第4話 現代編 ダメな大人たちの酒宴

 一流の料理人が手がけた(とホームページに記載されていた)豪勢な料理の数々と、これまた普段はなかなか手が出せないほどのハイグレードな酒。

 ふたつ揃えば重かった舌も自然と回る。

 再会以来どうにも奇妙な空気が沈滞していたふたりであったものの……いざ宴が始まってみれば、いつしか篤志あつしからもとおるからも先ほどまでの微妙な余所余所しさは姿を消していた。

 なお、篤志は酒を口にはしていないのだが、なんとなく雰囲気に酔っていた。


 温泉で暖められたところに酒が入って、ほんのりと色づいた肌。

 ほろ酔い気味に潤む瞳と、艶めいた唇。

 目元と眉間もすっかり緩んで。

 どこからどう見てもリラックスしているはずの透は──


「聞いていますか、大久保さん」


「はいはい、聞いてますって」


 ヌッと差し出された透の白くて小さな手。

 そこに乗っかっているお猪口に、すかさず篤志は徳利を傾ける。

 並々と注がれた透明な液体は、止める間もなく透の唇に消えていく。

 唖然と見守っていると、またお猪口が付きだされる。エンドレスだった。


──えらいハイペースだな、透さん……


 片手の箸で料理をつつきながらも、お猪口を手放すことがない。

 お世辞にも行儀がいいとは言えないけれど、さりとて下品には見えない。

 最初は遠慮していた気がしなくもないが……つつましやかな彼女の姿は、今や記憶の彼方にすっ飛んでいる。もはやあれは夢だったのではないかと疑いたくなるほどに。


「聞いていますか、大久保さん」


「だから聞いてるって」


 同じ言葉を繰り返す透が若干心配になってきた。

 ちなみに、どんな話をしていたのかは覚えていない。


「大久保さん!」


「はい!」


 一喝されて頭のてっぺんから足のつま先まで電光が走った。

 さらには一際大きな声とともに透が身を乗り出してくる。

 高校時代の彼女を思い出させる口ぶりは、反射的に篤志の背筋をピンと伸ばさせる。

『小さな巨人』のふたつ名は伊達ではない。


──昔は苦手だったなぁ、これ……


 ビクリと身体を震わせつつも、懐かしさのあまり口元が緩む。

『大久保 篤志』と『天城 透』

 高校に入って出会ったふたりは三年間ずっと同じクラスだった。

 そして何かにつけて頻繁にぶつかり合う天敵同士でもあった。

 かたや一事が万事適当だった篤志。

 かたやお堅い委員長気質全開だった透。

 思想信条から日々のアレコレまで根本的に噛み合わなかった。

 それこそ、お互いに疎んじあっていたと言っても差し支えないほどに。

 あの日あの時あの場所で、泣き濡れる彼女を目にしていなければ……きっとふたりの関係はずっとそのままだっただろう。

 いがみ合ったまま高校を卒業し、顔を合わせなくなったらそれっきり二度と思い出すこともない間柄。少なくとも篤志にとっての透とはそういう人物だった。

 しかして今は──こうしてふたりで鄙びた温泉街で顔を合わせ、温泉につかって日々の疲れを癒し、テーブルを挟んで酒を飲んで豪華な料理を食べている。お互いにずいぶん穏やかになったものだと感心してしまう。こんな未来が訪れるなんて、まったく想像できてもいなかった。

 ……まぁ、篤志は飲んでいないのだが。


──それにしても……透さん、大丈夫なのか?


 真面目に心配するふりをしつつも、テーブルの向かい側から身体を寄せてくる透から目が離せなかった。

 きっちり着付けていたはずの浴衣が少しはだけていて、襟元から白い素肌がチラチラ見えて実に危うい。

 シルエットを裏切らない細身は、黙っていれば○学生どころか◎学生でも通用しかねない未成熟な肢体は華奢な印象を受ける反面、女性特有の丸みを帯びてもいる。矛盾しているようでしておらず、不思議と目を惹かれる。

 同い年にも関わらず十年の歳月を感じさせない顔立ちと、年齢相応に酒を嗜む姿が何ともアンバランス。


「大久保さん」


「……」


「大久保さん!」


「……え? ああ、何? どうしたの?」


 いつの間にか眼前に迫っていた透の顔。完全に目元が据わっている。

 すっかり酔っぱらっているうえに、ご機嫌斜めな模様だった。

 何も言われなくても自然と察せてしまったほどには。


「どこを見ていたんですか?」


「え?」


『何を話していたのか?』とか『聞いていましたか?』とか聞かれたならば、頭を掻いて『ごめん、聞いてなかった』と笑ってごまかそうと思っていたので、この質問は想定外だった。

