第6話 現代編 十年後の君は、罪の味 その4
「
「そう?」
「はい、とても」
呟きとともに背中に柔らかい感触。
石鹸のぬめりと暖かい体温。
昨晩散々やらかしただけあって、布団の中のふたりは汗まみれ。
決して不快なわけではないが、肌がべた付いているのは間違いなくて。
ならば『とりあえず、風呂に入ろう』ということになって。
あれよあれよという間に『お背中、流しますね』となって、現在に至る。
篤志が宿泊している部屋には個室に温泉が引かれていて、朝早くからふたりでイチャイチャしていても誰に咎められることもない。
思わず鼻歌が漏れた。
昨夜のアレコレを通じて
――まったく、ラブコメかよ。
などと苦笑しつつも、喜びを隠しきれない篤志だった。
季節は冬に向かう頃合いで、空は晴れ渡っているものの微妙に風が吹いていた。
吹きっ晒しの露天風呂に足を踏み入れると肌寒さを覚えたが、今はまったく気にならなかった。
「流しますね」
「お願いします」
普段はなかなか手が届かないところまで丁寧に洗ってもらって、お湯で流してもらって。
きれいさっぱり生まれ変わったような心持ちになる。
実際に、昨日と今日では見えている景色がまるで異なっている気がする。
何と言うか……世界がクリアになった、あるいは彩度が高まった。そんな感じ。
「さんきゅ。それじゃ今度は俺が透さんの背中を流そうかな……なんて」
冗談めいた口ぶりとともに振り向いてみれば、慌てて前を隠した透が頬を赤らめて――頷いた。
「じゃ、じゃあ、お願いします」
「お、おう」
肯定されたら後には引けない。
眼前に晒された透の背中は眩いほどに白くて華奢で。
変に力を入れると壊れてしまいそうな錯覚に囚われる。
――こんな小さな背中でなぁ。
声に出さないまま嘆息する。
十年間。
十年もの間、透は耐えてきた。
否、それ以前から『善き人たれ』と己に課して、胸を張ってきた。
その年月に思いを馳せると、胸の奥から苦い感情がこみあげてくる。
「くしゅ。あの、篤志さん……」
透のくしゃみと不審げな声。
手が止まっていたことに気づかされて、慌てて背中に触れる。
滑らかな手触りと暖かな体温。瑞々しくて柔らかな肢体。
「ひゃっ」
「あ、ごめん。どこか痒いところある?」
「……ばか」
ちらりと向けられる瞳はきらりと濡れていて。
透の顔は頬から耳まで真っ赤に染まっている。
照れ隠しな声は、聞こえないふりをした。
★
ふたり並んで湯船につかって空を見上げる。
秋も深まった早朝の空は、冬に似た透明感に満ちていた。
「あ~、幸せだなぁ」
「ですねぇ」
肩まで湯につかって、まったりとした声を漏らすと、すぐ隣から同意の声が重なる。
この街で再会した時から透の顔に見え隠れしていた緊張感らしきものは、すっかり鳴りを潜めている。
長い間彼女を悩ませていた様々な問題に、自分なりの決着をつけたということだろうか。
厳しく己を律してきた透の心を解放した手段が『浮気』という倫理上白眼視されるものであったということが、何とも皮肉であった。
「篤志さん」
「透さん、どうかした?」
唐突にかけられた声には安堵があった。
透の手が篤志の手に添えられて、さわさわと撫でられていて。
「この手、昨日も気になってたんですが……」
「ん? ああ、これ?」
透の指が触れているのは篤志の手にできたペンだこだった。
「十年以上ほとんど毎日描き続けてきたら、こんな感じになっちまった」
「漫画ですか?」
「うん……あれ、言ってなかったっけ」
「聞いてません。……そっか、篤志さんは漫画家になれたんですね」
よかった。
囁き交じりの声が耳朶を打った。
「あなたが姿を消してから自分なりに漫画家のことを調べて、ぞっとしました」
夢があるなら追うべきだと、かつての透は背中を押した。
それがどれほど困難な道であるのか、自覚することもないままに。
高校卒業とともに上京して以来、篤志は故郷の人間と連絡を取っていない。
故郷に錦を飾ってもおかしくないほどの実績を打ち立てておきながら、その事実を知る者は誰もいなかった。
もし自分の不用意な言葉で篤志が無謀な人生を歩みだしてしまったのなら……などと深い後悔に苛まれていたと言う。
