第10話 現代編 対決 その3
「私はッ……あなたを許しませんッ!」
腰を下ろしたまま唖然と見上げる
十年以上たまりにたまった憤激の大爆発。ちょっとやそっとで収まるものではなかった。
「許しません。許すわけないじゃないですか。何で許さなきゃならないんですか。勝手なことを言わないでくださいッ! 十年、十年ですよ。何回、何回繰り返すんですか。何で、何でほかの女性に目移りするんですか? 私が、私がいたのにッ! ずっと傍にいたのにッ! どうしてッ!」
「透さん、ちょっと待っ」
「いいえ、篤志さん。言わせてください。もう我慢できません。限界なんです。ねぇ優吾さん、ここに来るときどんな気持ちでした? 私がいると思ってた部屋に篤志さんがいて、どんな気持ちでした? ずいぶんと怒ってましたよね。わかります。あなたが浮気を重ねてきたとき、私だってずっと怒ってました。同じですよね。私がこれだけあなたのことをわかるんですから、あなたも私のことをわかってくれますよね。だって――」
ひと呼吸おいて透は言い捨てた。
「だって、私たちは夫婦なんですから」
激しすぎた感情は消えていた。自嘲に強張った透の顔に温度はなかった。
小さな唇から放たれた声の寒々しさに、彼女の十年間が詰まっていた。
篤志が知る高校時代の彼女『
あの時は……こじれかけた関係は修復され、ふたりはあるべき姿に戻った。
持て余した感情も、すれ違いも収まるべきところに無事に収まった。
篤志だって、彼女の背中を押したときには確かに祝福できた。たとえそれがどれだけ心無い言葉であろうとも。
……まぁ、最終的には彼女たちを見ていられなくて、『夢を追う』なんて言い訳を胸に抱いて街を去ったわけだが。
失ってはじめて気づいた恋は、ときおり目を覚まして心を苛んだものだ。
それでも――透が幸せならよかった。
忘れたくとも忘れられず、心の底に想いを封印しながらも『幸せであってくれ』と遠く離れた東京で祈った。
十年。
恋する乙女の瞳で唱えた大切な大切な願い――優吾の妻になるという夢を透は叶えた。
高校生同士の恋愛なんて破局してもおかしくはないと思っていたが、そうはならなかった。そこにどれだけの努力や思いやりがあったのかは想像するしかない。
しかし、彼女は幸せにはなれなかった。
篤志が姿を消した後も、優吾の浮気癖が治らなかった。むしろ悪化した。
結果論ではあるが、透が最初に許してしまったことが優吾を図に乗らせた。
あの寒々しい岬で彼女が語った通りだったのだろう。
透の述懐を耳にしたときはピンとこなかったが……実際に目にした優吾を見る限り、彼女の推測は大きく外れてはいないものと思われた。
幼馴染として子供のころから家族ぐるみで付き合ってきたという環境も良くなかった。
両家の関係に波風を立てまいと、毎度毎度透が一方的に負担を背負う羽目になった。
さすがに結婚すれば収まるだろうと考えていたようだが、ここでもまた裏切られた。
優吾の浮気癖が治らない。何度窘めても繰り返す。透を助ける者は誰もいない。
一番傍にいながら十年間裏切られ続けた透の心は、すっかり擦り切れてしまった。
かつて抱いた恋心も、愛も。何もかもが掬い上げた手のひらから零れて消えた。
それどころか『死』という単語が脳裏にちらつき、振り払うことができなくなった。
万事休す。己が心を見定めるために家を出た旅先で、篤志と再会した。
――誰が悪いかっつーと、誰が悪いんだろうな?
両の瞳から大粒の涙を流す透を見ながら、篤志はふと考えた。
人妻である透を抱いた篤志は悪い。それは間違いない。
『見てられない』とか『救いたい』とか『十年前から恋してた』とか色々言い訳めいた理屈を並べ立ててはみたものの、客観的あるいは社会的に見て配偶者がいる女性と肉体関係を持つことは擁護のしようがない不貞行為だ。
精神が不安定なところに付け込んで、しこたま酒を飲ませて判断能力を奪い、しかる後に事に及んだ。透が怒らないから受け入れてもらえたと都合よく解釈していたが、自分の所業を冷静に列挙してみれば、『
もちろん優吾も悪い。彼に至っては十年に渡って不貞行為を繰り返してきた。
篤志を含めた三人の関係では被害者だが、夫婦の関係に限って言えば彼は加害者だ。
こちらも擁護の余地がない。
では――透はどうだろうか?
