第5話 現代編 酒宴の果てに

「やっちまった……」


 目の前に広がる惨状に、篤志あつしは頭を抱えてしまった。

『まさかこんなになるとは思ってもみなかった』なんて今さら言い訳しても意味がないし、聞いてくれる相手もいない。

 見て楽しくて食べて美味しい料理の数々は残骸へと変わり果てた。

 もはや数えることすら億劫になるほどの徳利の林が、テーブルを問わず畳の上を問わず所狭しと立ち並んでいる。もちろん転がっているのもある。

 そして、テーブルに突っ伏している――とおる


「透さん、起きて」


「う、うう〜ん」


 恐る恐る触れた肩は、浴衣越しでもわかるほどに華奢で暖かかった。

 その生々しい感触に、思わず息を呑まされるも放置はできない。

 ここは篤志の部屋であり、醜態を晒している透は歴とした余所様の人妻だ。

 眠っているのか気絶しているのかは判断できないが、とにかく起こして部屋に帰さなければならない。

 おっかなびっくり身体を揺さぶってみると、煩わしげに白い手に払われた。


「透さん、透さんってば」


「う〜る〜さ〜い~れ~す~」


 言語中枢が退化している。

 思考回路も壊滅している。

 幼児退行気味ですらある。


 憂いを帯びた表情が見られないのは喜ぶべきことなのだろう。

 でも、凛とした佇まいまですっ飛んでしまったのはいただけない。


――いくらなんでもこれはねぇだろ。


『いったいどうしてこうなった!?』と声を大にして言いたかった。

 すべては酒に酔った透が身を乗り出してきたところから始まった。

 浴衣の襟元から本来ならば見えてはいけないアレコレが見えてしまった。

 その魅惑的な光景を忘れるために痛飲すると決めた。

 内心いかばかりかは計りかねるとしても、表面上は意気投合して飲み始めたふたりだったが……程なくして透は撃沈した。


――なんかこう、ちょっとおかしいな。


 ちびちびと酒を啜りつつ首を捻ったものだ。

 この温泉街で再会するまで、透とは会っていない。その間、およそ十年。

 決して短くはない時間が経過している。

 十年もたてば人は変わると言われれば、それはそうかもしれない。

 それでも、今、篤志の目の前で正体をなくして倒れている『風祭 透かざまつり とおる』と、篤志の記憶に焼き付いているかつての『天城 透あまぎ とおる』のイメージが噛み合わない。

 学校帰りの買い食いすらロクにしたことのなかった少女が、自分の限界をわきまえずに酒を干して意識を失うなんて。


「こういうの、なんて言うんだったかな?」


 ビシッと嵌る表現があった気がするのだが、篤志も少なくはない酒を口にしていて頭がうまく働かない。

 なんとなく据わりが悪いように感じる。

 腑に落ちないとでも言うべきか。


 そんなことを考えつつも『まぁ、後で起こせばいいか』と、ひとり気楽に構えていた篤志だったのだが、いつまで経っても透が目を覚ます様子がない。

 だんだん『これはマズイのでは?』と焦りが生まれ、自身の足元が定かなうちに彼女を部屋に戻す決意をしたのだが、どうやら手遅れだったらしい。


 幸いと言うべきか、酒を酌み交わすうちに透の部屋の位置は聞き出していた。口を滑らせただけなのだが、事ここに至っては幸いと言うべきだろう。

 不用心との誹りはあるかもしれないが、部屋の鍵も確保できる。

 ……まぁ、風呂上がりの透は浴衣姿であるからして、貴重品を隠せる場所などほとんどなかったのだが。


──このまま寝かせておくってのはどうだ?


 一瞬、そんな考えが脳裏をよぎった。

 相当な量の酒を飲んでいる透を迂闊に動かすのは危険ではないか。

 勝手に予約されたこの部屋は、お値段お高めな反面、広さには余裕がある。

 小柄な(小柄でなくとも)女性がひとり増えたぐらいで狭さを感じるほどではない。

 もっともらしい理由が、すらすらと思いつく。


「いや、いやいやいや」


 篤志は慌てて頭を振った。

 彼女は『天城 透』ではなく『風祭 透』だ。

 名字の変化が意味するところはシンプルで、彼女の左手には指輪が光っている。何度も心の中で繰り返してきたが、今の彼女は歴とした人妻なのだ。

 つまり……この部屋で透と一夜を過ごすと言う案は魅力的かつある程度の合理性を保有してはいたものの、倫理的に却下せざるを得ない。


「透さん、ほら、部屋に帰ろう」


「う〜にゃ~」


──ダメだこりゃ。


 自力では立ち上がることすらままならない状態だった。

 篤志の周りにここまで泥酔する人間はいないから、酔っ払いへの対処法がよくわからなかった。


「誰だよ、こんなになるまで飲ませたのは?」


 自問して、即座に答えに行き当たる。

 自分であった。

 あれやこれやは飲んで忘れる。

 そう言って酒を口にし、透に勧めた。

 全部自分のせいだった。


「はぁ」


──さて、どうすっかな。


 透は歩けない。

 透を部屋に帰さなければならない。

 従業員を呼ぶべきかと考えて、やめた。

 この醜態を他人に見せるのはいかがなものかと思わざるを得ない。

 結論はわかりきっていた。篤志自身が連れていけばいい。

 さんざん目を逸らしてきたものの、詰まるところはそういう話だった。


「とは言うものの、なぁ」


『連れていく』というのは無理くさい。

 今の彼女は足元が覚束ないとか、そういうレベルじゃない。

『連れていく』ではなく『運ぶ』が正しい。では、どうやって?


