第9話 現代編 対決 その2
「それで、いつからなんだ?」
男ふたりが向かい合って畳に腰を下ろし、
自分の傍に来ない妻を一瞥し、不快げに鼻を鳴らした
不躾な詰問に
「いつから……と言われても、なぁ」
「私たちがここで会ったのは偶々ですよ」
控えめに透が口にすると、優吾はぎろりと目を動かし口の端を釣り上げた。
「ほう。ここでお前と
粘着質な口ぶりだった。
まともな話し合いにはなりそうにない。
篤志は心の中で深くため息をついた。
後者はともかく、前者はその通りなのに。
篤志と透が示し合わせてこの温泉街を訪れ、人に言えないことをやっていた。優吾の中ではそういうことになっているらしい。状況を鑑みればそのように疑うことも無理はないとは思うが。
一方的な猜疑ではあるが、否定するのは難しいと思った。
反面、そもそも高校を卒業してから十年もの間、一度も連絡を取っていない相手と都合よく旅先で出会うことができるか、なんて言われても……
――あれ、こいつの中で俺ってどうなってるんだ?
最後に顔を合わせたのは卒業式の日。
篤志はクラスの打ち上げにすら顔を出さずに東京行の電車に乗った。
当時は金銭的な余裕がなかったから、青春18きっぷを駆使して在来線を乗り継ぎ、終電近い頃に東京駅にたどり着いたことを覚えている。
あれ以来、高校時代の知り合いどころか家族とも連絡を取っていない。
おそらく地元では篤志の居場所を知る者など誰もいないだろう。
「大久保さんとここでお会いしたのは、本当に偶然です。卒業以来行方不明でみんなにあれだけ迷惑をかけたことすら全然知らない人と、ずっと地元にいた私がつながっているはずありません」
睨みつけてくる夫に気おされながらも、透はキッパリと言い切った。
その態度に感嘆すると同時に、聞き捨てならないことを耳にしてしまった。
今のこの状況とは全く関係ないとは思うものの、スルーすることはできなかった。
「あれ、俺って地元じゃどういう扱いになってんの?」
「知るか」
「行方不明のまま……だったと思います。あれ、でも十年たってるってことは」
「失踪宣告されてたら俺死亡、かよ……」
失踪宣告して七年で推定死亡になる。ミステリーのコミカライズで読んだ。
……とは言え、それはあくまでフィクション的なネタのひとつという認識に過ぎず、今の今まで自分が当てはまってるとは思いもよらなかったが。
いつの間にか死人として処理されかけていた可能性に、篤志の身体が震えた。
両親や姉が警察に届け出ていないことを祈るしかなかった。
正直……良くも悪くも五分五分だと思った。
「ふん、白々しいな」
「いや、マジでシャレになんねーんだけど」
「大久保さん、その話はまた改めて」
「あ、はい」
話の腰を折った自覚はあったので素直に従っておく。
透は『やれやれ』とでも言いたげなため息をついて、夫に向き直る。
「ほら、この人はこういう人なんです。居場所なんてわかるわけありません」
「こういう人って……」
微妙にとげを感じる透の言葉にひそかに傷ついた。
篤志の心情を慮る必要性を感じていない優吾は、さらに問いを重ねてくる。
「証明するものが何もないのに、信じろと?」
「信じてもらえませんか?」
透の声に湿り気を感じた。
期待しているようにも、懇願しているようにも聞こえた。
呆れているようにも、失望しているようにも聞こえた。
彼女は揺れている。夫である優吾と、篤志の間で。
それを不実と詰ろうとは思わなかった。
透を苦しめている原因の一端は自分であると認めざるを得ないから。
「俺が今までお前に許しを乞うたときに、お前は一度でも俺を信じたか?」
「それは……」
優吾の逆撃に、一転して透の歯切れが悪くなる。
前後の話と透から聞いていたいきさつを合わせて考えると、優吾が口にしているのは自身のかつての浮気に対する透の反応のことをあげつらっているのだろう。
優吾が『浮気じゃない。信じてくれ』と弁明し、透が『信じられない』と突き放す。
そんなやり取りが常態化していたと透は酒を干しながら嘆いていた。
――俺の話と自分の話をごちゃまぜにするの、ずるくね?
