第12話 現代編 エピローグ

 うとうとと舟を漕いでいた。

 目蓋の裏が明滅し、意識がゆっくりと覚醒する。

 そっと目を開けると、ちょうど電車が山間を抜けたころだった。

 窓の外に広がる海の煌めきが眩しくて、思わず口笛を吹いた。


「お行儀が悪いですよ」


 くすくすと笑う声は、すぐ横から。

 お叱りの言葉ではあったものの、柔らかく暖かみのある声だったから、耳に痛くはない。

 

「ごめんって、とおるさん」


「別に怒っていませんよ、篤志あつしさん」


 言葉に嘘はなさそうだった。

 どちらかと言うと機嫌は良さそうだった。

 隣に座っている女性はゆったりとシートに身を委ね、篤志越しに窓の外を見ていた。

 ちらりと目を向けると穏やかな笑みが帰ってくる。

 篤志にとって最愛の人である透だった。

 かつては『天城 透あまぎ とおる』であり『風祭 透かざまつり とおる』だった。

 今は『大久保 透おおくぼ とおる』だ。

 

「あれからもう3年かぁ」


 窓の外に目をやりながら、ついついため息が零れてしまった。

 子どものころは『人生80年』なんていわれてもピンとこなかったのに。このペースで時間が流れていくとするなら、80年なんてあっという間に過ぎ去ってしまいそうな気がしてしまう。


「時が経つのは早いですね」


「年々早くなってる気がする」


 頬杖をついてぼやくと、隣でポニーテールが縦に揺れた。

 これから向かう温泉街で篤志たちが再会したあの日から、すでに3年が経過していた。





 優吾ゆうごとの物別れの際に『どうにかする』と嘯いた。

『どうやって?』と訝しむ透が目にしたのは――あっさりと専門家にお任せする篤志だった。

 もともと篤志は法律関係には詳しくないし、自分が不利であることは百も承知していた。

 ならばどうするか?

 答え――専門家に任せる。実にあっけない答えだった。

 漫画家として大成しつつあった篤志には出版社との縁がある。

 恥を忍んで事情を説明して付き合いのある事務所を紹介してもらい、大枚叩いて高名な弁護士を雇い、何度も協議を行った。

 幸い金も時間も余裕があった。

『まぁ、法廷モノを描く時の資料になるかもしれませんね』とは担当編集の後藤ごとう氏のお言葉である。ならば経費で落ちないかと尋ねてみたが、さすがにそこまでは無理だった。

 それはともかく。

 篤志としては透さえ守れればよかった。『透を守る』という言葉には優吾たちに会わせないという条件も含まれていた。どうなることかと心配していたのだが、『長年彼女が置かれていた状況は精神的DVと言っても過言ではありませんから、面会を拒絶することは自然でしょうね』と弁護士も太鼓判を押してくれた。篤志自身も今さら優吾と顔を合わせたいとは思わなかったから、可能な限り弁護士に任せることにした。

『任せる』ことと『丸投げする』ことは違う。最大の違いは責任の所在であり、篤志はそこまで放り投げるつもりはなかった。

 自分がしでかしたことが原因で苦境に立たされていることは自覚していたし、必要とあらば弁護士とともに優吾と交渉することを厭いはしなかった。多少の出血は已む無しと初期段階において方向性を定めてくれたので動きやすかったと、のちに弁護士は語った。


『優吾さんはきっと何もかも自分でやろうとするでしょうね』


 静かに述懐した透に『そんなの無理じゃね?』と尋ね返したものの、かつての妻(当時はまだ別れていないから、この表現は適切ではない)は悲しげに首を横に振るだけだった。高校時代からワンマン気質なところはあったが、状況を俯瞰し最善手を求めれば選択肢はそれほど多くないことに気づくと思うのだが。

 さすがにすべてを自分でやるとは思えない。本気で透を奪い返そうとするのなら、専門家を頼る方が効率的だ。『そこまでは理解するだろうが、アレコレ口を差しはさんで状況を混乱させるのではないか』というのが十年以上連れ添った透の読みであり、実際にその通りとなった。

 

『自分ひとりでできることなんて、たかが知れているのになぁ』


 高校を卒業とともに上京し、漫画家として独り立ちすべく邁進していた篤志はシンプルな事実を肌で実感している。

 単に漫画を描くだけでもアシスタントの協力は不可欠だ。

 原稿を上げたとしても、そこから先には出版までに多くの人の手を借りることになるのは明白。専門外の分野なんて意地を貫き通すところではない。


 徹底抗戦および完全勝利を求める優吾と、被弾前提で話を進める篤志側の弁護士は散々にやりあって――最終的には離婚協議が整った。当初から想定された着地点にたどり着いて、篤志陣営は皆で祝杯を挙げた。慰労の費用は全部篤志が持った。それくらいはノープロブレムと高笑いできるほどの大金星と弁護士を褒め称えて差し支えない結果だった。