「漫画家になるってのは俺が決めたことだし、透さんが気に病むことじゃないと思うんだけど」
「そうはおっしゃいますけどね……ずっと心配していたんです」
「まぁ、気にしてもらえてたのはうれしいです」
「大変でした?」
気遣わしげで、興味深げな問い。
篤志は真面目に答えようとして――首を傾げた。
「どうだろう? 過ぎ去ってみれば、あっという間だったしなぁ」
「はぁ」
要領を得ない答えに、微妙な反応が返ってくる。
傍から見る分にはブラック極まりない生活だったような気もする。
それでも同業者と自分を比較してみると、かなり上手くやれていたと思う。
「とりあえず、結果オーライってことで」
「そういうところは相変わらずですねぇ」
「こればっかりは性分だわ」
「……篤志さんがいいというなら、私は別に構いませんが」
透はクスリと笑った。
その手はずっと篤志の手を撫でている。
優しく、慈しむように。
ずいぶんと心配をかけていたのだと、改めて思い知らされた。
なされるがままに任せ、空を見上げた。
――これまでの話は置いておくとして……俺たち、これからどうなるんだろうな。
事に及ぶときには何も考えなかった。考える余裕がなかった。
目の前の透に心を奪われていたし、欲望を抑えることもできなかった。
しかし夜を経て朝になって、こうして心身ともに弛緩していると、否応なく我に返って現実に目を向けざるを得なくなる。
篤志としては、この一件で発生するあらゆる問題に正面から向かい合うつもりでいた。浮気が発覚するかしないかは現段階では何とも言えないが、どちらになっても可能な限り透を傷つけないように立ち回る心づもりを決めていた。
気になっているのはそこではなく、今後の篤志と透の関係であった。
本音を言えば、透が欲しい。
性的な意味ではなく(もちろん性的な意味を含んではいるが)、人生のパートナーとして。
ただ、それをいきなり透に求めるのはどうなのだろうという思いもある。
要するに自分と結婚してくれと言いたいわけだが、彼女は既に『
――あいつと別れて、俺と一緒になってくれ……って言っていいのか?
そこがわからない。
一夜限りの夢で終わりなんて真っ平ごめんなのだが、透の方がどう考えているかまでは、まだ確認していない。
できるだけ希望に沿いたいとは思うが、それでも――
――これは俺の方から言うべきなんだろうな。
本能的に直感していた。
関係を秘匿する状況は、ほとんど一方的に透に負担を強いる。
風祭夫婦は子どものころから家族ぐるみの付き合いがあったと聞いている。
そんな日常に透を戻せば、日々の暮らしの中で多大なストレスを感じるに違いない。
一線を踏み越えてしまったとは言え、透は基本的に善性の人間であるのだから。
だから、篤志から切り出さなければならない。
強引に彼女を自分のもとに連れていく、と宣言しなければならない。
悪役を引き受けるのは自分であるべきなのだ。
その覚悟はとうに決まっているのだけれど……
「~♪」
透はうっとり目を閉じて篤志の身体に頭を預けて鼻歌を歌っている。
この甘ったるい状況でそんなヘヴィな話をするのは気が引けた。
――ま、もう少し時間を置いてからにするか。
タイミングを見計らうべきだとは思った。
同時に疑問が浮上してくる。
透はいつまでこの宿に滞在するのだろう?
宿を離れる前には話をしなければならない。
今日で二泊三日になる。あまり時間的な余裕はなさそうにも思えた。
ちなみに篤志の方は特に予定はない。その気になれば当面は延長しても問題ない。
「透さん」
「ん~、どうかしましたか、篤志さん」
軽く頭を擦り付けてくる。
その子どもっぽい仕草が可愛らしすぎて、口がうまく動いてくれない。
代わりにそっと手を回して肩を抱き寄せた。
「何でもない……んだけど、後でちょっと話したいことがありまして」
「……そうですね。私からもお話したいことがあります。でも」
それ以上言葉はなかった。
今はただこの瞬間に浸りたい。
安息を願うふたりの想いは一致していた。
怠惰かもしれないとわかっていても、抗いがたい思いがあった。
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