第11話 現代編 決別、そして……
「
あまりにも穏やかな
言葉は出なかったが、心臓がキリキリと痛みを発した。
それほどに優しい声だった。
――やっぱダメなのか、夫婦だもんな……このふたりは。
何だかんだあったり、お互いに悲しませあったり。
すれ違ったり、喧嘩したり。
それでも最後には仲直りして前に進む。
自分にはついぞ築くことのできなかった関係、それが夫婦。
優吾の言葉は一面の真実をついていた。ふたりにしか立ち入れない領域は確かに存在した。
十年来拗らせていた恋の終わりを目の当たりにして――率直に死にたくなった。
透たちの関係が無事に修復されることにホッとなどしなかった。
思いあがっていたのは自分の方だった。高校の時とは違うのだ。何もかもが。
終わった。今度こそ終わった。絶望に脳裏が侵食されて――
「これを、お返しします」
だから、続く透の言葉の意味を理解しかねて首を傾げた。
いつの間にやら彼女は優吾の前に移動していて、夫に何か手渡していた。
「と、透、これは……待て、俺は、俺はッ!」
指輪だった。
この街に来てからずっと透の指にあって鈍い光を放っていた、あの指輪。
その指輪を、透は優吾の手のひらに乗せていた。
「透さん……」
「私はもう、疲れました。あなたの傍にいればいるほど、あなたを嫌いになってしまう。あなたを嫌いになる自分を嫌いになって、生きることが辛くなってしまう」
穏やかな声だった。
穏やかな顔だった。
でも……眦の端には涙が浮かんでいて、頬は色をなくしていて。
「透……まだだ、まだやり直せる。俺たちは……俺たちはッ!」
食い下がる優吾にゆるゆると首を横に振る。
「ダメなんです。優吾さんは気づいていないし、篤志さんはあえて何も仰りませんでしたが……もしここでこの人と出会わなければ、そもそもこうして私たちは顔を合わせることすらなかったんです」
「それは、どういうことだ?」
虚を突かれた。
優吾の声から、表情から、そんな気配が漂ってきた。
「死ぬつもりでした」
震える優吾の声に、飾り気のない言葉が被せられる。
あまりにも非現実な文字列を飲み込むことができないようで、優吾は妻を見上げたまま眉を顰め、そして――
「透、そういう冗談は」
「冗談と解釈するあなたに、もう耐えられないんです」
俯いてしまった透から逸らされた優吾の視線が、宙を彷徨い篤志に向けられた。
『
それでも、昨日の昼間に起きた一件を伝えるつもりはなかった。
篤志だって自分の目で見て追いかけて、透を止めなければ信じたりはしないだろう。
漫画とかゲームじゃなくて現実の人間が、いつも傍にいる人間が唐突に死を迎える。
ありえないとまでは言えないが、想像力の限界を軽く超えるストーリーだった。
しかも悲劇だ。できれば無縁でいたい類の。
相手が憎い優吾だからと言って、迂闊に触れてあげつらう気にはなれなかった。
だから、あえて話題には出さなかった。
そこに透が言及した。今さら誤魔化すことはできなかった。
「風祭、透さんはお前が想像している以上に追いつめられていた」
優吾は篤志の言葉を聞いても、ピンとこない顔をしていた。
しばし透と篤志の顔を交互に見て、ふたりの顔に深刻なものを感じたのだろう。
嘘でも冗談でもない。透はここで死ぬつもりだった。
そこまで追い詰めたのは自分に他ならない。その事実に思い至ったようだ。
「何でだ、何でそんなことになるんだ。今までのことだってそうだ。ずっと許してくれたじゃないか。何で今回になって突然……」
「お前にとっては突然でも、透さんにとっては突然じゃなかったんだろ」
いつまでたっても透と向かい合おうとしない優吾に腹が立った。
口調は荒々しくなり、いっそぶっきらぼうなほどに言い放った。
