第2話 現代編 再びの酒宴……になってしまった その2

 隣に陣取っている酔っぱらいの口から飛び出した発言に、篤志あつしの背筋がピンと伸びた。

『素面で話せないことを話そうとしているのか?』と緊張で身体が強張る。

 昨日で会ってからの姿と昼間のことを思えば、生半可な内容ではないのだろう。

 ゴクリと唾を飲み込んで居住まいを正し、耳に意識を集中させる。

 ひと言も聞き漏らすまいと身構えて――首を傾げた。

 続くはず言葉が、いつまでたっても聞こえてこない。


「ん?」


 ちらりと様子をうかがうと、とおるは自分で徳利に酒を注いで小さな口に運んでいた。

 飲んで、注ぐ。飲んで、注ぐ。飲んで、注ぐ。

 ただ黙々と酒を干していた。

 透が顔を上げた。篤志と目が合った。しばしの沈黙ののち、透は――さらに酒を口に含む。


「透さん?」


「なんれすか?」


 透の目が据わっていた。

 若干呂律も怪しい。

 吐息が酒臭い。


――無理にしゃべらせる必要、ないんじゃね?


『こりゃダメだ』と呆れると同時に『好きにさせておくほうがいいのでは?』とも思った。

 今の透は心身ともに平衡を乱している。感情の振れ幅が大きい。昼間のあれはその典型だ。

 風呂に入って落ち着いているように見えるが、その胸中は本人以外にはわからない。

 否、本人だってわかっているのかどうか……

 何かを考えるにしても、行動を起こすにしても、こんなコンディションではロクなことにならないのではないか。自らの過去を顧みると、そういうことは割とあった。徹夜して描いたネームを翌日見直したら、あまりのクソっぷりに悶絶してゴミ箱へ投げ捨てる。あるある過ぎて頭を抱えてしまうほどある。こういう時は何やってもダメ。すごくよくわかる。

 だから温泉で身体を暖め、美味な料理に舌鼓を打って。あとはゆっくり休ませて。

 

――そうだ、それがいい。うんうん。

 

「私……間違っていたんでしょうか?」


 篤志の煩悶をよそに置いて、勝手に透が言葉を紡ぎだした。

 語り口はヘヴィだったし、脈絡がなさすぎた。

 篤志のこめかみから冷や汗が一筋流れ落ちる。

 嫌な予感しかしない。


「ま、まぁいきなり思い詰めるのは、えっと……よくないんじゃねーかな」


 あまり意味のない言葉の羅列を返しておく。

 あくまでやんわりと。刺激を与えないように。

 いっそのこと、もっと飲ませて寝かせた方がいい気がしてきた。

 徳利を掴んで差し向けると、その手首を透の白い手が掴み横に払われた。


「何やってるんですか、もう! そうじゃありません! ちゃんと話を聞いてください!」


「は、はい!」


 いきなり声がでかくなった。バラバラすぎる音程が不安を煽ってくるものの、肩を揺さぶられた篤志はそれどころではなかった。頷くことしかできない。


「私……自分で言うのも何なんですけど、昔からずっと頑張ってきたと思うんです」


「それは……そうだろうな。透さんは頑張ってると思うぜ」


 別に調子を合わせたつもりはなかった。心の底からの同意だった。

 小学校、中学校とバスケットボールに熱心に取り組んできた。

 でも、身長が伸びなくて高校ではついていけなくて。

 それで、クラスの委員長に転身した。

 ここまでは高校時代の透から聞いた話だ。

 何があろうと腐ることなく前を向き、ひたすら真面目で誠実であった。

 彼氏である風祭を陰に日向に支え、同時に多くの人間の信頼を集めた。

 当時の篤志のようなぐーたら人間からすると疎ましく感じられることもあったが、ひたむきな透の人柄あるいは在り方は決して責められるものではなかったはずだ。

 付け加えるならば、女子バスケ部のエースといい仲になっていた風祭を許せるほどに広い心を併せ持っていた。篤志は口を挟まなかったが、ちょっと優しすぎるのではないかと思ったほどだ。

