第5話 過去編 風祭との接触

 休日に彼氏の浮気現場に遭遇したとおるはすっかり意気消沈してしまっていたものの、迷子の子どもの家族を探しているうちに気を取り直した。

 真偽はともかくとして、少なくとも篤志あつしにはそう見えた。

 幾分顔色がよくなった彼女を家まで送り、篤志は悶々とした気持ちを抱えたまま、ひとり帰路についた。

 明けて翌日の日曜日。

 自室のベッドにごろんと寝っ転がってスマートフォンとにらめっこ。

 昨日とは異なり、透からの緊急メッセージが送信されてくる気配はない。

 スマホを枕元に置いて、ググっと背筋を伸ばした。

 目が覚めてから今まで、何にもやる気が出なかった。

 勉強どころか、漫画を読む気すら起きない。

 胸中には風祭かざまつりに対する疑念と嫌悪が後から後から溢れかえっていた。


──ん?


 ふと、我に返った。

 どうして自分はここまで風祭に腹を立てているのだろう、と。

 彼女たちの仲がこじれるのはふたりの問題であって、自分とは関わりがない。

 透の涙に絆される形で協力してはいるとは言え、基本的には他人事。

 人聞きは悪いが、それが事実だった。

 なのに──


「なんなんだ、いったい?」


 胸の奥に重たい奇妙な感情があった。

 物心ついてから今までの記憶を振り返ってみても、全く覚えがない。

 適切な言葉で表現することができない。とにかく……ひどく不快だった。

 口の中では苦味が広がり、頭の中では黒くてドロリとしたものがぐるぐると渦巻いている。


「吐きそうだ……」


 喉を通って出た声は掠れていて、しかも小さかった。

 もちろん同じ屋根の下に暮らす家族の耳には届かない。

 それが幸か不幸かは、今の篤志には判別がつかなかった。



 ★



 週末を経て授業が始まると、透の変化が顕著だった。

 早急に風祭と話をしなければならない。その思いは加速度的に強まる。

 土曜日のアレを見て以来、透は目に見えて不安を募らせている。

 一時的に気を取り直したのは、あくまで表層的なものに過ぎず、根っこはかなり深い。日曜日はしっかり休めたのだろうかと、傍から見ていて心配になる。

 それは篤志だけでなく、周りのクラスメートや教師たちも同じで、多くの人間が彼女を気遣う様子を見せている。これまで透が培ってきた人望のなせるわざだろうと感心させられる。

 当の本人はそのひとつひとつに『何でもない』と返していて、でも、とてもそのようには見えなくて。誰もがお互いに顔を見合わせて、告げるべき言葉を探している。

 数日を経ると授業中でもぼーっとしている時が増えていて、彼女に対する視線に怪しいものが混ざり始めている。ひそひそ声もそこかしこで囁かれ、教室の空気はあまりよろしくない。

 事情を知る者のひとりとして『どうにかしなきゃなぁ』などと考えていたら、


大久保おおくぼ、ちょっといいか?」


「風祭? え、何?」


 当の風祭本人から声をかけられた。

 咄嗟に返答できたのは、本当にたまたまだった。

 本来ならば篤志の方から仕掛けるつもりだったのに。

 思わぬ先制攻撃を食らって、内心の動揺を隠すのに精一杯。

 取り繕った顔で風祭に向かい合って、さらに驚かされた。

 風祭の秀麗な顔から滲み出ていたのは嫌悪、不審といったネガティブな気配。

 それは篤志が必死になって隠している風祭に対する感情と一致していた。

 でも、わからない。

 そんな感情を風祭が篤志に向けてくる理由がわからない。


──何で俺が?


