第5話 過去編 放っておけない

 篤志あつしとおるは、ふたり並んで教室の壁に背を預けたまま床に腰を下ろし、コーンポタージュを啜っていた。

 しばしの間、両者とも黙して語ることはなかった。

 篤志は中空に視線を彷徨わせたまま、ぼんやりと窓の外を見やっていた。

 室内に差し込んでくる陽光は僅かに傾いて、猛威を薄れさせている。

 グラウンドから聞こえてきていた運動部の叫び声も、後者のそこかしこから散乱していた吹奏楽部の乱雑な騒音も、次第に勢力を弱めて消えていく。

 刻々と時間が過ぎていく。時計を見なくとも、時の流れを感じる。


――いつまでもここにはいられねぇよなぁ。


 篤志はちらりと横に視線を送り、ため息が零れかけた口をとっくの昔に空になっていた缶で塞いだ。

 憔悴した透をひとり放り出して帰るわけにもいかない。

 涙こそ止まっているものの、その眦にはまだ水滴が浮かんでいる。


――あ。


 ふと、気づいた。

 自分の迂闊さに心の中でツッコミを入れつつポケットを探る。


「順序が逆になったけど、これ」


 ハンカチを取り出して、そのまま透に手渡した。

 今さら感がありすぎた。

 本来ならば自販機に向かう前に渡しておくべきだろうに。

 つくづく気が回らないと呆れたくなる。


「あの……」


 透は篤志を見上げ、ハンカチを見やり、軽く首を横に振るそぶりを見せた。

 強がりだろうか?

 これ以上借りを作りたくないのだろうか?

 どっちでもよかったし、どうでもよかった。

 こんなことに恩を感じてもらうつもりはなかった。

 

「そのままじゃ帰れないっしょ」


「……」


 痛いところを突かれたのか、透は項垂れてしまった。

 有無を言わせず押し付けたままでいると、程なくして小さな手がハンカチをきゅっと握りしめた。


「ありがとうございます」


 透は礼を言ってそっと涙を拭う。

 そして──


「どうして……」


「ん?」


「どうして、優しくしてくれるんですか?」


 途切れ途切れではあったが、透はそんな疑問を口にした。


「どうしてって言われてもな……普通じゃね、こういうの」


「そうでしょうか?」


 涙を拭きつつ首を傾げる透。

 頭に合わせてポニーテールが揺れる。


「私、今まで大久保さんには色々と」


 そこで言葉が止まる。

 おそらく『ひどいことを言ってきましたよね?』とか、そう続けるつもりだったのだろう。

 我が事ながら、それは気にしすぎだと呆れてしまった。

 彼女が篤志に相対する時というのは、だいたい篤志の方が悪い場合が多い。

 宿題を忘れたり、校則で禁止されている漫画を持ち込んだり、授業や掃除をサボったり。

 クラス委員長にして正義の人たる透は当然のことを口にしてきただけ。

 彼女と篤志との揉め事は『ひどいこと』には当たらないのに。

 誠実であり融通が利かないところが、実に彼女らしいとさえ思う。


――面倒見るのは得意なのに、面倒みられるのは苦手なのか?


 そんな疑問が湧いたが、とりあえず棚上げした。

 今は透を安心させることが先決だ。


「『それはそれ、これはこれ』って奴。ほら、透さんが怒る時って、ほとんど俺の方が悪いじゃん?」


「……自覚はあるんですね」


 わざとらしくおどけて見せたら、反応が若干重かった。

 彼女の脳裏に、これまでのアレコレがよぎっていると思われた。

 隣から向けられる眼差しが、若干じっとりしてきた。声も渋い。

 藪蛇だったかもしれないが『悪くないな』とも思った。


「まぁ……それは、ほら」


「でも、やっぱりわかりません」


 なおも渋る透に、今度は大きくため息をついて見せる。

 これまでは気を遣わせないようにため息や舌打ちの類はしないよう意識してきた。

 ここでは逆にわざと煽り気味に失望を露わにして見せる。


「わかるわからないの問題じゃないっつーか。泣いている女の子を放って置けなかっただけだって」


 ピクリと透の小さな身体が震えた。

『怒ったのだろうか?』と少し慌てた。

 発破をかけたかっただけで、逆鱗に触れたいわけではない。

 普段はバチバチやりあっているばかりだったので、勘所がつかめない。

 そろりそろりと様子を伺ってみたものの、どうにも腹を立てているわけではないらしい。

 俯いている表情を直接見ることは叶わなかったが、耳元が少し赤い。


──照れてるのか?


