第2章

第1話 現代編 一緒にお風呂?

 ゆっくりと目蓋を開けると、歴史を感じさせる色合いの和風な天井が視界に飛び込んできた。記憶にない光景を目の当たりにして驚きはしたものの、ぐったりした身体を動かす気にはなれなかった。

 落ち着いて呼吸を繰り返すこと数回。徐々に記憶が甦ってくる。


「はぁ……温泉に来たんだっけ」


 五年に渡る週間連載を完結させた篤志あつしが、担当編集の後藤ごとう氏に休養を勧められてあれよあれよと電車に揺られて数時間。

 初めて訪れたはずの温泉街で、高校時代の同級生だった『天城 透あまぎ とおる』ではなく『風祭 透かざまつり とおる』と再会した。彼女は篤志が故郷を後にしてから数年ののちに、当時の恋人であった『風祭 優吾かざまつり ゆうご』と無事に結婚したとのこと。左手の薬指には、鈍い光を放つ指輪が嵌められていた。

 透もまた観光客であり、偶然にも篤志と同じ宿を予約していた。

 温泉宿に辿り着いたところで彼女と別れ、途端に重たくなった体を引きずりながら自室に到着。倒れ込むように寝っ転がっているうちに、本当に眠ってしまったらしい。


「夢……か」


 懐かしい夢を見ていた。高校三年生の、あの夏の日の思い出。

 ずっと胸の奥に封じてきたものが溢れ出してきたのは、きっと懐かしい人に再会したからだろう。

寝っ転がったまま、大きく息を吐き出した。

 熱く、そして重い吐息。

 身体を起こして軽く上に伸ばすと、凝り固まっていた全身が痛みを訴えてくる。

『ん~』と伸ばしたつもりが『ん~あぁ』とおかしな喘ぎが混じってしまう。

 とても人には見せられない姿であり、聞かせられない声であった。


「いい加減、俺も年かねぇ」


 篤志は今年で28歳になる。

 世間から見れば未だ若輩者の身ではあるが……これまでの半生を振り返ると、そろそろ若者とは呼べない時期に差し掛かっている。

 それでも、普段はあまり年齢を意識することはない。

 週間連載が忙しすぎて、余計なことを考えている暇がなかったとも言う。

 それはともかくとして――


「透さん、綺麗になってたなぁ」


 脳内に先ほど再会した高校時代の同級生の姿が描き出された。

『天城 透』ではなく『風祭 透』

 十年ぶりだと言うのに、一眼見ただけで確信できた。

 ……まぁ、それほど彼女のシルエットが変わっていなかったわけだが。


 ポニーテールに束ねた、さほど長くもない黒髪。

 身体は──残念なことにまるで成長しなかったらしい。

 背丈は低いままで体型はロリ。相変わらず○学生と間違われそう。


 昔の彼女は自身の体形について相当気にしていたし、きっと今も気にしていることは想像に難くない。ゆえに本人の前で迂闊なことは口にできない。


「でも……なぁ」


 記憶の中の透とは異なるところがいくつか見受けられた。

 特に印象に残ったのは、彼女の眼差しだった。

 凛とした黒い瞳が、愁いに翳っていた。


「結婚してるのにひとり旅ってのも、どうなんだ?」


 現在絶賛独り身中の篤志には、どうにも理解し難いことだった。

 スマートフォンの表示に間違いがなければ、今日は平日である。

 ごく一般的な同年代の家庭を想像することは困難ではあったものの……平日に温泉を訪れるという状況は普通なのだろうか?

 しかも妻がひとりで。何やらきな臭いものを感じざるをえない。


「つっても、聞いていいもんかねぇ?」


 余所様の家庭事情に口を挟むなんて、それはとても不躾な振る舞いではなかろうかと不安を覚える。

 知らぬ仲ではないとは言え、十年近くも会っていなかったのだ。どうにも距離感がつかめない。


「ひょっとして、また上手くいってないんだろうか?」


 顎に手を当てると、ジョリっと音が鳴る。

 思わず眉を顰めた。

 自分の声に含まれる邪な感情と、掌に擦れた髭の感触が不快だった。


『以前の大久保さんは、もっと身だしなみに気をつけていましたよ』


 耳の奥に透の声が蘇る。

 ガリガリと掻きむしる頭も、いつから髪を切っていないのか思い出せない。

 こんな姿を高校時代の知人に見られるのは、極めて不本意であった。


「ほんと、年取ったなぁ……俺も」



 ★



大久保おおくぼさん?」


 部屋を出ると、涼やかな声が耳に響いた。

 振り向くと──そこには何もない空間が広がっていた。

 眉を寄せた後、僅かに視線を下げると、黒髪ポニーテールの美少女がいた。

 否、否である。美少女ではない。

 この○学生どころか下手したら◎学生に見える女性は、篤志と同い年なのだ。言うなれば美女とでも呼ぶべきで……まぁ、兎にも角にも歴とした人妻であることは間違いなかった。余計なことを考えてはいけない。


