第8話 現代編 対決 その1
十年来の念願だった
まったりいちゃいちゃしていたところに乱暴に踏み込んできたのは、ひとりの男だった。
ドアから見下ろすように
頭の位置は高く、顔立ちは整っている。自分とほぼ同年代。そして――
「
背後から耳朶を打つ透の声。確定だった。
『
透の夫。
高校時代の顔見知り。
クラスメートではなかったし、友人と呼ぶほど近しくもなかった。
篤志にとっての優吾はあくまで透の彼氏であり、バスケ部の主将兼エースであった。
透をめぐる一件で言葉を交わした程度の、薄い関係に過ぎなかった。
「……なんだお前は? 透、これは一体どういうことだ?」
篤志と透の顔を交互に睨みつける優吾の声に、怪訝な色合いが混じった。
背中に隠れていた透がビクリと震えた……気がした。
ひゅっと息を呑む音が聞こえた。
――うん?
恫喝じみた優吾の声に違和感を覚える。
その正体にはすぐに行き当たった。
この男は、篤志を認識できていない。
あるいは覚えていないのかもしれない。
ひょっとしたら、高校時代の記憶ごと丸ごとすっ飛んでいる可能性もある。
「なんだとはずいぶんな挨拶だな。恩人の面を忘れるなんてひでー奴だ」
「恩人だと? お前が?」
「ああ。高校時代にお前と透さんがごちゃついてた時に助けてやったじゃねーか」
あえて名乗らなかった。
苛立ちを覚えて素直に事を進める気になれなかったのだ。
優吾はしばし篤志の顔を凝視し、眉を顰め、首を捻り、顎をこすって、
「お前……ひょっとして
ようやく篤志の名を口にした。心底意外そうな声が癇に障る。
完全に忘れていたら呆れて二の句が継げなくなるところだった。
最初に出た名前が自分のものであったことにホッとした反面、自分以外の人間にもまったく恩を感じていなかった可能性に行き当たって思わず眉を寄せてしまった。
この男にとって、校内の男子は『その他大勢のモブ』扱いされていたのではないかという疑いが首をもたげてくる。今さら言っても詮無いことではあるのだが。
あの頃の優吾は周囲の人間から声望を集めていた。
しかし、優吾が周囲の人間にどのように接していたのかは、あまり話題に上らなかったような記憶がある。
「ああ、そうだ。久しぶりだな」
皮肉げに言ってやると、舌打ちを返された。
『なるほど、そういうことか』なんて唸りが耳をかすめた。
何が『そういうこと』なのか問いただしてやりたくなったが……まぁ、想像は付いた。
「別に会いたくもなかったが、まさかお前が透と一緒にいるとはな。透、これはどういうことなんだ? 説明しろ」
朝の廊下にいかめしい声が響き渡る。
優吾の名前を告げて以来、透がひと言も発しないことが気になっていた。
そして、それと同じくらいに女将が向けてくる視線が気になって仕方がなかった。
『面倒ごとを持ち込むな』
能面じみた顔から無言の圧力がひしひしと伝わってきて、心の底から申し訳ない気持ちが溢れてくる。この高級宿に喧騒は似合わない。沽券にかかわるのかもしれない。
これ以上ここで言い争っていてはいられない。
下手したら警察を呼ばれかねない。
……まぁ、宿の風評を鑑みればそこまではやらないようにも思えるが、他の宿泊客の目もある。篤志にしてみても、透を好奇の視線にさらさせることは本意ではなかった。優吾はどうでもいいが。
「とにかく中に入れてもらうぞ。話を聞かせてもらおうじゃないか」
有無を言わせない強引な口ぶり。
反論されたり否定されたりすることなんて、まったく想定していなそうだった。
年を取って丸くなるどころか、頑なさが増しているように見える。
『こんな奴だっただろうか?』と首をかしげたくなったが、今はその時ではない。
「仕方ねぇな」
どう考えても穏便に状況を終了させることは期待できない。
篤志と透が踏み出したのは、そういう道だった。
そして篤志にも透にも言い分はある。
――いや、俺はただの不倫だわ。
冷静になるまでもなく篤志には弁明の余地はなかった。自覚できるレベルだった。
でも、透は違う。
彼女は死を希求するほどに追い詰められていた。
そこまで透を追いやった元凶は目の前で威嚇モードに入っている夫だ。
ふたりの夫婦生活なんて想像したくもなかったが……これまでのやり取りから推測するに、とてもではないが円満なものではなかったはずだ。
透から一方的に話を聞かされただけなので、バイアスがかかっている可能性はある。
結果はどうなるかはともかくとして、この夫婦には話し合いが必要だとは思った。
できればふたり以外の誰かを傍に置いて。いざというときのストッパーが欲しい。
ちらりと女将に視線を送れば――そこには無を湛えた瞳があった。
『立ち入らない』と雄弁に語りすぎていたので、さすがに期待を寄せるのはやめた。
……となると、残る人間はこの場にひとりしかいない。
――俺でいいのか?