じろりと優吾に視線を送ると、こちらは悠然と胸を張っている。
なぜこの状況で、これまでの話の流れで、こうなるのだろう?
十年ぶりに見る優吾は相変わらず自信に溢れている。根拠は不明だが。
その佇まいは高校時代の彼と寸分違わず一致して見えて……
「お前、変わんねーな」
つい、口に出してしまった。
優吾は篤志を見て鼻息をひとつ。
「お前は変わったな。見た目も中身も。あの時は俺と透の仲を助けてくれたお前が、こそこそ隠れて浮気とはな。クズ過ぎるだろ。呆れるぜ」
「お前こそマジで変わんねーよな。見た目も中身も。あの時だってほかの女にうつつを抜かして透さんを悲しませておいて、よくもそんなことが言える」
「人の妻を勝手に名前で呼ばないでくれないか?」
「ケッ、ちっちぇー奴。やなこった」
「お前!」
「なんだよ、やんのか!?」
「ふたりとも、やめてください!」
仲裁に入ってきた透を置いてふたりで睨み合う。
篤志から見た優吾は、高校時代とまるで変わらない。
もちろん十年の歳月はしっかりと流れているから、細部まで同じというわけではない。
特に視覚的な若さは確実に失われている。肌はつやを失い、肉体は分厚くなっていた。
それでも、優吾が纏っている雰囲気は同じ――あの頃のままだった。
かつては颯爽とした振る舞いとエネルギッシュな煌めきを眩しく仰いだものだった。
バスケ部のエースとクラス委員長。美男美女な有名人同士のカップルにやっかみを覚えたこともある。
しかし、十年たってまるで変化していない。否、成長していないというのはどうなのだろう?
率直に言って、羨ましくとも何ともなかった。
高校生の目線で見た高校時代の優吾に気後れしたことはあったが、大人の目線で見た今の優吾は尊敬するほどの男ではないし、コンプレックスを刺激されることもない。
『高校のころはバスケ部でエースだったぜ』『ふうん、それで? 今は?』ってな感じだ。
聞いた限りでは、優吾は地元の優良企業に就職しているとのこと。篤志には到底無理だ。そこは素直に褒めてやってもいい。
ただ……酒が入ると同僚や上司の不満ばかり口にして辟易すると透が嘆いていた。
『俺ならもっとうまくやれるのに、周りが足を引っ張りやがる』が口癖とのこと。
透の前では言わなかったが、ダサいと思った。
相対的に見れば、おそらく篤志が成長したということだろう。
故郷を後にしてから良くも悪くも様々な経験を経て、気づかないうちに篤志は変わった。
これまではあまり自分の変化に自覚はなかったのだが……こんなところで十年という歳月を如実に感じてしまうことを残念にすら思った。
「大久保、お前ずいぶん羽振りがいいじゃないか?」
部屋を見回し、外の温泉を目にした優吾が話を振ってきた。
厭味ったらしいと言うか、妬ましげと言うか。
耳障りな声だった。
漫画家として大成しつつある篤志にしてみれば聞き飽きた声色であり、つまらない挑発に乗るつもりにはなれなかった。
「おかげさんでな、それなりに上手くやっている」
実際はそれなりどころではないが、詳細を教えてやる義理はない。
皮肉に反応を見せない篤志の様子が癇に障ったか、優吾はさらに言葉をつづけた。
「それで今度は透が欲しくなったか」
「否定しねーよ。俺はずっと透さんが欲しかった」
皮肉に正面から向かい合うと、優吾は目を大きく見開いて固まってしまった。
堂々と肯定されるとは思っていなかったのかもしれない。
「大久保さん!」
透が口を挟もうとしてくるが、止まれなかった。
「なぁ、
「ほう。ずいぶんと殊勝じゃないか、間男のくせに」
鷹揚な声。
勝利を確信した声。
己に恥じるところなどないと、心から信じて疑っていない。
