第2話 現代編 気まずい朝 その2
「
運ばれてきた朝食をつつきながら放った何気ないひと言が、向かい合って座っている透の顔を奇妙に歪めさせた。
「
「え?」
醤油をかけてかき混ぜた納豆を炊き立ての白米にかけて頬張ろうとした瞬間、地の底から響くような重苦しい声が返ってきて、
いまいち意図が掴めなかったからだ。
それでも現実に透が不快感を覚えていることは明白で、その原因が自分の発言であることも間違いなくて。
ならば何かあったのだろうと頭を捻り……然程の時を置くことなく己の失言を悟った。
いくらなんでも『頭大丈夫?』はなかった。
篤志的には『昨晩飲みすぎたみたいだけど、調子はどう?』と尋ねたつもりだったのだが、あまりにも言葉足らずだったことは否めない。ついでに思慮や気遣いも足りなかったかもしれない。
「いや、ほら、俺さ、二日酔いがひどくて、それで透さんはどうかな〜って」
「二日酔いって……とてもそんな風には見えませんが」
ボソリと呟かれた声には、怒りよりも恨みが勝っていた。
目の前に座る少女の眼差しは納豆かけご飯と、それをもりもり食べている篤志に向けられている。
「大久保さん、よくそんなに食べられますね……うぷっ」
透の前に置かれているのは湯気を放っているお茶だけだった。
固形物どころか朝食そのものが喉を通らない模様。
直接尋ねたことはなかったが、なんとなく透は朝食をしっかり摂っているイメージがあったから、このグロッキー具合は意外だった。
反面、30歳間近の若者(という表現が正しいか否かは置いておく)としては、朝食を食べないことは珍しいことでもないとも思う。ただ『透には似合わないな』と思っただけだ。
「これはまぁ、慣れだね」
「慣れ、ですか? 普段はあまりお酒を召されないと言っておられたような?」
軽く首を捻っている透に苦笑する。
その話をしたのは昨晩で、その記憶は忘れようと誓い合ったはずなのに。
困ることでもないし、イチイチ事細かに指摘するほどのことでもないから別に構わないが、彼女が昨夜の記憶(酒乱)を残していることを篤志に悟られていると自覚するとどう反応するかは、少し見てみたい気がした。
それはともかく。
「酒がどうこうっつーか、調子が悪くても三食しっかり飯は食えるようにしてる」
「してるって……それ、自分の意思でどうにかなるものでしょうか?」
「なせばなる」
「はぁ」
透の顔色が晴れない。
どうにも要領を得ない模様。
篤志にとっての当たり前が、彼女にとっての当たり前ではない。
そんなことは別に珍しくもなかろうが、説明を付け加える必要性は感じた。
「前に超忙しい時があってさ、三徹で飲まず食わずで……」
「何をやっているんですか、何を」
「気がついたら病院でさ、思わず『知らない天井だ』って言っちまったわ」
「本当に何をやっているんですか」
「それで医者に言われたわけ。『飯は食え。寝ろ』って」
「そんな子どもみたいなことを……」
透は項垂れて頭を押さえている。
軽い笑い話のつもりだったのだが、呆れられてしまったようだ。
「で、それ以来俺はちゃんと健康に気をつけてるってわけ」
「健康的?」
あからさまに訝しげな表情を向けられると、自分がおかしなことを口にしているような錯覚に囚われる。ガバガバ酒飲んで二日酔いで飯を抜いている透よりは、いついかなる時でもしっかり飯が食える自分の方が幾分マシなのではないかと強弁したいところだ。
「え? 俺、なんか間違ってる?」
ストレートに口にすると拗れそうなので、おどけておく。
透は目を丸くした後、ぷっと小さく噴き出した。
「なんと言えばいいのか……大久保さんの生活は根本的に破綻しているような気がします」
「そうかなぁ?」
首を傾げると、強張っていた透の頬が緩んだ。
ようやく笑ってくれたと、ほっとため息ひとつ。
彼女を取り巻く不機嫌な空気も、少しだけ穏やかになっている。
「ひょっとしてわざと言いました?」
「いや、全然事実のまま」
「健康指導とか受けた方がいいと思いますよ」
「え〜」
それは困るなと嘯いてみせると、お互いに笑みがこぼれた。