自問するも答えは出ない。
篤志はもはや第三者ではない。
当事者である透にとっても、訪れたばかりの優吾にとっても。
これまでの経緯を鑑みれば、とてもではないが公平なジャッジなど――
「いや、する必要はないのか」
「何がだ?」
「何でもねーよ」
「チッ」
露骨な舌打ちを置いて、優吾は室内に足を踏み入れた。
『優吾さん』と控えめな非難交じりに呼びかける妻を無視し、ずんずん遠くに進んでいく。
夫の背中を見送った透は、今までで一番小さく見えた。
彼女はこの十年間ずっとこんな暮らしを送っていたのかと思うと、やりきれなくて、そして怒りがこみあげてきて、頭の中を得体の知れない衝動がぐるぐると渦巻いていく。
「篤志さん」
辛うじて篤志の耳に届くだけの小さな声だった。
振り向いた透の瞳が震えている。
畏れているように見えた。
怒っているようには――見えなかった。
悲しげに眉尻が下がっている。今にも泣きそうな顔だった。
そんな透の顔を目にして、篤志はようやく正気に返った。
胸の奥にたまっていた熱くて重苦しい空気を吐き出して――ふと、疑問が脳裏をかすめた。
『透は先ほど何を言おうとしていたのだろうか?』と。
結婚しようと口にした篤志に、透は否定の答えを返そうとしていたように思う。
言葉を濁してはいたが……少なくとも当初の段階では篤志はそのように捉えていた。
でも、途中から風向きが変わっているようにも感じられた。
有耶無耶になってしまったことが悔やまれた。
優吾があと少し遅く来てくれていれば。
そんな見当違いな不満を向けたくなってしまう。
自分のことも優吾のことも今はいい。今はまず透だ。彼女のケアが最優先だ。
「透さん、大丈夫?」
「……あの」
「うん? どうかした?」
「はい、先ほどの答えを」
「さっきのって……ああ」
『結婚しよう』の件だと察しがついた。
今この瞬間に答えをもらうつもりはなかった。
風祭を追い払ってから、ゆっくり考えればいいと思っていた。
「その、あの……」
「透さん、俺のこと好き?」
「……わかりません。昨日のあれは勢いというか、私もどうかしていたというか」
「そう」
残念だとは思ったが、当然だとも思った。
篤志が惚れた『天城 透』とは、そういう女性だ。
単純に見た目が可愛らしいというだけでなく、一本芯が通った生真面目な気質。
説教臭いのは面倒見の良さの裏返しでもある。
十年たった今なら素直に言える。そういうところが好きなんだ、と。
今の篤志は、アレコレ拗らせていた高校時代の自分とは違うのだ。
「でも、好きというか……好ましくは思っています。篤志さんにはいろいろとお世話になりっぱなしで」
ひと言ひと言、ゆっくりとした口調であった。
目蓋を伏せて、己の心と対峙しているようにも見えた。
彼女もまた、心の整理をつけるために時間を必要としている。
「別にそんなの気にしなくていいって」
世話をしたとか、世話になったとか。
そんなことを考えてほしくなかった。
余計なものを抜きにして『大久保 篤志』というひとりの男を見てほしかった。
「すみません、もう少し時間をください」
「待つよ、いつまでだって」
「……ごめ……いいえ、ありがとうございます」
律儀に言い換える透の頭を、そっと撫でた。
将来のことを考える前に、目の前に差し迫った問題を解決しなければならない。
希望がつながっているとわかっただけで、十分すぎるほどに力が漲ってくる。
「じゃあ、あいつは俺が何とかするから」
「何とかって?」
「……それはまぁ、何とか」
本当は時間をかけて考えたかった。
しかし、状況が悠長な思考を許してくれない。
それでも――やるしかない。準備期間が与えられないことなんて珍しくもない。
『大久保 篤志』にとって、ここが一世一代の勝負所だった。負けるわけにはいかない。
「……私が何とかします。あの人は、私の夫ですから」
静かな、それでいて決意を込めた声だった。
切なくて、悲しくて、そして捨て置けない。
「俺にとっても、もう他人事じゃない。透さんだけに背負わせたりはしねーよ」
『風祭 優吾』
『風祭 透』の夫。想い人の夫。
透との関係を進展させるためには、いつかは乗り越えなければならない障害であった。
その道が、たとえ『不倫』という人の道に外れた道であったとしても。
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