第3話 現代編 大人の夕食

 結果から言えば、篤志あつしとおるは風呂を上がってから夕食までの間、これと言って特に何もしなかった。

 温泉名物じみた卓球台はあったけど、せっかく汗を流してサッパリしたのに運動する気にはなれなかったし、すっかり暗くなっている外へ繰り出す気にもなれなかった。

 だったら部屋に戻ればいいと考えなくもなかったが、ひとりで部屋に帰ってゴロゴロする自分を想像すると空しさが込み上げてきたので、透とふたりでだらだら館内を歩きながら雑談に興じることにした。

 宿に泊まっているのは自分たちだけではなく、ちらほらとほかの客の姿も見受けられた。

 色々と聞きたいことはあったものの、いい年した大人としては衆目を意識せざるを得ず、あまり踏み込んだ話題に触れることはできなかった。


──情けないけど……まぁ、これでよかっただろ。


 などとひとりで納得している篤志に向けられる透の眼差しは、穏やかにも不機嫌そうにも見えた。

 そして──


「うわぁ」


「こりゃすげぇ」


 テーブルに並べられた豪勢な食事を前にふたりは感嘆の声をあげていた。

 まず目を惹くのは色鮮やかな刺身の盛り合わせ。

 次いで鼻をくすぐる焼き魚の香り。

 ぐつぐつと煮立てられた鍋。

 つやつやと輝く白米。

 料理に疎い篤志には言語化できないあれやこれやが視覚・嗅覚・聴覚をこれでもかと刺激してくる。

 三十路を前に控えた身としては『こんなにひとりで食べられるのか?』と戦々恐々であった。

 ちなみに、ふたりがいる場所は──篤志の部屋だった。


 事の発端は雑談のさなかに零れた何気ないひと言だった。


『透さん、晩飯一緒にどう?』


 せっかく十年ぶりに再会したのだから、もしよければ飯でも食おうぜ的なノリで気軽に誘ったつもりだったのだが、透の顔がやたらと渋い。


『あれ、透さん?』


 予想外の反応に戸惑いを隠せないまま首をかしげていると、目の前で透が大げさすぎるため息を吐いた。


大久保おおくぼさん……自分が何を言っているか、ちゃんと理解されていますか?』


『え? あれ、なんか変なこと言った、俺?』


『……先ほど部屋に温泉があるとおっしゃってましたよね?』


『ああ、あれ凄いな』


『ということは、かなりいい部屋を取っておられるということでして』


『みたいだな。ネットで見て驚いたわ』


 自分の発言に違和感を覚えなかったのは、篤志に旅行の経験がほとんどなかったからだ。最後の記憶は高校の修学旅行である。

 脳内のイメージが修学旅行で固定されていたから、食事はみんな揃って大広間で摂るものだと思い込んでいた。

 だから透の反応が理解できなかったし、彼女の口から紡がれる言葉を聞いて絶句させられた。


『その場合、食事はおそらく自室でいただくことになると思うのですよ』


『ちなみに私は食堂でいただく予定です』と真顔で付け加えられた。

 事ここに至って、ようやく自分が何をやらかそうとしていたのか理解させられた篤志である。

 高校時代のクラスメートとは言え、今の彼女はれっきとした人妻。

 しかも既にひとり旅であることを聞かされている。

 状況にいささか腑に落ちないものを感じてはいるものの、いかにも訳ありな人妻を自室に誘うなんて……


――それはヤベーだろ。


 思わず心の中でマジツッコミを入れてしまった。 

 透は額を抑えて頭を振っている。気のせいか小さな耳が朱に染まっている。

 篤志は自らの失言にびっくり仰天し、慌てて釈明に走った。


『いや、ちょっと待って。そんなの知らないし』


『それはまぁ……大久保さんはそういう方ではないでしょうし』


――どういう方だよ!


