第3話 現代編 十年後の君は、罪の味 その1

 とおるが好き。


 十年間胸に秘めていた想いが、ついに溢れた。

 一度口にしてしまえば、あとはもう勢いだった。

 そむけていた顔を透に向けて、再び同じ言葉を口にする。

 自分の意思で、自覚して。

 ひと言ごとに想いは強く、激しく燃え上がっていく。


「え?」


 驚きのあまり固まってしまった透の口から、ひと言だけ変な声が漏れた。

 しばらく視線が周囲を泳ぎ、沈黙ののちに口元が緩んだ。


「お、大久保おおくぼさん、ひょっとして酔ってます?」


「いや、俺は飲んでないし」


「じゃあ、私が酔ってるんですね。今のは……えっと、聞き間違いでしょうか?」


『嫌だなぁ、大久保さん』なんて声が聞こえてきそうな表情をされて、ひそかにショックを受けた。次の瞬間『仕方がない』と持ち直した。

 たとえ長年にわたって心身をすり減らしていようとも、精神的にショックを受けていようとも、篤志あつしの知る『天城 透あまぎ わたる』は基本的に善性の人間であり、モラルを重んじる性格をしている。信頼できる友人と思っていた篤志が、他人の妻に堂々と好意を寄せる人間だとは思わなかったのだろう。

 だからこそ、再び言葉を重ねる。

 何度も。何度でも。


「透さんのこと、愛してる」


「ま、また言った!? 言い間違いですよね」


 今度は言い間違いときた。

 上擦る声と不自然な眼差し。

 いつの間にやら、ほんの少し距離が開いていた。

 前のめりになって間合いをつぶしつつ、さらに言い募る。


「間違ってねーし。俺も、透さんも。言い間違いじゃないし、聞き間違いでもない」


「は、はぁ!? 何でそんなことになるんですか?」


「何でって……なんでだろうな」

 

 問われて今度は篤志が首を傾げた。

 腰を引いて、畳に尻を下ろす。

 顎に手を当てて、天井を睨んだ。


「なんですか、それは」


 透の目が据わった。

 怒りと落胆と安堵と。

 様々な感情が入り混じった、何とも複雑な表情を浮かべている。

 漫画家として相応のキャリアを積んだ篤志でも、容易に描くことができない顔だった。


「最初は大したこと考えてなかった、と思う。口うるさい委員長の透さんが泣いてるなんてビックリした。でも、泣いてる女の子を放っておけないし。それで、まぁ、色々と……世話を焼いて」