『まさかな』と一笑に付した。

 夕暮れ時の光の加減で、そう見えるだけだろう。

 篤志はそう結論づけた。もちろん口には出さない。


──さて、これからどうすっかな。


 泣いている透を慰める(と言うほどのことはしていない)。

 とりあえずこの場はこれでいいとして、では明日からはいつもどおり……というのは薄情にすぎるように感じてしまう。

 透は浮気されても風祭への想いを残している。

 絞り出すような『好きなんです』という涙交じりの声は、聞いていただけの篤志の心臓をさえ強く絞り混むような悲痛な響きを纏っていた。

 ならば──ふたりの仲を取り持つように動くべき、なのだろうか。

 おせっかいが過ぎるようにも思われるし、どうやればいいのかもサッパリわからない。

 篤志を取り巻く人間関係は表面的なものが多く、恋愛相談のように人の心の深い部分に切り込んだことはなかった。


「透さんさぁ……風祭かざまつりのこと、諦められないの?」


「……」


 返事はなかった。

 しかし、確かに透は首を縦に振った。

 彼氏のことが好きで好きで諦められない。たとえ浮気の現場を目にしても。

 恋をしたことのない篤志には理解できない反応だったが、恋愛漫画ではそういうシーンを割と見る。

 だから、別におかしなことではないのだろうと結論づけた。

 ……第三者的には、さっさと見切りをつけたほうがいいと思った。


──つっても、あっちがどうなってんのか、わかんねーな。


 透がよりを戻したがっていても、風祭の心が完全に離れていてはどうしようもない。

 まずは、そこのところを確認しておく必要がある。

 たとえ結果が透にとって残酷なものであったとしても。


 篤志は誰とでもそれなりに話をする反面、誰とも深く関わらない。

 学校という小さな世界においては、多くの友人を持っているように見えるかもしれないが、実際はそうでもない。

 件の風祭とも別に仲が悪いわけではないが、よくもない。

 校内に持ち込んだ漫画雑誌を貸したり、些細な雑談をすることはある。

 でも、恋愛沙汰に首を突っ込むほど深い関係ではない。


──あいつと仲のいいやつを間に挟んで……


 仲介役を脳内で見繕いかけて、やめた。

 事が事だけに、あまり多くの人間を巻き込むのは望ましくない。

 ただでさえ噂が生徒たちの間に出回っているのだ。

 話を大きくすれば、透にとっては恥の上塗りになる。


「じゃあ、ま、俺が話をしてみるわ」


「え?」


 びっくりしたように、透が篤志に目を向けた。


「ん? 透さん、自分で話する?」


「……大久保おおくぼさんを巻き込むことは、あまり良くないと思っています」


 余人が迂闊に首を突っ込むような話ではない。

 下手をすると篤志と風祭の仲が拗れかねない。

 当事者同士の対話で決着をつけるほうが……

 言い募る透の声が、だんだん小さく、弱くなり、止まる。


「ちゃんと話ができるんなら、透さんは今こんなところでひとりで泣いてたりしないんじゃね?」


「それは……」


 きついことを言ったかもしれないと思った。

 透は篤志から視線を外して俯き、空き缶を強く握りしめている。

『そんなことは言われなくともわかっている』と全身で物語っていた。


「どうして……」


「ん?」


「どうして、そこまでしてくれるんですか?」


 透は、辛うじてそれだけ口にした。

『どうして』と言われると、篤志としても返答に困る。

 理由なんて自分でもよくわかってないからだ。

 大して仲がいいわけでもない(どころか犬猿の仲としか表現しようのない)透にお節介を焼こうとしている理由。

 それは──


「言ったろ。泣いている女の子を放って置けないって」


 そう言う事にしておいた。

 ……自分で言っておいて、なんとなくしっくりこないものを感じてはいたが。

 そんな篤志をじっと見ていた透は、しばしの後にそっと頭を下げた。


「ご迷惑をかけてすみません。協力して……」


「『ありがとう』」


「え?」


「こういう時は『すみません』じゃなくて『ありがとう』って言ってもらえると、やる気が出るもんだって」


「そうなんですか?」


「……漫画に書いてあった」


「ま、漫画って……えぇ」


 疑惑の眼差しとゲンナリした声。呆れている。

 隣で小さな身体が身じろぎした。

 わずかに距離が開いていた。


「そんなに馬鹿にしたもんじゃないって。間違ってないと思うし」


 情報源が漫画だからという理由だけで、引かれるのは癇に障る。

 反面、相手が透だから已む無しという気もする。

 わずかな逡巡ののち、透はおずおずと口を開いた。


「それでは、その……えっと、ありがとうございます?」


「なんで疑問系?」


「なんでって……その、いいじゃないですか!?」


 透は頬を真っ赤に染めて激昂した。逆ギレだった。

 その顔がツボに入って、篤志は笑った。

 あまりに微笑ましく、可愛らしかったから。

 ……案の定、透はさらに怒ったわけだが。


──泣いてるよりはずっとマシだろ。


 もちろん、口には出さなかった。

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