 何が彼女をそこまで駆り立てているのか、当時の篤志にはサッパリ理解できなかった。


 頑張ることは難しい。

 人は安易な方に流れたがるものだ。

 頑張り続けるとなると、難易度はさらに跳ね上がる。

 透は頑張り続けていたと思う。それは称賛されるべきことだと思う。

 でも――


「だったら、どうしてこんなことになってるんでしょうね」


 ポツリと漏れた言葉は、きっと彼女の28年の結晶だった。

 大好きだったバスケットボールは、彼女を愛さなかった。

『よき人たれ』と自らを鼓舞しても、報われない。

 想い人と結婚できたのに、散々浮気に振り回される。


――透さん……


『もし諦めて、後になってから『あの時こうしておけばよかった』って思っても、どうにもならないかもしれませんし』


『後悔はすると思います。夢を諦めても、夢に押しつぶされても』


『たとえ夢に破れても、酸っぱい葡萄の味を知ることはできますよ』


 高校時代の放課後に透がくれた言葉は、今でも一言一句たがわず思い出すことができる。

 前を向いて、夢に向かって。

 何もしないうちに諦めないで。

 透は自分の言葉を忠実に実践した。挫けず、諦めず、夢を叶えた。

 そして――夢に裏切られた。彼女を取り巻く現状は生き地獄と化した。

 同じ言葉を胸に抱いて無謀に突っ走った篤志は、念願かなっていい感じな人生を歩んでいるというのに。この落差は何なんだろう?

 

「最近よく考えるんです。昔はよかったなって」


「透さん……」


「こんなのダメですよね。後ろ向きすぎて私らしくない。でも……あの頃は楽しかった。何気ない毎日があって、クラスのみんながいて、すぐにさぼって姿をくらますどこかの誰かがいて、夢があって、未来があって……」


 透の声は徐々に小さくなり、途絶えがちになって、消えた。

 絶句してしまった篤志は言葉を返すことができなかった。

 十年の隔たりが、あまりにも大きい。

 こんなことになるなんて、あの時は考えもしなかった。


――風祭かざまつり、あの野郎……


 奥歯を噛み締め、こぶしをぎゅっと握りしめた。

 透は風祭のことを愛していた。ふたりの関係は公然のものであった。

 だから、篤志はふたりの仲を取り持つことが正しいと信じて疑わなかった。

 透と行動を共にするようになって、徐々に胸の内に育っていった想いがあった。

 それを表に出すことはなかったし、そもそも最後の最後まで気づくこともなかった。

 何物でもなかった自分と、みんなの尊敬を集めるカリスマカップル。劣等感があった。

 ずっと後悔していたし、忘れようとした。眠れない日々が続いたことを覚えている。

 よりにもよって透に心配されて『何でもない』と笑ったこともある。吐きそうだった。

 卒業するまでの半年ほどは控えめに言って地獄だったし、卒業してからは地元から逃げるように上京した。

 自分が余計なことを口にしたら、透を困らせる。

 透への想いを断ち切ることは不可能だったが、それだけは我慢ならなかった。

 だから逃げた。本音を心の奥底に封印した。とにかく漫画に打ち込んだ。

 夢を追うふりをして、ただひたすらに現実から、透から目を背け続けた。

 幼い頃から抱いていたはずの夢なんて……叶おうが叶わなかろうが、もうどうでもよくなっていた。


「俺も……間違ってたのかもな」


 疑問形ではあったが、確信めいたものがあった。

 篤志の選択は間違っていた。認めざるを得なかった。

 できることなら、こんなことになる前に向き合うべきだった。

 現実と。そして透と。


「……大久保おおくぼさん?」


 訝しげに見上げてくる透の眼差しを頬に感じた。

 頼りなさげで、儚げで。

 潤んだ瞳には、隠し切れない不安があった。

 きれいだと思った。


「あのさ、透さん」


「はい」


「俺、透さんのこと、好きなんだわ」


 抑えていた心の蓋が開いた。

 抑えていた言葉が口をついた。

 倫理的に考えれば、この選択肢こそが間違っている。

 篤志の想いは告げるべきものではない。

 今の透はかつての『天城 透あまぎ とおる』ではない。『風祭 透かざまつり とおる』なのだ。

 たとえ夫婦関係が破綻しているとは言え、れっきとした人妻である。

 そんな彼女へ好意を、恋愛感情をさらけ出すことは人として許されない。

 わかる。わかっている。そんなことは誰かに言われなくてもわかっている。

 それでも――


「……」


「……」


「ずっと好きだった。ちがうな。今でも透さんのことが好きだ」


 覚悟を決めて、自分の意思で口にした。

 言葉にするほどに、感情が強く高まっていく。

 引き返せない一線を越えた。その自覚があった。


「はい?」


 透は首を傾げ――次の瞬間、大きく目を見開いた。

 

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