「お前は関係ない。何度も言うが知った風な口を――」
「十年ぶりに会った篤志さんの方が、ちゃんと話を聞いてくれる。ずっと話をわかってくれる。そんな夫婦って……おかしいじゃないですか」
透の声は濡れていた。
溢れ出した涙が頬を伝って畳に落ちる。
似ていると思った。十年前の教室で見た『
あまりにもきれいで――あまりにも悲しい姿だった。
「……めねぇ」
「優吾さん?」
重苦しい沈黙の果てに優吾が唸った。大地の底から響く不吉な地鳴りに似ていた。
怒りと怨嗟と、憎悪と……ありとあらゆる負の感情が入り混じった声。
人の口から、こんな昏い音が出ることに驚きを覚えるほど。
「認めねぇよ、こんなこと。透、指輪なんかなくったってお前はまだ俺の妻だ。俺たちは夫婦だ。もう子どもじゃない。結婚してるし書類は役所にも提出されている。誰が何と言おうとも、俺がお前の夫なんだ。そして――」
激昂していた優吾が篤志を睨みつけた。
闇を湛えた眼差しに、ただ憎悪だけが煌々と灯っている。
「お前はただの間男だ。身を引け、大久保。裁判になれば勝ち目はないぞ」
恫喝に勝利への確信がみなぎっていた。
高校時代の篤志なら、こんな優吾と関わることは避けただろう。
存在感が違う。住んでいる世界が違う。持っているものが、見ているものが違う。
それこそ、様々な理由をつけて。
あの頃の自分は、優吾に勝るものを持っていなかったから。
戦う前から――逃げていたから。
「断る」
今は違う。逃げない。退かない。譲らない。
目の前の男に首を垂れる理由がない。
ただひと言で切り返してみれば、優吾は忌々し気に顔を顰めた。
「大久保、お前ッ」
「確かに俺たちはもう子どもじゃない。俺はただの間男に過ぎない。裁判になれば勝ち目はないかもしれない」
「だったら」
「でも、断る。透さんを泣かせるだけのお前なんかの言うことは聞きたくねーし、お前の傍に透さんを置いておくなんて断じてありえねー」
先ほど口にした内容とほとんど同じことを繰り返す。
透が優吾を振り払った事実が、篤志の背中を強く推していた。
「ガキかお前は!」
「その言葉、そっくりそのまま返すぜ」
真っ向から優吾に相対した。
今の篤志にはそれほど難しいことでもなかった。
高校を卒業してからの十年間、死に物狂いで夢を追いかける過程で多くの人間と縁を持った。多くの経験を得た。良いこともあったし悪いこともあった。全部含めて今の『大久保 篤志』は形作られている。結婚しても就職してもなお、どこか甘えを残している優吾を恐れる理由なんてなかった。
「何があっても引き下がらねーよ。いいぜ、とことんやろうじゃねーか」
「お前……お前ッ!」
優吾の口からは、もはや意味の有る文章が出てこない。
ただ憎々しげに『お前』を連呼するのみ。
向けられる視線が、ただひたすらに煩わしい。
「これ以上ここで話すこともなさそうだ。用が済んだらさっさと帰ってくれ」
「……大久保、お前だけは絶対に潰す」
端正な顔は奇妙に歪み、もはや殺意に近い感情に満ちた眼差しは篤志を捉えて離さない。
それでも篤志は胸を張った。たじろぐことすらない。
むしろ笑った。ニヤリと。
『悪人顔……』なんて透の声が耳をかすめて、ちょっと悲しかった。
荒々しげに立ち上がり最後に一瞥寄越して部屋を去る優吾。
その背中をずっと見つめて、乱暴に閉じられたドアの音の聞いて、ようやくため息ひとつ。
「物に当たってんじゃねーよ」
最高潮に高まっていた緊張感が緩んだ。
張りつめていた空気がほどけて、篤志はどさっと腰を下ろした。
虚勢を張っていたつもりはないが、たとえ相手が憎い男でも強気でゴリ押すのは苦手だった。大きく吐きだした吐息が、なんとなく重苦しい。
「あの、篤志さん」