「あ、ああ、透さんか」


「……その失礼な反応、相変わらずですね」


 厳しめな台詞を吐き出した割に、眼前の透は怒っていないようだった。

 口元は柔らかく緩み、漆黒の瞳は先ほど目にした時と同様に力を感じない。

 侘しげな佇まいが心配にならなくはないものの、問題はそこではなかった。


「? どうかしましたか?」


「あ、いや……その、浴衣、似合ってるよ」


 小首を傾げて問われ、舌をもつれさせてしまう。

 心臓がおかしな鼓動を刻む中、どうにかそれだけ口にできた。

 街で再会した際には年齢相応の洋装だったが、今は浴衣を身に纏っていた。

 彼女の浴衣姿を目にするのは初めてではない。修学旅行で見たことがあった。

 浴衣を着ているから何だと言いたいところなのだが……現在の透の浴衣姿を目の当たりにすると、篤志の舌は不可思議に絡まって意のままに動いてくれない。

 見た目はほとんど高校時代と変わっていないと思っていたのだが、浴衣姿の透からは、えも言われぬ色気を感じた。

 クスリと笑うその顔も、随分と大人びて見える。


「ありがとうございます。相変わらずお世辞が上手ですね」


「お世辞じゃなくて、本気なんだけどなぁ」


 口から勝手に飛び出す言葉が止められない。嘘でないのが逆に厄介だった。

 なんだか口説いているみたいじゃないかと、心の中で呆れ返る。

 相手は人妻だと言うのに、自分は一体何をやっているのか、と。


「透さん……じゃなかった風祭さん、今からお風呂?」


 小脇にバッグ。

 衣服は浴衣で、ここは温泉宿。

 外はもうすぐ日が暮れる。出歩くには向かない時間帯だ。

 考えられる選択肢はそれほど多くはなかった。


「ええ。せっかく温泉に来たんですから。大久保さんは?」


「ん〜」


 咄嗟に反応し損ねた。

 廊下に出た事に深い意味はなかったのだ。温泉とか意識していなかった。

 単に風呂に入るだけなら、部屋に備え付けられた温泉で問題ない。

 わざわざ高い金を払って勝手に予約された部屋なのだ。使わない手はない。

 ぶっちゃけ大浴場なんてめんどくさい。見ず知らずの他人と風呂に入るとか勘弁してほしい。

 ……そう思っていたのだが、そんな意見は一瞬で翻った。


「そうだな、俺も風呂にするか」


 浴衣を着た透が廊下で『お風呂』と言うことは、きっと目指す先は大浴場のはずだ。

 そこまで考えたところで、またもや勝手に口が動いた。


「何も準備していないようですけど」


「それはまぁ、そうなんだけど……」


 案の定突っ込まれて、しどろもどろになる。

 そんな篤志を見て、透は口元に手を当てて笑う。

 小刻みに肩が震えている。ツボに入ったらしい。


「すみません、口が過ぎました」


「いや、別に謝ってもらうほどのことじゃないし。俺がボケてただけだし」


 今度は早口になった。

 どうにも口の周りが言うことを聞いてくれない。

 付け加えるならば、先ほどから視線も定まっていない。


「では、折角ですからご一緒しましょうか」


「え?」


「ですから、ここで待ってますので荷物を……って、何を考えているんですか?」


 睨まれた。

『一緒にお風呂』と想像して、思わず唾を飲み込んでしまった。

 その音を聞かれてしまったのではないかと、背筋に冷や汗をかいた。

 当たり前と言えば当たり前だが『大浴場の前まで一緒』と言う意味だ。

 ここは混浴ではないのだから、風呂の中まで一緒のわけがない。


「な、別に変なことなんて考えてねーし。透さん……じゃなくて風祭さんは、それでいいの?」


「ええ。急ぎというわけではありませんし。それと──」


「それと?」


 問い返すと、透はほんの一瞬口籠もった。

 軽く頷くと、ポニーテールがぴょこんと揺れた。


「言いにくそうでしたら、わざわざ言い直さなくても構いませんよ」


「え?」


「昔と同じように『透さん』と呼んでください」


 ふわりと微笑んだ。

 優しくて、穏やかで、そして儚げな笑顔だった。

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