いつもの調子を取り戻したことは喜ばしいけれど、健康がどうたらなんてネタが通用するあたり、しっかり歳を取っていることを実感してしまった。
★
「うまくやれた……よな?」
仰ぎ見た天井の木目に視線を走らせながら、篤志はぽつりとつぶやいた。
朝食を終えて部屋に戻ってくるなり、倒れ込むように畳に寝っ転がった。
歴史と高級感をいいとこ取りしたような風情に、妙な居心地の悪さを覚えた。
昨晩は色々な意味で危なかった。
十年ぶりに再会した透は、昔と変わらず可愛らしいままだった。
そこに年齢相応の落ち着きと物憂げな眼差しが加わった。
『いくらなんでも属性盛りすぎでは?』とどこぞの誰かにひと言物申したくなるほどに。
結婚しているにもかかわらず、ひとりで温泉街にいるのも怪しい。
ギャルゲーだったら間違いなくヒロイン格。それも人気出る奴。
そんな彼女を自室に招き、食事を共にし、酒を酌み交わした。
結論から言えば、何もなかった。
あるいは、何もできなかった。
何もなくてよかった。
理性を総動員して透を部屋に運び、そっと唇に指を添えた。
柔らかさ、瑞々しさ、そして生々しさが今も指先に残っている。
もしあの時彼女に意識があったなら、あんなことは到底できなかった。
雑談を交えながら様子を窺った限りでは、透に昨夜の記憶はない様子だった。
……幸いと言うべきだろう。
朝食の席で渋面を隠そうともしなかった時は『ひょっとしてバレてたのでは!?』とハラハラしたものだが、どうにかこうにか取り繕うことはできた……と思う。疑惑を招く言動は控えていたつもりだ。
──でも……なぁ……
昨晩は無茶が通ってしまった。
ひとえに透が篤志を信頼してくれているからに他ならない。
十年前、高校三年生のあの時。久方ぶりに夢に見たあの時。
透の中での『大久保 篤志』はあの時のままなのだと痛感した。
彼女から見た篤志は、今でも『信頼できる友人』の域を出ていない。
……経緯を思い返せば、それ以上の関係になっているはずはないのだが。
「十年、経ってるんだよなぁ」
時間の経過をひしひしと感じた。
真面目な堅物だった透が酒に溺れて泥酔して二日酔い。
朝食の席でスマホに気を取られているなんて、想像もつかなかった。
高校時代の彼女が、今の自分を目にしたら『行儀が悪い!』と一喝しているだろう。人目を憚ることなく説教を始めるかもしれない。
今、同じ屋根の下にいる彼女は、十年前の彼女と同一人物でありながら、全く別の存在だった。
「ふぅ」
腹は満ち満ちていて、今すぐ動けそうにない。
ここは温泉宿で、篤志を急かすものは誰もいない。
時の流れは緩やかで、心身ともに休息を欲している。
……ついさっき目を覚ましたばかりなのに。
──しばらく休むか。
せっかく旅行に来て、どこにもいかずにゴロ寝なんてもったいない気もするが、今は動く気にはなれなかった。透と鉢合わせにでもなったりしたら、どんな顔をしたらいいのかわからない。
胸の奥に溜まっていた重い空気を吐き出した。熱っぽい吐息だった。
「くそっ……かわいいなぁ、透さん」
喉元まで出かかっていた言葉が、開きっぱなしだった口から漏れた。
本人の前で口が滑りそうになったが、どうにかこうにか堪えた。
冗談交じりの流れでぶっちゃけてもよかった気もするが、相手が既婚であることを鑑みると、どれくらい褒めるところまでがセーフなのか塩梅が難しい。
――俺の考えすぎか?
ため息をもうひとつ。
十年前のあの日、あの放課後に鉢合わせた『
あの瞬間まで彼女は篤志にとって不倶戴天の存在だった。手を伸ばそうとも思わない存在だった。どちらかと言えば遠ざけたい存在だった。
そんなふたりが、あの夏の日々を経て信頼できる友人になった。
きっと透は今もそう思っている。そう思っているのは自分だけとは知らずに、思い続けている。昨晩のアレコレも、あくまでその延長線の一幕に過ぎないと。
「ちくしょう」
頭が重かった。
心が重かった。
目蓋を閉じたら、程なくして意識は闇に飲まれていった。
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