第2話 現代編 お風呂上りに
「ふぃ〜、こりゃたまらん」
なみなみと湛えられた湯に身を委ね、
高級な宿のせいか視界を遮る宿泊客はそれほどおらず、眼前には『これぞまさしく絶景』と言わんばかりの世界が広がっている。
どこまでも続く青い海と赤く暮れ落ちる空が、遥か彼方で交わっていた。
眼下の海岸沿いには白い砂浜が広がり、いい感じに木々が彩を添えている。
大浴場はいわゆる露天風呂であった。
もともと篤志はあまり風呂に興味がなかった。
いつもはさっと入ってさっと上がる。いわゆるカラスの行水という奴だ。
現在の住居に備え付けられているユニットバスは、お世辞にも大きいとは言えず、身長180センチを超える篤志では足を伸ばすこともままならないが、特に気にしたことはなかった。忙しいときはシャワーだけで済ますことだってある。ぶっちゃけ割とどうでもよかった。部屋選びの際に風呂を考慮してなかったくらいには。
しかして今──広々とした湯船で存分に脚を伸ばす快感と、凝り固まっていた身体に染み渡る湯そのものに生まれてこの方味わったことのない感動を覚えている。
「きもちいいわ、これ、癖になる」
このまま永遠に浸かっていたい欲求と、いくらなんでも茹ってしまったら台無しだという理性が葛藤し、ギリギリで後者が勝利を収めた。
とりあえず湯底に腰を下ろし、上体を立ち上げる。
畳んだタオルを頭にのせて、縁に背中を預けた。
「
首をめぐらした先には高くそして堅牢な木製の壁があった。
当たり前だが、どれだけ目を凝らしても反対側を窺うことは叶わない。
ちゃぷ……と壁の向こうから水音が聞こえた気がした。たぶん幻聴だった。
この大浴場には、篤志ひとりで訪れたわけではない。
たまたまこの街にて再会した高校時代のクラスメート『
目を閉じると透の裸体が目蓋に浮かび上が……らなかった。
実物を見たことないが、想像したことはあった。
一度も結像に成功したことはない。
――透さん……
彼女との再会は偶然で、同じ宿に泊まる事になったのも偶然。
しかし、こうも偶然が続くと何やら因縁めいたものを感じる。
とは言え、別に透が篤志を待つ義理はない。それが現実だった。
別に示し合わせているわけではないし、なんといっても彼女はすでに結婚している人妻だ。
──でも、ひとりって言ってたんだよなぁ。
不思議といえば不思議だった。
結婚している彼女が、なんで平日に辺鄙な温泉街を訪れたのか。
それほど広いとはいえない自身の交友関係に思いを馳せてみれば……まぁ、結婚してからも単独行動を好む者も存在することは理解できなくはない。
『夫婦は常に寝食を共にすべき!』なんてのは、もはや古臭い価値観なのかもしれない。何なら住居すら別なカップルもいるとかいないとか。時代が変われば家族の形も変わる。篤志が知らないだけで、家とか夫婦とかに縛られない21世紀の家族像があってもおかしくはない。
そのあたりのアレコレを聞いてみたい気がするものの、興味本位で余所様のプライベートに首を突っ込むなんて、いい年した大人のすることではない。少なくとも篤志の価値観ではそうなっている。
「あ〜」
知りたい。聞きたい。
知りたくない。聞いてはいけない。
ぐるぐると頭の中で意見がこんがらがって……ふらふらと……
「やべ」
慌ててザバッと身体を湯船から引き上げた。
一瞬、ふらっと視界が揺れた。湯当たり寸前。
「長風呂なんて、慣れないことするもんじゃねーな」
冷や汗を拭いながら、篤志は浴場を後にした。
身体は十分に温まったはずなのに、得体の知れない寒気を感じた。
★
大浴場の暖簾をくぐると、うっすら色づいた白いうなじが目に入った。
浴衣の襟ぐりから、ほんの少しだけ鎖骨が見えて、思わず息を呑んだ。
透だ。風呂上がりの透だった。どうやら自分を待っていてくれたらしい。
篤志に背を向けてスマートフォンを弄っている。行儀はあまりよろしくない。『らしくない』と思いつつ、『スマホぐらい普通か』と無理やり納得する。
嬉しいと沸き立つ気持ちと、申し訳ないと居た堪れない気持ちが渾然一体となる。
なお、ポニーテールだった黒髪は無造作に後ろで纏められていた。
初めて見る髪型は、とても新鮮だった。
