第3章

第1話 現代編 気まずい朝 その1

 久しく見ていなかった夢が、やけに高い解像度で甦ってくる。

 初めてとおると膝を突き合わせて語り合った、高校三年生の夏。

 篤志あつしにとっては懐かしく、甘く、そして苦い思い出。

 胸に蟠る……蟠るのは……


「お……おおう……うぇ」


 控えめにいって目覚めは最悪だった。

 キリキリと締め付けられる頭。

 ヒリヒリと渇き痛みを訴えてくる喉。

 胸と言うか腹と言うか、むかむかしてゲロ吐きそう。

 べっとり汗が滲み出した肌に張り付いた浴衣が気持ち悪い。

 丁寧に設られていたはずの布団に入りもせず、文字通り突っ伏していた。

 完膚なきまでに撃沈した酔っ払いの末路であった。


「やべ、寝過ごした?」


 慌てて上体を起こして──頭を抱えて、そのまま蹲る。

 昨夜の酒がかなり残っている。

 普段ほとんど飲まないだけに、余計にダメージが深い。

 ゆっくり顔を上げると、揺れる視界に映った景色は見覚えのないもので……


「あ〜、温泉来てたんだっけ……」


 ぼんやりと記憶が戻ってきた。

 あの夏の思い出ではなく、現在ここに至るまでの道程が。

 週刊少年漫画雑誌で五年以上続けていた連載が円満に完結して、燃え尽き症候群でぼ~っとしていたら、見かねた担当に急き立てられて東京を後にした。

 数年来まったく覚えがないレベルのまったりな電車旅を経て辿り着いた温泉街で、高校時代の知人である透──今は『風祭 透かざまつり とおる』と再会した。

 すでに人妻となっている(名字から察するに、おそらく幼馴染にして恋人だった『風祭 優吾かざまつり ゆうご』と無事結婚したと思われる)はずの彼女もまた、なぜかひとりで温泉街を訪れていて。

 十年ぶりの再会はどことなくぎこちなかったものの……偶然同じ温泉宿を取っていて、温泉を堪能して食事を共にして、しこたま酒をかっ食らって──現御覧のありさまだった。


「やべーな、このまま寝てるってのはどうだろう」


 か弱い声が痛みを訴える喉を通ってこぼれ出た。

 日頃あまり酒を嗜まない篤志が痛飲したのは、思わぬハプニングで同席していた透の肌を目にしてしまったから。

 外見からの推測を裏切ることなく高校のころとあまり変わらない様子ではあったが、成人して結婚した女性の肢体は、あまりにも目に毒だった。まじまじと見つめることは、倫理的にも社会的にも許されることではなく、ふたりとも妙にいたたまれない心持ちになってしまった。

 そして一連のアレコレを忘れるためという名目で酒に手を伸ばした。

 馬鹿みたく酒を酌み交わした結果、透が先に沈没し、彼女を部屋に運んでいった。連れて行ったと言える状況ではなかった。

 最後に目にした時とあまり変わらない小さな身体をお姫様抱っこした時の、浴衣を通じて感じた柔らかさと体温に心臓が跳ねた。

 男の本能を振り切って彼女の部屋に足を踏み入れ──そして……


──顔合わせらんねーんだけど……心配かけるわけにもいかねー。


 透はずっと眠っていたはずだったし、篤志は具体的に何かをしたわけではない。

 ……にもかかわらず、罪悪感が半端ない。

 いっその事、ここに引き篭もってしまおうかとさえ思ってしまうが……それはそれで余計な詮索を買いかねない。

 昨日の今日で居留守を決め込むわけにもいかない。

 相手は押し売り業者でも鬼の担当でもない。久方ぶりに再会した友人なのだ。

 付け加えるならば、ここは篤志の家でもなければ仕事場でもない。

 逃げ場はなかった。


「俺は何も見なかった。昨日は何もなかった」


 自らに言い聞かせるための唸り声とともに、ゆっくりと身体を起こす。

 頭も身体も重かったし、手も足も覚束ない。

 気を抜くとへこたれて布団にダイブしそうになるし、それはとても誘惑的な選択肢であった。


『昔の大久保おおくぼさんは、もっと身だしなみに気を付けていましたよ』


 ちょっと困ったような声が、脳裏に蘇った。

 再会した際に透に呆れられた。

 ボサボサの髪と、中途半端な無精ひげ。

 服装だって、あまりにも気を使ってなさすぎる。

 身も蓋もないことを言えば、全身くまなくダサかった。

 よりにもよって、あんな姿を透に見られるなんて一生の不覚。

 やり直しを要求したいが、そんな無茶が通るわけがない。


「風呂、入っていくか」


 窓の外に広がっている温泉を見ながら、顎を撫でる。

 あいも変わらず、ジョリっとした手触りだった。

 重苦しいため息が喉を通って口から零れた。



 ★



 身体を洗って湯に浸かって、髭を剃って。

 髪はさすがに自分ではカットできないので、後ろで適当に縛っておいた。

 鏡を見ると、それなりに体裁は整っていた。

 ささやかな満足感を得てから食堂に足を運ぶと、そこには見覚えのある影がひとつ。

 子どもと見紛うばかりの小さな身体、頭の後ろでまとめた一房のポニーテール。

 十年ぶりに再会した高校時代の同級生『風祭 透(旧姓 天城あまぎ)』だった。

 記憶の中の彼女はいつもしゃんと背筋が伸びていて、常に威風堂々たる益荒雄もとい委員長ぶりを見せていた。

 今の彼女は──


──なんだ?