 頭の中がクエスチョンマークに支配される。

 熱暴走でストップしかけた脳みそを無理やり蹴飛ばして、兎にも角にも口を動かす。

 余計なことを言わないように、必要以上にケンカを売らないように注意を払いながら。


「お前が俺に声をかけてくるなんて珍しいな。なんかあった?」


 腹立たしい気持ちはあったが、千載一遇の機会であることは間違いない。

 篤志と風祭は、どちらも友人は多い方だ。

 ふたりとも空いた時間に会話する相手に事欠くことはない。

 ただし、その内情は全く異なっている。

 風祭は校内の人気者であり、ある種のカリスマでもある。

 彼を取り巻く人間は多く、その顔触れはある程度固定されている。

 ゆえに、ふたりきりで密談をするチャンスを掴むのが難しすぎた。

 ちなみに篤志は特定の人間と親しくなることはなく、いつも上辺だけ取り繕って周りと合わせている。

 ほぼ正反対の性質をもつが故に、これまで両者は基本的に不干渉を貫いていた。

 本能的に『こいつは気に食わない』と思わせる何かを、お互いに感じ合っていたのかもしれない。

 ……透の一件のせいで、篤志の思考にバイアスがかかっている可能性は大いにあった。

 できれば早急に本題に移りたかったが場所が悪すぎる。

 ここは篤志と透の教室。この狭い室内では人目がある。

 チラリと視線をずらすと、不安げな光を宿している透の瞳があった。


「聞きたいことがあるんだが……」


 言いかけてから、風祭は周囲に頭を巡らせる。

 様子を窺っている篤志を見て察するものがあったらしい。

 教室内の生徒たちは、誰も彼と目を合わせようとせずに俯いた。

 篤志の目の前で、風祭は軽く息をはいた。


「できればふたりで話がしたい。放課後、空いてるか?」


「……ああ。俺は部活やってないし、アルバイトもないし。お前の方こそ部活どーするんだ?」


「そんなに長い話じゃないから、部活は抜けてくる。体育館の裏で待っててくれ」


「わかった」


 精一杯の去勢を張って頷いた。

 体育会系の生徒に体育館裏に呼び出されるとか、ロクでもない未来しか想像がつかない。

 これが漫画だったら、取り巻きに囲まれてボコられてなんてルートに一直線間違いなし。読者から『何でノコノコひとりで行くんだ!?』と呆れられる展開だ。

 それでも──チャンスであることは間違いない。

風祭 優吾かざまつり ゆうご』は人気者。

 だからこそ、流石にこれだけの生徒の前で私刑のために篤志を呼び出すなんてリスクを犯すとは思えない。

 気に食わない男(透の件があってさらにムカつき度が増している)ではあるが、暴力的な噂を聞いたことはない。

 単にあまり人に聴かれたくない話があるのだろう。そう言い聞かせて勇気を奮わせる。


 風祭が去った後、篤志のポケットの中でスマートフォンが震えた。

 メッセージだ。送り主は──透。


『大丈夫ですか?』


『透さん、心配性すぎるって』


『でも……』


『ちょうどいい機会だから、俺の方からも話をしてみるよ』


『ごめんなさい』


『そう言う時は『ありがとう』な。これ基本だから』


 メッセージが止まった。

 ほんのわずかな空白ののちに、透の言葉が続いた。


『なんですか、それ?』


『そっちの方が嬉しいって話。前にも言ったような気がするけど』


 そこまで打ったと同時に、教室のドアが開いて教師が入ってきた。

 タイミングの悪さに舌打ちしつつ、透とのメッセージを中断する。

 放課後までに、風祭と話すべき内容をまとめておかなければならない。


 当然、授業なんてこれっぽっちも頭に入ってこなかった。

 いつものことだったから、特に気にならなかった。



 ★



 そして放課後。

 篤志はひとり体育館裏に立っていた。

 教室を抜けてここに来るまでの間、話しかけてくる者はいなかった。

 ある意味で風祭のおかげかもしれない。

 校内の有名人である男が、あれだけ堂々とみんなの前で宣言したのだ。

 誰もが興味を持ちつつも『触らぬ神に祟りなし』な選択肢を選んだと言うことだろう。

 自分が他人枠だったら、篤志もきっと同じことをする。


「それにしても……あいつが俺に何の用なんだ?」


 後頭部をガリガリと掻きむしりながら独り言ちる。

 どれだけ考えても、わからないのはそこであった。

 用があるのは篤志の方のはずなのに。

 透の件を話し合ういい機会だからと提案を受け入れたが、何か見落としがあったのかもしれない。


 ザクッ


 殊更に大きく響いた足音に驚いて振り向くと、そこにはひとりの背の高い男が立っていた。

 190センチを超える背丈と贅肉のついていない引き締まった身体。

 整った顔立ちに厳しい表情を浮かべたバスケ部の主将にしてエース。

『風祭 優吾』その人だった。


「待たせたな」


「別に、それほど待ってない」


 風祭は雰囲気のある男だった。

 今は強烈な敵意を向けてきている。

 何も言い返さなければ飲み込まれてしまいそうになるほどに。

 身長差で見降ろされて怖気づきそうになり、反射的に言葉が口をついた。


「俺からも聞きたいことがあるけど、先にそっちの要件を済ませてくれ」


 篤志の言葉に風祭は一瞬訝しげに眉を寄せた。

 しかし、その奇妙な表情はすぐに消えた。

 再び厳しい顔に戻り、口が開かれた。


「大久保……お前、俺の透と何をやっている?」

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