付け加えるならば、篤志をあからさまに見下している心根が透けて見える。
「ああそうさ。俺は人妻に恋した間男だ。おまけに寝取り男でもある。お前に殴られようが怒られようが、文句なんて言えやしねぇ」
「寝取りって」「ねとっ……」
突然の告白に風祭夫妻の顔が引きつった。
優吾の顔は蒼白をへて怒りに赤く染まった。
透の方は最初から赤く色づいた。おそらく羞恥だろう。
言葉のチョイスに問題があることは承知の上で、あえて現状を的確に表現することにした。透は自分で『何とかする』と意気込んでいたが……今さら言い逃れをするつもりはなかったし、人任せにするつもりもなかった。手を出した篤志自身が相対すべき問題だと認識していた。
「でもよう、風祭。お前はそれより先に透さんに言うことがあるんじゃねーのか?」
「なに?」
奇妙に眉を歪めたその秀麗な顔を殴ってやりたくなった。
自分のことを棚に上げて、とことん問い詰めてやりたくなった。
「『今まで悪かった』とか『もう二度と浮気しない』とか、そういうのちゃんと謝れよ」
「……お前に言われるまでもない」
偉そうなことを言いつつも視線を逸らすあたり、不服がありありと見受けられる。
なぜなら――自分は妻の不貞を責める側だから。
いつも浮気をとがめられているから、ここぞとばかりに糾弾するつもりだった。
だから、そんな腐った声が出る。同じ男として吐き気がする。
「そうか? さっきから透さんを詰ってばかりで、お前が謝ってるところを見てねーんだが」
今回透がこの街にやってきた直接の理由もまた、優吾の浮気だった。
もう数えるのも嫌になったと零していた。
「お前に言われるまでもない」
優吾は一言一句違わず同じ言葉を口にした。
語尾は一回目と比べてずいぶんと荒い。
不快感を露わにしている。
「俺と透は夫婦だ。子どものころからずっと一緒だったんだ。お前なんかと違ってな。透のことは誰よりもわかっている。透は俺を許してくれる。今までずっとそうだった。これからもずっとそうさ。透は俺を許す。だから俺も透を許す。お前が入ってくる余地なんてない。わかるか?」
自信を持って言い切った。
根拠は不明のままだった。
篤志は――開いた口が塞がらなかった。
――何言ってんだ、こいつ!?
『今までずっと』『これからもずっと』なんて、自分で口にしておいておかしいと思わないのだろうか。傲慢なところはあったが、こんなに無神経な男だっただろうか?
高校時代のふたりは結婚していなかったし、関係にあやふやなところもあった。
優吾が他の女子と仲良くしている姿に嫉妬する自分に、透もまた苦しんでいた。
必要以上の干渉は束縛になる。そう言い聞かせつつも儘ならない自らの感情を持て余していた。
透は変わった。変わってしまった。目を伏せて心を殺し、そして――ひとり思いつめた。
なのに……優吾のスタンスは何も変わっていない。むしろ悪化している。
この決定的な齟齬に、彼女が十年間抱え続けてきた苦しみを垣間見た。
『何を言っても無駄』などという悲しいワードが脳裏をよぎり、言葉を継ぐことができなくなった。
「……せん」
「透?」
「透さん?」
篤志が口を開くより先に、微かな呟きが室内の空気を揺らした。
睨み合っていた篤志と優吾が透を見やると、彼女は俯いたまま身体を震わせていた。
小さな拳をぎゅっと握りしめ、
「許しません。優吾さん、今度という今度こそ、私は、私はッ……あなたを許しませんッ!」
絶叫だった。
聞いている方が苦しくなるほどの。
永らく胸の内に溜め込んでいた思いが爆発した、心の悲鳴とでも呼ぶべき声だった。
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