 1 猫みたいに首元を掴む。

   →流石に無理。透の首がおかしくなりそう。


 2 篤志が背負う。

   →これも無理。薄い布越しに透の肌を感じて正気を失いそう。


「つまり、こうするしかないわけだ」


 膝の裏と背中に腕を回して透の身体を持ち上げる、いわゆるお姫様抱っこだった。

 これまた現実味のない選択肢ではあったが、先に挙げたふたつよりは幾分マシと開き直った。

『ひょっとして暴れるか?』と危惧したものの、透は篤志の腕の中でおとなしくしている。これでも体温を感じはするが、致命的な部分は密着していない。

 さすがにこれくらいは許してほしかった。これ以上も許してほしかった。

 抱えあげられた透は、ほとんど意識を失っている。目を覚ます様子はない。

 安堵のため息とともに、聞き出していた彼女の部屋に向かう。


「軽いなぁ、透さん」


 堪らなくなって、知らず知らずのうちに慨嘆した。

 高校時代から変わらない小さな身体は、驚くほどに軽かった。

 むしろ、昔の方が重かったのではないかとさえ思えるほどに。


──本当に、軽いなぁ……


 胸中に去来する得体の知れない感情は言葉にはならなかった。

 周囲の様子をうかがいながら、口を閉ざして黙々と目的地に向かう。

 平日の夜のせいか客でごった返しているということもなく、誰かに見咎められることもなく透の部屋にたどり着けた。

『日頃の行いのおかげだな』などと図々しいことを口走りつつ、透を抱えたまま鍵を開けて室内に足を踏み入れる。


「お邪魔しますよ、と」


 幸いなことに、布団は既に敷かれている。人の気も知らずにすやすやと寝息を立てている透を寝かせて、自分は早々に退散する。それでミッションコンプリートだ。

 心の中で何度も呟いて、布団に透をそっと横たわらせようとした、ちょうどその時──透が揺れた。違った。宿も自分も揺れている。

 室内にガタガタと不吉な音が鳴り響いた。


「じ、地震か!?」


 身体が勝手に動き、透を庇うように覆い被さる。

 幸いなことに揺れはそれほど大したものではなかった。

 篤志が酔っ払っていたから大事に感じただけ。

 ……だったのだが、それどころではなかった。


──と、透さん……


 透が、近い。

 触れてはいないが、体温を感じるほどの距離。

 小さな唇から漏れる微かな寝息が篤志の頬にかかる。

 閉ざされた目蓋と伏せられたまつ毛に気配を感じない。

 揉みあったせいか浴衣ははだけられてしまっていた。

 首筋から鎖骨を経て、なだらかに膨らむ胸元まで露わになっていた。

 月明かりの元で仄白い肌が眩しくて目が──離せない。

 未だ意識は覚めないようで、あまりにも無防備にすぎる。


「透さん、大丈夫?」


 喉を通って出た白々しい声は、やけに小さくて掠れていた。

 室内にはふたりきりで、余人の耳を気にする状況ではないのに。

 そして当の透はといえば、


「すう……すぅ」


 穏やかな寝息を立てている。

 すっかり寝付いてしまっているようだった。

 酒が入ってうっすら色づいた頬を見ていると、篤志の心に黒いものが混じりだす。

 同時に酔いに微睡む理性が目覚め、相反する感情の綱引きが始まった。

 葛藤があった。そして──


「柔らかいな……」


 そっと伸ばされた人差し指が、透の唇に触れた。

 柔らかくて瑞々しい、小さな小さな唇。

 欲望のままに奪うことは耐えた。

 流石にそれは許されない。


 ごくりと唾を飲み込んで──立ち上がって、部屋を後にした。

 ドアを閉める直前、その背中に聞こえるはずのない声を聞いた気がしたが、振り返りはしなかった。

 早足で自室に戻り、惨々たる室内を通り抜けて寝室に向かった。

 乱れた浴衣を直すこともせずに布団にダイブ。

 天井を見上げたまま大きく大きく息を吐き出した。

 胸の奥に溜まっていた吐息は、あまりにも熱かった。


「透さんさぁ……もっと、ちゃんと……」


 目蓋が重い。

 頭が重い。


 ここまで我慢してはきたものの、篤志だって相当な量の酒を飲み干している。

 率直に言って限界だった。

 口から溢れる言葉は意味をなさず、視界は闇に閉ざされて、朦朧としていた意識は深く落ちていった。


『よかった』


 その思いは嘘ではなかった。

 その思いは真実でもなかった。

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