 これにて一件落着かと思いきや、現実はそこから先の方が大変だった。

 弁護士に協議を任せる傍らで透の実家こと天城家を訪れて彼女の両親に顛末を説明し、決着がついてから改めて『娘さんをください』と頭を下げた。

 もっと揉めるかと内心では冷や冷やしていたものの、逆に静かに涙を流されて焦った。

 透が置かれていた状況を察していながら『夫婦のことだから、あの子たちももう大人だから』と干渉を躊躇っていたこと、風祭家との長い家族ぐるみの付き合いの歴史もあって娘に負担を背負わせていたこと、悩み苦しむ娘を助けることができなかったこと。

 何もかもをずっと後悔していたと、夫婦そろって慨嘆された。

 透と両親が抱き合って泣く姿を見て、少なからず胸のつかえがとれる気持ちだった。

 ……ここで話が終わっていればハッピーエンドと言えなくもないのだが、報告しなければならない相手がもうひとつ存在した。


『このまま東京に戻ったらダメかな?』


『バカなこと言ってないで行きますよ』


 ひょろりと背が伸びた篤志を〇学生と見まごうばかりの透が引っ張っていく姿が地元の衆目を引いたが、当の本人はそれどころではなかった。向かう先はもちろん――大久保家。十年前に出奔して以来の帰宅である。

 そこで何が行われたか――それはあえて語らない。


 何やかんやとあって、概ね状況が解決した頃合いを見計らって。

 ふたりは無事に入籍し、再会の地である温泉街を訪れた。

 新婚旅行であり、永らく活動を停止していた漫画家としての『大久保 篤志』の再始動を前に英気を養おうという心づもりもあった。


「変わんねーな、ここは」


「私はいいと思いますけど」


「同感だ。いろいろ忙しすぎるんだよ」


「ほんと、そうですね」


 目まぐるしく変遷する環境に急き立てられるような日々が続いていた。

 本格的に漫画を描き始めたら、さらに忙しくなる。

 楽しみでもあり、憂鬱でもある。

 夢を叶えて、それで終わりではないのだ。

 人生は、ずっと続く。

 あと何年続くかはわからない。

 でも、透と一緒ならいつまでも楽しくやっていけるだろうという確信があった。


「ねぇ、篤志さん」


「ん?」


 駅のホームに降り立って、凝り固まった体を伸ばしていると、透が『耳を貸せ』とジェスチャーしている。

 周りを見回してみたが――人影は見当たらない。

 ややシーズンを外しているせいだろう。


「なに、透さん?」


 尋ねてみても、透は先ほどと同じモーションを繰り返すだけ。

 否、少し違う。眉が吊り上がっている。怒っている。


――わけわかんね。


 別に誰かに聞かれるわけでもないのに。

 そう思いつつも、そっと耳を寄せる。

 透の唇が近づいてきて、かすかに震えた。

 聞こえてきた言葉の意味をゆっくりと咀嚼する。

 別に難しいことではなかった。ただ、実感が伴わなかっただけ。

 それでも……何度も脳内で反芻し、ようやく心身ともに理解がいきわたった。

 言葉にしがたい震えが頭のてっぺんから足元まで走り抜ける。

 まるで雷に打たれたような、圧倒的な衝撃とともに。

 隣りを見やると、最愛の女性は頬を真っ赤に染めていて。

 透は恥ずかしそうに、それでいて誇らしそうに微笑んでいた。


「えっと、その……ありがとう、透さん!」


「篤志さん……こちらこそ、ありがとうございます」


 感謝とともに篤志は透の小さな身体を抱き上げた。

 誰もいない駅のホームで、幸せに満ち溢れた口づけを交わす。

 回り道をした。人の道に外れることもした。すべての問題が解決したわけではない。

 それでも――





 バトル漫画の金字塔『鉄血戦記』の『荻久保 厚おぎくぼ あつし』が本誌に帰ってきた! 

 今度の荻久保は――なんと恋愛モノ!?

『無理でしょ』(アニメ版鉄血戦記総監督)

『無理でしょ』(ノベライズ版鉄血戦記著者)

『無理でしょ』(出版社各位)

『私は止めました』(担当編集:後藤)

 関係者全員が口をそろえた問題作。

『十年後の君は、罪の味』に乞うご期待!

 原作:THOR

 作画:荻久保 厚

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十年後の君は、罪の味 鈴木えんぺら@『ガリ勉くんと裏アカさん』 @hid

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