不貞行為がどうこうなんて吹っ飛ぶほどの大問題が。

 篤志としては、そこまでやったのだから、勢いに任せて自分がリードしようと思っていたのだ。

 少なくとも、キスした段階ではそう考えていた。


 現実は――まるで違っていた。


 端的に表現するならば篤志は図体が大きくなっただけの子どもで、透は成りは小さくとも立派な大人だったということ。

 征服するつもりが翻弄された。

 甘やかしてほしいと言われたのに、甘やかされた。

 言ってることとやってることが全然違う。迷惑をかけたのではないかと震えが走る。


 湿り気を帯びた嬌声と、獣じみた息遣い。

 お互いの体温を感じあい、お互いの存在を感じあった。

 肌をぬめる汗が交じり合い、吐息を交わしあった。

 何もかもが初めてのことで、何もかもがひたすら心地よい。

 闇夜に踊る透の白い裸身は、ずっと目に焼き付いている。


 その一部始終が透に導かれた結果であることは明白で。

 挙句の果てに先に意識を失ってしまう体たらく。

 

――めちゃめちゃ失望されたような……


 あまりの情けなさに顔を合わせるどころではなかった。

 布団にくるまって悶絶する篤志の背中に、そっと透が寄り添ってくる。

 布地越しに感じる透の存在感に、ショートしかかった思考が軋みを上げる。


「篤志さん、昨日はありがとうございました」


「あ、ああ、その……俺、ちゃんとできてた?」


 口に出してから『何を聞いてるんだ、俺は?』と泣きたくなった。

 生まれてこの方、こんな情けない問いを発した覚えがない。

 おそらく今後もないだろう。あったら困る。死ねる。


「はい」


 端的なひと言。

 余計な修飾を一切省いた肯定。

 全身から力が抜ける。救われたと思った。

『よかった』と心の中で胸を撫で下ろす。


「よかった……」


 口にしてしまっていた。

 口にしたら情けなさが倍増した。


「篤志さんの方こそ、その……私のこと、呆れたりはしませんでしたか?」


「え?」


 何を言われているのかわからなかった。

 恐る恐る振り向くと、透が顔を耳まで真っ赤に染めて、上目遣いで問いかけてくる。

 

「呆れるって、なんで?」


 まるで意図が掴めない。

 話の流れから察するに、昨晩のアレコレに関係することなのだろうが。

 透は――控えめに言って最高だった。

 人生観が丸ごと塗り替わるような夜だった。


「透さんは、すっげぇよかったと思うけど」


「よ、よかったって……その、もう少し言い方をですね」


 向けられる視線がじっとりしたものに変わった。

 単語のチョイスがお気に召さなかったらしい。

 篤志は漫画家である。そこらの人間よりも語彙や表現力には自信があった。


「あ、はい。えっと、すごく可愛かったです」


「……もういいです」


 ついっと視線を逸らされた。

 こちらも正解ではなかったようだ。

 ダメだった。漫画家云々は関係ないし、二十八年の人生がほとんど役に立っていない。


――わかんねーな。


 体勢を戻すと、透が布団をかけ直してくれた。

 おそらく昨夜も篤志が意識を失った後、同じようにしてくれたのだろう。

 事ここに至るまでの状況を詳細に把握して、ちょっと情けなくなった。

 先ほどの肯定も『ひょっとしてリップサービスでは?』と疑い掛けて、やめた。

 仮に篤志の推測どおりだったとしても、そんなことを問い正す意味はない。

 素直に透の厚意に甘えておくことにした。


「透さんに寝顔見られちまったなぁ」


「それ、ふつうは私が言うものですよ」


 ゆるりと微笑んで、おでこを指でつついてくる。

 お返しに背中に手を回して抱き寄せると、小さな身体は抵抗しなかった。

 軽くて暖かくて柔らかい。

 力を入れると壊れてしまいそうなほどに華奢なのに、あまりにも確かな存在感に溢れている。篤志の首に細くて白い腕が巻き付いて、頭の後ろに白い掌を感じた。

 そのまま透が顔を寄せてきたので、目を閉じて軽く唇を重ねる。

 昨晩のような濃厚な唇の奪い合いではなく、挨拶じみたキスを。

 目を開けて、ふたりで笑みを交わした。

 

「いいなぁ、こういうの」


「そうですね」


 こんな時間が永遠に続けばいいと思った。

 浮気は許されざることだと認識している。

 それでも――今この瞬間は幸せだった。

 それは、それだけは間違いなかった。

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