 篤志の目が捉えていた光景や如何に。

 それは今この瞬間において一番聞かれたくなかったことでもあった。

 よりにもよって当の本人からの質問であったのが、なおさら質が悪かった。


「あ~、いや、その、えっと、ですね?」


「……」



「だから、ほら、あれだよ、あれ」


「……」


 適当な話題を振ろうとして、失敗した。

 混乱気味で気の利いた言い訳を思いつかない。

 沈黙が続くと、透の機嫌はさらに悪くなる一方で。

『これはダメだ』と心の中でため息ひとつ。

 雷を落とされる覚悟を決めて、素直に話すことにする。


「あの……透さん」


「何ですか。私の質問に答えてください」


「あ、はい。その……裾がはだけてます」


「……」


 そっと指で示すと、透が沈黙した。

 すとんと表情が落っこちて、間近で見つめる方としては気が気でない。

 篤志に向けられていた視線を下げて、自身の姿を顧みて、そして──


「ど、どど、どうして!? こ、こっち見ないで……って、きゃっ」


「透さん!?」


 慌てて上体を逸らして距離を開こうとした透は、勢い余ってドスンと落下。

 テーブルに並べられた食器がカチャカチャと耳障りな音を鳴らしたが、幸いなことに零れたりひっくり返ったりといった悲劇が発生することはなかった。

 料理人や従業員には悪いが、今はそれどころではない。

 透だ。

 お尻をさすっているところに手を差し伸べたら、浴衣の前を閉じて思いっきり引かれた。

 酒をしこたま飲んでいる割には正常な判断だと思う反面、不満を覚えずにはいられない。別に邪な気持ちを抱いていたわけでは……心の中で己の胸に手を当ててみたら、文句は言えなかった。


「いたた……何で言ってくれなかったんですか!?」


「ごめん、言ったら怒ると思って」


「怒りますよ、当たり前じゃないですか!」


 顔を真っ赤に染めながら、そんなことを叫ぶ。

 言っても怒る。言わなくても怒る。

 理不尽極まりない。


「えっと、次からはちゃんと言うから、その……勘弁してもらえるとありがたいです」


「……」


「……って無理だよな、はぁ」


 透は何も言わなかった。

 キュッと口を閉ざして、篤志を睨む。

 身長180センチを超える篤志とギリギリ140センチの透が向かい合うと、角度的に背が低い透の方が上目遣いになる。透は身長に比して脚が長いから、中腰の姿勢だとなおさら篤志の方が大きく見える。これがよくない。

 本人は意識していないのだろうが、視線が実にあざとい角度になる。

 今回の件については全面的に透が悪いと思っていても、本能的に頭を下げざるを得ないシチュエーションだった。


──まいったな……


 後頭部を掻きつつ唸る。ただし言葉にはしない。

 透は潔癖症というわけではなかったはずだが、そういう問題でもなかった。

 実際にはクリティカルな部分を目にすることはできなかったものの、『わかりました。だったら大丈夫ですね』なんて納得してもらえそうにない。

 穏やかだった雰囲気は霧散して、冷え冷えした空気が足元から這いあがってくる。お互いに視線が逸らせないまま時が流れる。遠くから響く鹿威しの音が、やけに癇に障った。

 スッとお猪口が差し出された。


「注いでください」


「え?」


「……今のは私が全面的に悪かったです」


「あ、はい。そっすね」


 咄嗟に肯定すると、物凄い睨まれた。

 理不尽だった。怒るなら言わなきゃいいのに。

 反論したかったが、それは火にガソリンをぶちまける行為だ。

 それくらいは理解できるから、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。


「先程の醜態をさっさと忘れたいので、呑みます」


「ああ、そういう」


 水に流す、ではなく酒に流す。

 大人の解決法だった。正確にはダメな大人の解決法だった。

 しかし、この宴席において最も合理的な解決法でもある。

 お猪口に酒を注ぐと、透は今日イチの勢いでぐびっと呷る。

 見ているだけで『ほんとうに大丈夫なのか?』と心配になってくるのだが……再びお猪口を出されると酒を注がないわけにもいかない。


──まぁ、透さんも子どもじゃないか。


 自分の酒量ぐらい自分で弁えているだろう。

 篤志はアレコレ考えるのはやめた。

 酒に流すと決めたのだから。


「よし、飲もう」


「え?」


「俺も飲む。さっきは何もなかった。そうでしょ?」


「え、ええっと……」


「ほら、透さんも飲んで飲んで。明日になったらみんな忘れてる。そういうことで」


 篤志が差し出したお猪口に、躊躇いながらも透が酒を注いでくれた。

 先ほどの彼女の真似をしてグイッとひと口。

 芳醇な香りが口に広がり、キリリと引き締まった味わいが喉元を通り過ぎていく。身体も頭も、そして顔もかあっと熱を持った。

 美味い。

 透の酌だから、とても美味い。

 刺身をひと切れ醤油につけて口に運び、そして酒。

 美味い。これは進む。料理も、酒も。

 

――なんだか楽しくなってきたぞ。


 へたくそな鼻歌まで出てきた。

 いい飯いい酒いい女。

 最高の気分だった。


「……ありがとうございます」


 ふと、小さな小さな感謝の声が耳朶を打った。

 もちろん聞こえないふりをした。

 感謝されるようなことなんて、何もなかったのだから。

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