第7話 現代編 遅れてきた男

 風呂から上がるとちょうどいいタイミングで朝食がやってきた。

 焼き鮭、だし巻き卵、筑前煮、納豆、海苔、みそ汁そして炊き立ての白米。

 典型的な日本の朝ごはんが視覚と嗅覚に強烈な誘いをかけてくる。腹も鳴った。

 篤志あつしとおるは向かい合って腰を下ろし、箸を手に『いただきます』を唱和して――


「あ~、透さん雑すぎる」


「いちいち五月蠅いですね。篤志さんが細かすぎるだけです」


 ふたりは焼き鮭を前に激突していた。

 丁寧に骨を取って残さず身を食べる篤志。

 適当に骨を取って身が残りまくっている透。


「ほら、俺がやるから。もったいない」


「別にそこまでしてもらわなくても……」


「俺が好きでやってるんだからいいの、皿貸して」


「……そこまで言うなら、お願いします」


 透は口を尖らせながらも篤志に皿を押して寄越した。

 見た目がすでに残念になっているのは、まだ半分。

 残りの身を箸で器用にほぐしていると、


「篤志さんは相変わらず器用ですね」


「なんなんだろうね、これ。癖っつーか。東京行ってからもよく言われたわ」


「そうなんですか?」


「そうなんですわ」


 篤志は昔から細かい作業が得意だった。

 食事時においては、特に魚を食べるときに顕著になる。

 骨はきれいに外されて、身はひとかけらも残さない。

 対する透は何をやっても大雑把で。

 なまじ性格が几帳面なだけにギャップが激しい。

 篤志の記憶にある限りでは、透はあまり弁当に焼き魚の類を持参していなかった。

 風祭かざまつりの件で行動を共にしていた際も、口にする段階で手間がかかる料理を避けていたような気がする。

 自分の食べ方が周囲にどのように見られているのか、おそらく本人もコンプレックスに思っているのだろうと推測された。

 誰も別にそんなことで透を揶揄したりはしないだろうが、こういうことは周りの人間以上に本人は意識してしまうものだ。特に女性は気になるのかもしれない。フォーマルな場でなければ、男は概ね大雑把だ。


「はい、とれた」


「ご迷惑をおかけします」


「いいっていいって」


 皿を透に戻すと、ちまちまと鮭の身を口に運び、ご飯を食べる。

 実に慎ましやかな食べっぷりに違和感を覚える。


「透さん、食欲ない? 朝は食べないほう?」


「え? いえ、別に……普通ですよ? ちゃんと食べてます」


「そう? ならいいけど」


 今ひとつ腑に落ちなかったが、あまり突っ込まないことにした。

 昨晩も、その前の晩も、もっと豪快に箸を躍らせていたはずだが。

 もちろん行き過ぎた感のある酒の影響もあったのだろうが……


「透さん、本当に大丈夫? どこか具合悪くない?」


「……」


「透さん?」


「あ~もう、何なんですか、篤志さんは! あなたは私のお母さんですか!?」


 いきなりキレた。

 理不尽だった。

 こんな透は見たことなかった。


「昨日やりすぎたから今日はおとなしくしていようと思ってたのに、何でそうイチイチ突っ込んでくるんですか!」


「いや、その……え?」


「はいはい、そうですよ。私はガサツですが何か?」


「昨日やりすぎたって?」


「口が滑りました。その話は今はしていません」


「豪快に晩飯食ってたのは、この話と関連してない?」


 深く考えたわけではなかった。なかったのだ。

 思いつくままに疑問を口にすると、透の顔が真っ赤に染まった。

 浴衣からあらわになっている首筋まで、鮮やかに色づいた。


「透さん?」


 透は何も答えなかった。

 その代わりに、茶碗を手に取って豪快に飯を口に掻き込んでいく。

 いまいち意図が掴めなかった篤志は首をかしげながら目の前の愛しい女性を観察し――ほどなくして思い至った。彼女が口にした『昨日』とは……


「篤志さん、変なこと考えてませんよね?」


「もちろん」


「……」


 即答した時点で、アウトだった。





 食事を終えたふたりは、特に何もしなかった。

 満ちた腹をさすりながら、まったりした時間を優雅に堪能していた。

 壁に背を預けたまま、しどけなく脚を崩した透。

 その太腿に頭を乗せた篤志。俗にいう膝枕だった。


『篤志さん、よかったらどうぞ』


 落ち着いた口ぶりの透に誘われて、あこがれのシチュエーションを堪能しようとした篤志だったが――


――微妙だな。


 前々から疑問に思ってはいた。

『ぶっちゃけ、膝枕ってどうなの?』と。

 漫画やらアニメやら、特にラブコメの類でしばしば目にする膝枕。

 男なら一度は――と胸を熱くするところではあるものの、実際に透の脚に頭を乗せるといろいろと微妙だった。

 首の角度といい、クッションの効き具合といい。

 座布団をふたつに折り曲げて枕代わりにする方がマシなのではとさえ思ってしまう。

 だが、それはそれとして。

 薄手の浴衣越しに感じる透の太腿の感触と体温。

 すぐ傍に彼女の肢体があって、見上げると目が合って。

 そして透は微笑んでいて。

 小さな手がそっと篤志の頭を撫でてくれるオプションまでついて。

 

