第10話 過去編 最果てに輝く星は その2
『漫画家になりたい』
いつの頃からそんな夢を抱き始めたのか、今となっては思い出せない。
おそらく子どもの頃に何か面白い漫画を読んで、チラシの裏に絵を書き始めた頃だろうとは推測できるが。
幼い頃から妙に冷めていて、おおよそ何事にも興味が持てず、それでいて将来に漠然と不安を抱き続けてきた
「それは……初耳です」
「そりゃ、高校では誰にも言ったことないしな」
戸惑い気味に口にする
たとえ相手が決して誰かを詰ったり嘲笑ったりしない誠実さの塊みたいな少女だとわかっていても。
「高校では?」
「……まぁ、今まで賛成されたことがなかったんで」
肩をすくめて苦笑い。
本当は苦笑いで済む問題ではない。
反論どころか主張することすら煩わしい。
そんな日々の末に、沈黙を選ぶことにした。
小学校の頃は、まだ応援してくれる友人がいた。
中学校に入ってからは『そんなの無理だ』と嗤う者が増えた。
誰だって夢をバカにされれば、いい気はしないのは当たり前。
篤志だって例外ではない。
次第に周囲の人間と距離を取るようになり、高校ではひとり胸に秘めることになった。
それでいて表向きは誰とでも友好関係を築き上げることができているあたり、自分は割と器用な人間だったのだと妙な才能に感心したりもした。
「ご両親には?」
「話した。めちゃくちゃ反対された」
「それは……」
「透さんも当然だと思う?」
試すような口ぶりに、暗い感情が滲み出ることは止められなかった。
コンビニの駐車場に沈黙が降りる。道を行きかう人々の声が響いた。
重苦しい逡巡ののち──
「わかりません。私は、漫画とか全然詳しくないので」
苦しそうな声だった。
素直な答えだと思った。
本音を言えば、きっと彼女もこれまで篤志の周りにいた連中と同じように考えている。
でも、篤志が抱いた夢を否定したくはない。否定する材料を持ち合わせてもいない。
だから、わからない。
透はそう答えるしかなかった。きっと、そういうことなのだろう。
「ま、そうだよな……」
わかっていたことだ。
彼女の答えもまた、想定の範囲内だった。
これまでと何も変わらない。落ち込む必要もない。
すすけた笑顔を張り付けたまま、心の中で自分に言い聞かせる。
「でも……夢があるのなら、目指すべきではないかと思います」
透の口から零れた言葉に、耳を疑った。
思わず振り向くと、大粒の黒い瞳と目が合った。
どこまでも深く透明な眼差しに、嘘偽りの類は見受けられなかった。
「それが叶わない夢でも?」
尋ねた声が震えている。
「
透は実直で誠実で、だからこそ厳しい言葉だった。
漫画家になりたい。ずっとそう思ってきた。
努力もしてきた。でも──結果が伴わない。
ここ最近は、自分でも無理かもしれないと諦め始めている。
だからこそ、透の言葉が胸に突き刺さった。
「意地を張り通しても、もし漫画家になれなかったらどうしようって……思うことがある」
篤志の日々は虚勢でできている。飄々と生きているフリをしている。
両親や教師が勧めるように勉強して大学に行って就職して──そういう人生の方がいいのではないかと、心のどこかで迷っている。
なぜなら、以前よりも自分の意思に、夢に自信が持てなくなってきたから。
努力を重ねて、夢への解像度を高めて──その果てに、自らが思い描いた夢のあまりの無謀さに心が折れそうになっている。
「最善を尽くした方がいいと思います」
「透さん?」
強い口調だった。
ここ数年の間、篤志はこれほどの意思を言葉に乗せた記憶がない。
どうすればここまで芯の通った声が出せるのか、まずはそこから教えてほしいくらいだった。
「もし今ここで諦めて、後になってから『あの時こうしておけばよかった』って思っても、その時にはもうどうにもならないかもしれませんし」
「夢を諦めれば、余計な苦労も絶望もしなくて済むとしても?」
漫画家に限った話ではないが、夢を叶えるためには投資が必要だ。
時間や金銭を始め様々なものを……突き詰めれば、それは人生を賭けたギャンブルに他ならない。
失敗したら、すべてが失われる。
その先にあるのは、きっと絶望だろう。
「後悔はすると思います。夢を諦めても、夢に押しつぶされても」
『酸っぱい葡萄の方程式』ですよと透は笑った。
何だかんだと理屈をつけて自分は正しい選択肢を選んだのだと言い聞かせても、結局のところ夢を捨てた自分を納得させることはできないと続けた。
「でも、なぁ……」
「たとえ夢に破れても、酸っぱい葡萄の味を知ることはできますよ」
「……ガキの頃は素直にそう思ってられたんだがなぁ」
慨嘆した。慨嘆せざるを得ない。
幼い頃は無責任に夢を描いていられた。
成長して、様々なものを見て、現実を目の当たりにして。