 違和感があった。

 虚な眼差し、顔面蒼白。髪の毛も若干ながら艶が失われているように見えた。

 目の前の食事には手をつけず、手元のスマートフォンに意識を持っていかれている。

 そんな気だるげな姿は彼女に似合っていないと思った。


「おはよう、透さん」


 食堂に足を運んだことを気づかれていない様子だったので、スルーしてもよかったのだが……あえて声をかけた。

 ぼんやりとディスプレイを眺めていた透は、大きく身体を跳ねさせて頭を上げた。

 薄ぼけていた瞳の焦点が徐々に結ばれて──


「お、おはようございます、大久保さん」


 ごく普通の挨拶なのに、たったひと言なのに、声に落ち着きがなかった。

 テンポが上がったり下がったり。声質そのものも掠れ気味。

 そして今、目の前で頭を抱えて蹲っている。

 昨夜の酒量は同程度だったが、彼女もしっかり二日酔いにやられている模様。


「ごめん、無理しなくていいから」


『ここ空いてる?』と問いながら、答えを待つことなく対面に腰を下ろした。

 透は篤志の不調法を咎めることなく、テーブルに突っ伏している。


──無理もないな。


 封印された(ことになっている)記憶が自然と甦ってしまう。

 昨晩の彼女はどうみても尋常ではなかった。

 ごく自然に酒に手を伸ばしていたのは、『まぁ、そういうものだろう。もう大人だしな』と納得できなくもない。

 あの優等生だった透が酒なんて……と妙な感慨に耽ったりはするが。

 しかし、その後が問題だった。とにかく飲みまくっていた。

 それこそ水かなにかと間違えているんじゃないかと呆れるほどに。

 仕向けたのは篤志だが、いい歳した大人が限界を弁えずに泥酔するとは思わなかった。

 昨日の提案は『そう言うことにして、これ以降この件に触れるのはやめよう』と匂わせるだけのつもりだったのに、まさか真に受けるとは。


「透さん?」


 いつの間にか見上げられていた。

 口元は苦悶に歪み、青白かった頬には朱が差している。

 なんというか……実にチグハグな表情だった。口元がアワアワしている。

 典型的な、或いは時代遅れ気味なツンデレムーブに見えなくもない。

 流石に本人に面と向かって口にすること憚られた。


「あの、大久保さん」


「ん?」


「昨日は、その……」


 途切れ途切れに、それでいて懸命に言葉を紡いでいる。

 ひと言ごとに眉間に皺を寄せているのが、なんだか笑える。


「昨日がどうかした?」


「その……大久保さんのお部屋で飲んでから記憶がなくて、それで朝起きたら自分の部屋にいて。私、えっと……」


「透さん、普段からあんな飲み方してるの?」


――やっぱり突っ込んできたか。


 忘れようと言っても、忘れられるものではない。お互いに。

 文字どおりの意味で『恥の上塗り』と言いたかったが、恥と言うのは基本的に積み重なるものであって、上書きなんて都合のいいことはできないものだ。

 とりあえずワンクッション置いて、反応を窺う。


「いえ、そういうわけではないのですが」


「めちゃくちゃ飲んで潰れたから、中居さんを呼んで連れて行ってもらったよ」


「……」


 しれっと嘘をついた。

 透の渋面に不信の気配が強まる。


──ひょっとして、起きてたとか?


 目の前の女性を抱き上げた時の軽さや感触、温もりは記憶に新しい。

 あまりの生々しさに息を呑み、心臓が跳ねた。不埒な思いを振り切るのに苦労したことがありありと思い出される。

 あの時、透は寝入っていたはずだった。すぐ傍で寝息も耳にした。

 でも──篤志だって動転していた。狸寝入りだった可能性は否定できない。

 そこまで思い至り、表情を動かさないように頬を引き締める。


 昨晩のことは、酒を飲んで全て忘れる。

 そう言い出したのは篤志だ。

 事実はどうあれ、その建前を守らなければならない。

 ましてや相手は既婚の女性。ことは彼女の名誉に関わる。


「透さん?」


「わかりました、信じます」


 どう聞いても信じていない声で、不承不承ながら透は引き下がった。

 ……そのはずだった。

 確認はできなかった。

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