――でも、最高だろ。


 くるりと掌をひっくり返した。

 膝枕は最高。やはり男のあこがれ。

 

「どうしたんですか、篤志さん」


「いや、透さんは可愛いなって」


「……ばか」

 

 本音を口にするとぷ~っと頬を膨らませて、噴き出した。


「変な篤志さん」


「透さんこそ」


 お互いに顔を見合わせて笑った。

 ただひたすらに、穏やかな時間が流れていた。

 ずっと、ずっとこのままでいたい。

 それが篤志の素直な本音だった。

 もちろん、それは叶わない願いであることも理解している。

 この温泉街は非日常の世界であり、ふたりには日常が存在する。

 特に透はこれからの身の振り方を考えなければならないわけで、いつまでも安寧に浸ってはいられない。


「なぁ、透さん」


「どうかしましたか?」


「結婚しよう」


「……」


 篤志としてはさりげなく切り出したつもりだったが……全然さりげなくなかった。

 後から気づくことになるのだが、その時にはもう手遅れだった。

 それはさて置き――透は口を閉ざし、目蓋を落とした。


「透さん?」


「篤志さんのご厚意はありがたく思います」


 透が切り出した瞬間、篤志の身体が強張った。

 声に否定的なニュアンスを感じたから。

 続く言葉が容易に想像できてしまったから。


「俺、本気なんだけど」


「わかっています。でも、私は……」


 篤志の目には、透が迷っているように見えた。

 希望的観測かもしれなかったが、まったくの妄想というわけでもない。

 透は揺れている。そう直感した。

 昨夜は酒と勢いに任せて一線を越えてしまったかもしれない。

 朝起きてから今までは流れに身を任せていたかもしれない。

 でも、今。

 冷静に物事を考えるようになって――透は迷っている。

 先ほどの語り口からは想像できないくらいに。

『好き』とか『愛している』とか、そういう言葉はなかった。

 反面、彼女の態度からは間違いなく好意を感じる。


――透さん……


 焦って促すことはしなかった。したくなかった。

 これは透の人生を大きく左右する選択肢だ。篤志にとってもターニングポイントではあるだろうが、彼女は抱えているものが多すぎる。

 提案はする、でも無理強いはしない。

 もどかしいながらも、篤志はただ耐えて待った。

 しかし――結論を言ってしまえば、この忍耐にはあまり意味がなかった。

 じりじりとした時間が流れているうちに、廊下がにわかに騒がしくなってきたのである。


「ん?」


「どうしたんでしょうね?」


 名残惜しかったが透の脚から頭を上げて、ドアを見やる。

 透も崩していた脚を戻して同じくドアに視線を送った。

 耳を澄ますと、ハイグレードな温泉宿に似合わない喧騒が徐々に近づいてくる。

 

「言い争ってる?」


「でしょうか?」


 ふたりで顔を見合わせて、首を傾げた。

 次の瞬間――ドアが乱暴に叩かれる。

『お客さま!』とくぐもった女将の叫び声が重なった。

 唖然として、身体を震わせて、お互いに抱き合った。


「出ないわけにはいかないんだろうな」


「ですね」


 猛烈に嫌な予感がした。

 ドアを開けるとどうなるか、なんとなく予想できた。

 いつかは訪れるだろうと思われた未来が、目前に迫っている。

 

「透さん、いい?」


 問いかけると、透はうつむいて掌をぎゅっと握りしめた。

 きゅっと瞼を閉じて、口を閉ざして。

 そして――


「覚悟は、できています」


「わかった」


 それ以上言葉はいらなかった。

 一歩一歩踏みしめながらドアに近づく。

 大きく深呼吸して息を整えてから、ノブを回してドアを開ける。


「透! お前は!」


 背の高い男が女将を振り払おうとしていた。

 怒りに満ちた耳障りな声。

 端正な顔立ちにも憤懣が溢れていて。

 全身に怒気をまとわせたその男の名は――


優吾ゆうごさん……」


 消え入るような透の声が、耳朶を打った。

 誰あろう彼女の夫である『風祭 優吾』だった。

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