「透さん、待っててくれたの?」
声をかけると透は身体を震わせて振り向いた。
脇に抱えたバッグにスマホを突っ込みながら。
「いえ、私も上がったばかりです。別に待たなければならないとまでは思わなかったのですが、顔も見せずにというわけにもいかないかな、と思いまして」
「なるほど」
やや早口ながらも、つんとした態度と平坦な声。
懐かしさを覚えながら『律儀だな』と苦笑した。
小さな巨人と謳われた『天城 透』の姿が思い出される。
説教ばかりされていたことまで思い出されて、また苦笑。
「……なんですか?」
「いや、なんでもない」
「はぁ、そうですか」
咄嗟に甦った感傷を抑え込み、軽く首を振る。
透もそれ以上追及しては来なかった。
「それにしても、
その言葉に『やっぱり待たせてたのか』と内心で頭を抱える。
正直に言えば、透より後になるとは思っていなかった。
偏見かもしれないが……女性の風呂と買い物は長いものだとばかり思っていたから、ちょっとの長湯なら問題ないと嵩を括っていた。そして現在に至る。
「普段はあっという間なんだけどな。こんな広い風呂は初めてで、つい長居しちまった」
「ああ、それはわかります」
「そうなの?」
「はい。上がったばかりと言ったじゃないですか」
──という事にするわけね。
『意地っ張りだな』と呆れた。ただし、心の中で。
どうやら透は先程の失言を無かった事にしたいらしい。
指摘したところで絶対に認めないだろうし、別に何の問題もなかった。
「それで、これからどうするの?」
「『どうする?』と言われましても……まだ夕飯まで時間がありますね」
「だよなぁ。こういう時って何すんだろ?」
軽い口ぶりでぼやいてみたら、透が奇妙な眼差しを向けてきた。
両者の身長差のおかげで、微妙に上目遣いじみた角度になる。
別に透にそんな意図はないのだろうが。
「大久保さんは普段はどうされてるんですか?」
「俺?」
「ええ。お風呂から上がってひと休み……」
耳に捉えた透の言葉に、篤志は首を横に振った。
「え? いや、仕事かな」
「え? 仕事?」
透は驚きの眼差しを向けてきている。
『信じられない』と全身が物語っている。
『あの大久保さんが!?』と付け加えられている気がした。
被害妄想だと思いたいところである。
──あれ? 変なこと言ったか?
篤志は首を傾げて──程なくして気が付いた。
透の脳内では風呂に入るのは仕事を片付けて帰宅した後という設定になっているのだろう。
そこから家事をどうこうすることはあっても、さらに仕事をするイメージが無かったのだと推察できた。
それが彼女の、あるいは風祭家の日常ということだ。
──家に仕事を持って帰ることって、普通にあるんじゃねーの?
漫画家というあまり一般的とは言えない職業に就いている篤志は、ぶっちゃけ同年代の人間が本来備えているべき常識に疎かった。
記憶にある父親が仕事を家に持ち帰る(そして母親に怒られる)人間だったから、他の家もそういうものだとばかり思っていた。
でも、実家を出てからすでに十年以上経っている。
今の普通のご家庭は違うのかもしれないと思い至った。
……つまり、言い訳の必要性に駆られているわけだ。
篤志は自分が漫画家であることを親戚縁者を含め仕事がらみでない知人には教えていない。変にプライベートで騒がれたくないというのもあるが、そもそも故郷を後にして以来、彼らと連絡を取っていないのだ。
「あ〜、その、なんつーか……俺って家で仕事してるから」
「在宅ワークというやつですか。進んでますね」
適当に思いついた言い訳に、透が都合の良い解釈を与えてくれた。
根本的に間違っているが、その勘違いに全力で乗っかっておく事にした。
「それそれ、最近そういうの流行ってるだろ」
「流行ってるんでしょうか?」
「さあ?」
ふたり揃って首を傾げた。
世の中は、つくづく訳がわからない。
大人になったつもりでいても、子どもの頃とあまり変わらない。
お互いに顔を見合わせて、なんとも言葉にし難い苦笑を浮かべた。
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