「高校時代の思い出ですか?」


「あとから思い返してみると、その頃から好きだったってこと」


「十年も昔の話じゃないですか!」


 叫ぶ透に頷く篤志。

 室内に沈黙が下りた。

 遠くから鹿威しの音が聞こえた。


「え……じゃあ、十年前から、ずっと?」


「まぁ、その……はい、そうです」


「え、え、え……えぇ」


 しおしおと引き下がった透の視線が逸らされた。

 眼差しの先では薬指に嵌った指輪が鈍い光を放っている。

 彼女を守る光、彼女を縛る光。その輝きが無性に癇に障った。


「私のことをその、す、す」


「好き」


「えっと、そうなのに、私と優吾さんの……」


 透は意地でも『好き』という単語を口にしない。

 もどかしく思いながらも、篤志は頷く。

 後頭部を掻きながら。


「いや、その辺はよくわかんねーんだわ。『あ、失恋した』って気が付いたのは、透さんたちが仲直りしたあとだったし」


 遅かったんだよな。

 もっと早く自覚していたら、素直に協力できなかったかも。

 素直に付け加えながら透を見つめる。

 目の前の女性はうつむいてしまっているので、ポニーテールの後頭部しか見えない。

 表情を窺い知ることはできないが……畳についた手が微かに震えている。


「私……大久保さんがそんなこと思っていたなんて、全然気づいてませんでした。自分のことばっかりでいっぱいいっぱいで」


「あの状況なら、そりゃそうでしょ」


 自分の恋の危機に他人の恋をどうこう考える余裕がある人間なんて、そうそういるとは思えない。別に腹は立たなかった。


「でも」


「俺から振っといてアレだけど、昔話は置いといてさ。ちゃんと聞いてほしいのは、俺は今も透さんが好きってこと」


「……本当に酔ってません?」


 妙な間があった。

 疑問の声は揺れていた。


「だから酔ってないって。透さんと違うし」


「私も酔ってませんけど」


 くわっと持ち上げられた顔にはじっとりした眼差しがあった。

 それは置いておくとして、透の頬が思いっきり紅潮していた。

 断じて酒のせいではない。先ほどまでとは色合いが違う。


「さっきまでの自分の言動を思い出してみ?」


「お断りします」


「あっそ。ま、いいけど」


「な、何で今になって、そんなことを言うんですか?」


 透の声は震えていた。

 わずかに重く、そして濡れてもいた。


「十年もたって、私はもう結婚してて……」


「透さんに何もなければ、言わなかった。そのうち『そういえば俺、昔、透さんのこと好きだったわ~』って同窓会とかで笑ってたんじゃないかな」


 前半は本気だったが、後半は真っ赤な嘘だった。

 同窓会なんて出るつもりはなかった。

 風祭かざまつりと寄り添いあって幸せそうな顔をする透なんて見たくなかった。

 透には幸せになってほしいと思っているのに、矛盾している。


「そ、それは……」


「でもさ、透さんは上手くいってなくて、自殺まで考えてたんだろ?」


「最初から死ぬつもりなんてなかったって言いませんでしたっけ?」


「迷った結果がダメでしたって言ってなかったっけ? つーか、考えるだけでダメでしょ」


「うぐっ」


 真正面から正論をぶつけられて、透の口が縫い付けられる。

『昔は逆だったな』などと奇妙な感慨に囚われる。

 正論を口にするのは透で、やっつけられるのは篤志だった。


「そりゃ俺だって既婚者にこんなこと言うのは間違ってるって思ってるよ。でも、何も言わないまま透さんが自殺なんてしたら、それこそ一生後悔するし」


 今回はたまたま篤志と顔を合わせたから、思いとどまっただけなのではないかという疑念が晴れない。『透はもう自殺なんて考えないだろうか?』と問われれば、素直に首を縦には振れない。この期に及んでなお透自身の口から『もう死ぬつもりはない』と明言されていない。

 このまま別れたとして、再び日常に戻ったとして。

 次に透と再会できるのはいつだろう?

 その時まで彼女の精神は持つのだろうか?

 再び彼女と顔を合わせることができるのだろうか?

 とてもではないが、そこまで楽観視はできなかった。

 高校時代の篤志にとって『死』とはあまりにも自身とかけ離れた概念だった。

 大人になった篤志にとってはそうでもない。出版社のパーティーで顔を合わせて語り合った同業者の訃報を聞かされたことだってある。身内以外の葬式に出たこともある。

『死を想え』なんて語るつもりはないものの、笑い飛ばすこともできない。ましてや今の透は……

 だから、言った。たとえ人の道に反するとわかっていても。

『二度と会えないかもしれない。想いを伝える日は来ないかもしれない』

 その恐怖を思い知った今、躊躇っている余裕はなかった。


「透さん」


「なんですか?」


「答え、聞きたいんだけど」


「……」


 透は再び俯いた。いや、顔を篤志の視界から隠した。

 篤志からは見えないが……彼女の瞳は、きっと左手の指輪に向けられている。


「ダメです」


 しばしの沈黙ののちに耳に突き刺さったのは、否定の言葉。

 きっぱりとした口調だった。


「……そっか」


 一番聞きたくない答えだった。

 一番透らしい答えだとも思った。


「夫が浮気しているからと言って、私が浮気をしていいということにはなりません」


「はは、透さんらしいな」


 笑ったつもりだった。

 笑えていただろうか?

 喉を震わせる振動が、ひび割れている。

 口をついて出た想いは届くことなく、心が割れそうな痛みを発している。

 全身から力が抜けて動けなかった。何も考えたくなかった。

 思考は混濁し、時間の感覚が曖昧になり――


「どうして……」


「透さん?」


「どうして、今になってそんなこと言うんですか?」


「え? えっと、それは……」


 話はもう終わったと絶望したが、終わってなかった。

 問われたからには答えねばと言葉を探す前に、透の声が続いた。


「何もかも嫌になって、自分が嫌いになって、もう終わろうって思ってたのに……そんなこと言われたら、終われない」


 終われない。

 透はそう口にした。

 耳を疑い記憶を疑い、眼前の光景を疑ったが、何ひとつ間違っていない。


「透さん……」


「……してください」


「え?」


「優しくしてください。甘やかしてください。私、ずっと頑張ってきたんです。私、私……ッ、今日だけ、今だけでいいから……大久保さん、私……」


 くしゃり、と透の表情が崩れた。

 堪えていた感情が爆発したとしか言いようがなかった。


 ただ『正しくあれ』と胸を張った少女の歩みの果ては、絶望だった。

 正しくあることは、あるべき人の道は、彼女を救わない。報いない。

 ならば――


 喉を震わせて慟哭する透の頭をそっと撫でた。

 ゆっくりと、優しく。大切なものを扱うように。

 事実、篤志にとって透は何よりも大切な存在だった。


「俺は傍にいてあげられなかったけど、透さんはずっと頑張ってきたと思うよ。こんなこと言って困らせてるのは俺が悪いし、でも……いや、ほんと、俺が悪いわ」


 おかしなことを口走っている自覚はあった。

 いつの間にか篤志自身も耳まで熱を持って頭が沸騰している。

 心臓の鼓動は激しく、首筋にじっとり汗をかいている。

 頭を撫でていた手に、白くて小さな手が重ねられた。

 ゆっくりと見上げてくる透の顔、その瞳が濡れていた。

 そっと指で目じりを拭って、舐めとった。

 塩分を含んでいるはずの雫は、なぜか甘かった。

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