少しずつ心が摩耗していく。
人生の重みにすり潰されていく。
『そう言うものだ』なんて言い訳を覚えて、日々をやり過ごすようになる。
「私だって……私は二度と後悔したくないんです」
「え?」
「バスケ」
ポツリとこぼれたそのひと言は、さりげなく重かった。
「私、中学までバスケやってました。
そう言って力なく笑う。
次にくる言葉が予想できてしまった。
「全然背が伸びなくて。頑張っても、どうにもなりませんでした」
スポーツのほとんどは体格が大きい方が有利だ。
『柔よく剛を制す』なんて絵空事。フィクションでしか通用しない妄言に過ぎない。
特にバスケットボールにおいては、身長は圧倒的な格差となる。
素人でもひと目でわかってしまう。
140センチギリギリ程度という透の身長が致命的な欠陥となるほどに。
「マネージャーになろうとは思わなかったの?」
「ガサツですからね、私。自分がプレイできないのに見てるだけなのも辛いです」
「透さんは、結構誰かに尽くすタイプだと思ってた」
「買いかぶりですよ、それは」
「その割には委員長とかしてるし」
「それはまぁ、見ていられなかったというか。でも、失敗だったかなぁ」
ゆるゆると横に振られる頭に合わせてポニーテールが揺れた。
常日頃『小さな巨人』と呼ばれ畏れられるクラス委員長にも、相当な葛藤があったと思い知らされた。
バスケ部のマネージャーとして風祭の傍にいれば、また違った展開になっていたかもしれない。当時はそこまで見通せなかったとは言え、歯がゆい思いがあるのだろう。
「だから、今度こそ間違えたくないんです。何もせず手をこまねいているだけなんて」
「それは……」
透は悲しげに目を伏せて頷いた。
彼女と
校内に流れる不穏な噂。
透は黙して語らないが、恋人との関係に不安を抱いている。
篤志が知らないだけで(知る必要がないのかもしれない)、ふたりの間には何かあるのかもしれない。
ただ座して待つなんてできなかった。絶望に身を任せるつもりもなかった。
だから──普段では絶対にあり得ない選択肢を取る。
日頃は犬猿の仲であったはずの篤志に協力を仰ぐなんて、そんな無茶な選択肢を。
透は夢を、人生を賭けている。
たかが彼氏と笑うことはできない。透は篤志の夢を嗤わなかった。
彼女の決断の重さは、篤志の夢や人生と比しても何ら劣るものではない。
「後悔は……したくないんです」
「どんな結果になっても?」
「はい」
静かな声だった。
強く、そして悲しい声だった。
すでに賽は投げられた。結果はすべて受け入れる。
透の顔に浮かぶ表情に曇りはない。
隣に立っている少女は、どこまでもきれいだった。
その在り様に感動すら覚えた、同時に己の不明を恥じた。
「じゃあ、俺ももうひと頑張りしてみますかね」
「……大久保さん?」
自然と言葉が口をついた。負けていられないと思った。
心の中のどこかで、透たちの問題を他人事のように捉えていた。
なんといっても『大久保 篤志』にとって『
両者の交流といえば、そこには常に罵声が飛び交っていた。それが当たり前だった。
でも──たとえそんな間柄であっても、透はあくまで真摯であった。
誰もが笑う篤志の夢を笑うことはせず、背中を押してくれる。
──いい子なんだよな。
巡り合わせが悪かった。
篤志と透は不倶戴天。ずっとそう思ってきた。
違ったのかもしれない。
もっとちゃんと向かい合って、ちゃんと話し合っていれば。
二年以上もの時を無駄にすることなく、良好な関係を築くことができたかもしれない。
全ては今さらだが。
心は晴れた。去来する感情につける名前が見つからない。
「応援してもらえて嬉しかったし、お礼ってことで」
「別にそういうつもりでは……あ、でも」
「でも?」
「努力する人は相応に報われてほしい、ずっとそう思っています」
透らしい言葉だった。
高校生でもわかる、叶わない夢物語。
それを語るに足る善性の塊。それが『天城 透』という少女。
話すことができてよかった。きっかけをくれた風祭に感謝してもいいくらいだった。
何はともあれ――
「サンキュ。頑張ってみるよ」
「あの、無理しないでくださいね。私は全然……」
「今は俺のことより透さんのことでしょ」
「それはまぁ、そうなんですが……って、何をしようとしているんですか?」
篤志の言葉に不穏な気配を感じ取ったらしい透の声。
さっきまでの凛とした姿は影も形もなくなって。
焦りと狼狽が小さな顔の全面を埋め尽くしている。
その極端な変化に思わず苦笑いを浮かべざるを得ない。
「回りくどい手を使っても埒が開かないってんなら、正面突破しかないでしょ」
言葉とともに片目をつぶって見せた。
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