篤志の誘いを振り切らなかったことは咎められるべきことなのだろうか?
浮気した。篤志と関係を持った。それは決して褒められることではない。
でも、長年にわたる夫の浮気に苛まれ、希死念慮に囚われるほどに心身を消耗し、さらに酒精を口にしており正常な判断を下せない状態だった。
確かに彼女は篤志を拒まなかったが、その一点を持って『悪し』と断じることはできないと思った。
法律がどうとか、その手の問題は置くとして。
――悪いのは、俺と風祭だよな。
ここで透に罪を負わせることは許されない。ごくごくシンプルにそう思った。
男女平等だとか、フェミニズムだとか、そういうメンドクサイ話ではない。
矜持の問題だ。人として男として、格好をつけなければならない場面だった。
……もう一方の男である優吾がどう考えているかはともかくとして。
「透さん」
「なんですか? 私は今、優吾さんと話を……」
「さっきも言ったけど、俺と結婚してくれないか」
「……」
「……」
瞬間、優吾に相対していた透の声が止まった。
篤志に向けられた顔はちょっと面白いことになっている。
大きく目を見開いて、口をパクパクと開閉させて。
一方で優吾の方もおかしな表情を浮かべている。
何を聞かされたのかよくわからない。
自分の勘違いではなかろうか。
変な夢でも見ているのではないか。
あれやこれやと疑ったのだろう、自分の頬を指で抓っていた。
そして――
「大久保、お前……ふざけてんじゃねーぞ」
地の底から響くような重い声には、噴火直前のマグマを思わせるドロドロとした怒りと、今にも弾けんばかりの熱量が込められていた。
いまだに反応しない透を置いて、篤志は優吾と向かい合う。
歪められた眼差しを真正面に受けて、なお怯むことなどなかった。
「風祭、俺は本気だぜ。お前に透さんを任せられねーってわかったからな」
想い人を十年間苛んできた悲劇を知らされた。
彼女が死を望むほどの嘆きを目の当たりにした。
その元凶である優吾のもとに透を返すなんてありえない。
何もかもが高校時代とは違う。透の心は優吾からすでに離れている。
ならば――たとえ夫婦だろうと遠慮する必要を感じなかった。
透を幸せにするのは自分だと、強く強く胸に誓う。
「はっ、ずいぶんと知った風な口を利くじゃないか」
優吾は変わらない。
なぜそこまで変わらないのか、それがわからなかった。
否、変わってはいる。高校時代よりも、さらに悪化している。
いったい何があればここまで人はおかしくなるのか。
状況が状況でなければ、じっくり取材してみたいと思わせるほどに。
「なぁ、何でそんなに偉そうなんだ? お前、ずっと浮気してたってきいたぞ。どう考えてもおかしいだろ、それ」
心の底からの疑問が口をついて出た。
篤志は自分が普通の人生を歩んでいないと言う自覚がある。
些か以上に常識が欠落しているし、毎日が非日常な生活を送っている。
おおよそ『一般的』だの『普通』だのといった基準とは無縁ではあるものの――いくら何でも風祭の言動は解せなさすぎた。
自分は浮気を繰り返しておいて悪びれることなく、透が浮気をしたら嵩にかかって責め立てる。
「俺のは浮気じゃない。他の女を試してみて、それで透の素晴らしさを再確認していただけだ。わかるか、大久保」
その言葉を聞いた瞬間、篤志の中で何かがキレた。
いつの間にか握りしめられていた拳を振り上げて――
「わかんねーよッ!」
「やめてください、篤志さん!」
右半身に重みを感じた。透だった。
小さな身体を精一杯伸ばして、殴りかかろうとしていた篤志を抑えにかかっている。
振り払うことは容易だったが、振り払えなかった。
透の心を思えば無碍にすることなど、とてもではないができることではない。
でも――
「透、お前ッ!」
「透さん……何でこんな奴を庇うの?」
篤志と優吾の視線を受けて、透はゆっくりと身体を離した。
俯いたまま肩を震わせている。
表情を窺い知ることはできないが、彼女の中で様々な感情が入り乱れているように見えた。
答えを急かそうとは思わなかった。
しばしの間、沈黙が続いた。
遠くで鹿威しの音が聞こえた。
緊迫感が張り詰める部屋に三人、誰ひとり身じろぎひとつできない。
「……優吾さん」
微かな吐息の後に透の声が室内に響いた。穏やかな声だった。
上げられた顔には、静かな笑みが湛えられていた。
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