 問いただしたかったが、それどころではなかった。

 透の後頭部で無造作に束ねられている黒髪が揺れた。

 何度も何度もため息が続いた。『やれやれ』といった風情だった。

 もはやわざと見せつけているようにしか思えない。

 篤志の心の奥に潜む後ろめたさが、そう錯覚させたに違いなかった。


『……』


『……』


 居心地の悪い沈黙。

 そわそわする篤志、俯いてしまった透。

 ふたりに気づかないふりをするほかの客と従業員。

 しばしの時を置いて、顔を上げた透が小さな口を開いた。


『すみません、私がおかしなことを考えすぎでした』


『え?』


『こうしてせっかくお会いできたのですから、ご一緒しましょうか』


『え? あれ?』


『私、大久保さんを信頼していますから』


 信頼。重い言葉だった。

 笑顔に逆らえない。圧力が半端ない。『小さな巨人』の面目躍如だった。

 戸惑っているうちに勝手に話が進み、聞き耳を立てていたらしい従業員に透が声をかけ、話を振られた篤志が首を縦に振り──そして現在に至る。

 篤志の部屋に透がいて、ふたりの前には豪勢な料理が並べられている。

 遠くから、鹿威しの音が響いた。



 ★



「いい部屋ですね」


「ああ、まぁ」


 せっかく話を振られたのに、口にできたのはそれだけだった。

 全体的に和食寄りの豪勢な料理を挟んで、透が微笑んでいる。

 現実味のない光景だったので居た堪れなくなり、そっと視線を逸らす。

 咎められることはなかったが、代わりに控えめな声で質問が飛んできた。


「話半分に聞いていましたが、本当に自室に温泉があるんですね」


「そんなとこで見栄張ってどうすんの?」


「……その、失礼なことを聞きますが、ここってかなりお高いのでは?」


「それがさぁ、俺が頼んだわけじゃないっつーか」


 篤志は苦笑まじりにこの温泉街へやってきた概略を口にした。

 大きな仕事を片付けて呆けていたら燃え尽き症候群と勘違いされて、『英気を養って来い』とばかりに勝手に温泉宿を予約されて叩き出されたという情けないものだったが。

 流される形でここまできたものの、いざ誰かに自分の置かれた状況を説明してみると、ハッキリ言って違和感しかない。

 ミステリーだったら『胡散臭すぎる。こいつが犯人では?』と疑いをかけたくなるレベル。逆に設定がわざとらしすぎて安牌扱いかもしれない。


「は、はぁ」


 案の定、透も反応に困っている。

 久方ぶりに目にした素の表情に、篤志の口元が緩んだ。


「ま、俺の方はそんな感じ。それより早く食おうぜ。冷めちまったらもったいない」


「確かに、いただきましょうか」


 ふたりで手を合わせて『いただきます』と口にして、篤志はおもむろに箸を掴んだ。

 日ごろはインスタントや出前がほとんどで『安い』と『早い』を有難がる生活だ。贅沢な食事には慣れていないので目移りしてしまう。


「これだけ色々あると、どこから手をつけたらいいのやら……」


 などと鼻歌交じりに迷っていたのは篤志だけだった。

 料理を挟んで向かいに腰を下ろしていた透は、迷うことなく徳利に手を伸ばしている。


「え?」


「どうかしましたか、大久保さん」


 顔を上げた透と目があった。

 不思議そうに首を傾げている。


「いや、なんでもないっす」


「おかしな人ですね」


 篤志が言葉を引っ込めると、透はふんわり笑ってお猪口に酒を注ぎ、優しく手にとって口に運んだ。

 小さな喉が上下して、ほうっと息を吐いた。微かに色づいていた唇が、透明な酒で湿り気を帯びる。


「ふぅ。美味しいですね」


「あ、ごめん。気が利かなくて」


 慌てて篤志は徳利を手にとって、透に向ける。

 透はお猪口を差し向けて、これを受ける。


「いただきます」


 注がれた酒を、またもやひと息に呷る。

 その所作には一切の澱みがなかった。

 こくりこくりと動く喉を見ていると、なんだか落ち着かない。


「大久保さんも、どうぞ」


 向けられた徳利を──篤志は手のひらで止める。

 視線が痛かった。

 興が削がれると透の黒い瞳が語っている。


「大久保さん?」


「いや、俺、酒はちょっと」


 嘘だった。

 確かに好んで酒を飲むことはないが、飲めないわけではない。

 仕事の付き合いで口にすることもあるから、今だって透に付き合うことぐらいはできる。


「そうなんですか?」


「そうなの」


「こう言ってはなんですが、大久保さんはかなり強いのかと思ってました」


「はは……よく言われる」


 図星を突かれて頬が引きつった。

 好きではないが、飲むことはできる。

 これまでの経験上、自分はかなりアルコールに強いという自覚があった。

 ただ──透とふたりきりのこの状況で酔うことに後ろめたいものを感じただけで。


「でも、私ひとりでいただくというのは……」


 物凄く残念そうな声と、悲しげな表情。

 手に徳利を持っていなければ、色々と勘違いしてしまいそうになる。


「いや、俺のことは気にしなくていいって」


「そうですか?」


「そうそう」


 思いっきり首を縦に振った。

 酒席で酒を断ると、周りも飲みづらくなるというのは実体験から理解できる。

 自分のことは気にせず存分に楽しんでほしいと言っても、『はい、わかりました』と素直に受け入れてもらえるわけではない。そこそこ名を知られるようになってからは、その傾向が加速気味だった。断りを入れるだけでも一苦労する日々に不自由すら覚える。

『やっぱり飲むべきか?』とも思ったが、すでに断ってしまったのに理由もなく翻すわけにもいかない。

 それよりも、念の為に聞いておかなければならないことがあった。


「ちなみに透さん、結構お酒はイケる口?」


「どうでしょう? あまり人と比べたことはありませんが」


 どうかしましたか?

 そう尋ねられて、ほんの少し迷いを覚えた。

 口にすべきか否か逡巡し、結局──口を開いた。


「いや、透さんがお酒飲むって、なんだかイメージと違うなって」


「私だってもう大人ですから、お酒ぐらい嗜みますよ」


 幼い顔立ちに、大人びた笑みが浮かんでいる。

 不思議な光景だった。


「それはまぁ、そうだよな」


 篤志の脳内に記録されていた『天城 透あまぎ とおる』は典型的な優等生だった。

 学校にお菓子すら持ってこないし、帰りに買い食いなんて考えもしない。

 21世紀においては漫画とかラノベでしかお目にかかれないような絶滅危惧種。

 もちろん飲酒やタバコなんてもっての外。

『天城 透』とはそういう少女のはずだったのだが……


──俺が28歳なんだから、透さんだって28歳……なんだよな。


 とてもそのようには見えないが。

 とてもそのようには見えないが。

 とてもそのようには見えないが。


「大久保さん、今、何を考えていましたか?」


「いえ、何も」


 チラリと目を向けただけなのに、メチャクチャ睨まれた。

 心なしかご機嫌斜めに見受けられた。


――はぁ……


 思ったことをそのまま口に出したりはしない。ちゃんと空気を読む。

 なるほど、確かに自分も大人になっていたと納得してしまった。

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