「えっと、俺を選んでくれたってことで良いのかな?」
恐る恐る声をかけてきた透に茶化すように問い返す。
「……」
「何その沈黙」
まさか、事ここに至って『NOはないだろう』という見込みはあった。
確信はなかったので、内心では結構ビクついていた。
最後の方は篤志と優吾がバチバチやらかしていたが……透の声は聞こえなかったから、実際のところは不明なままだった。
相も変わらず透のことを気遣えていない。
「本当に、私でいいんですか?」
「透さんがいいんです」
「でも、私だと優吾さんが……」
「それはどうにかします」
「どうにかって」
「どうにかはどうにか。まぁ、後で考えます」
「そんな悠長な……」
なんとも微妙な顔をする透に笑みを返した。
笑みを見た透の反応は、さらに微妙だった。
――案外どうにでもなるもんさ。
声には出さず、心の中で呟いた。
「それより、答えが聞きたいです」
「……」
返答がない。ひたすらに沈黙。
部屋の空気が重い。
「透さん、俺、ダメなら」
そう言ってくれ。ちゃんと諦めるから。
喉はカラカラで、身体中から変な汗が噴き出していて。
時間の感覚も上下の感覚もすでになく、不規則で乱暴な鼓動を打つ心臓が耳障りで。
永遠に待っているようにも、ほんの一瞬の間のようにも思える。
「……私は」
透の声が耳を震わせた。
『私は』なんなの?
そう問い詰めたいところを、ぐっと我慢した。
レンズ越しに透の瞳を見つめる。黒い瞳を、じっと見つめる。見つめあう。
透の瞳はキラキラと輝いていて、目蓋は赤く腫れていて、涙はまだ零れ続けていて。
「私を好きだと言ってくれて、ありがとうございます。でも、私は……あなたのことが、篤志さんのことがよくわかりません。私は、私がわかりません」
「透さん……」
「すみません、こんな自分で。あなたが私のどこを好きになってくれたのか、わかりません。篤志さんのことを好ましくは思っていますが、この気持ちが……怖いんです。これが恋とか愛とかそういう感情だったとしたら、私、あまりにも軽薄すぎる。そんな自分に嫌気がさします。でも……」
「でも?」
「あなたと一緒にいたいと思う気持ちはあるんです。嘘じゃないんです。」
『それだけは信じてほしい』
濡れた言葉の外に隠された本音を心でキャッチした。
「おっけーおっけー」
「でも……って言うか何なんですか、その軽さ! 私はッ」
「一緒にいようよ、透さん。俺、絶対透さんを惚れさせて見せるから」
精一杯カッコつけてみたつもりだったのに、じっとりとした眼差しが返ってきた。
『選択肢間違ったかな?』と首を捻る。割と自信があったのだが。
これでダメなら、百点満点の答えなんて皆目見当もつかない。
「……その自信、どこから来るんですか?」
「さぁ、なんとなく?」
軽めに返したら、これ見よがしなため息をつかれた。
しばらく頭を押さえていた透は、何かを思い出したかのように顔を上げた。
「さっき、優吾さんを殴ろうとしましたよね?」
「ああ、アイツは絶対に許さ」
「篤志さんの右手は、人を殴るためのものではないと思います」
「あ、はい」
甘やかな空気はどこかに吹き飛んで、怒りに近い感情を見せる透の迫力に気圧された。
そのまま膝をつき、正座して、しばしの間説教を食らい続けた。
『なんか想像してた展開と違うな』と心の中で肩を竦めながらも、自分のことを大切に思ってくれているのだと好意的に解釈して、自然と頬を緩ませる。
「何がおかしいんですか、篤志さん」
「いや、透さんのこと好きだなって」
「はぁ……こんな説教臭い女が好きとか、変な人ですね」
そう言う透の頬も緩んでいた。
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