第4章

第1話 現代編 再びの酒宴……になってしまった その1

「はぁ……生き返るわ」


 安堵のあまり、篤志あつしの口から声が漏れた。

 肩まで湯につかって、だらしなく全身を弛緩させて、ほっとひと息。


 街中を駆け回った挙句に岬でとおるを見つけた。

 彼女は篤志の背中で泣き崩れ、しばしの間どちらも身じろぎひとつできなかった。

 程なくして透の涙も止まり、これにて一件落着……とはならなかった。

 遮るものなど何もない海沿いで、吹きすさぶ寒風に身を任せ続けたのだ。

 ふたり揃って大きなくしゃみを放つだけで終わるはずもなく、全身を震わせ歯をガチガチと不ぞろいに打ち鳴らす羽目になった。本格的に風邪を引くところまでいかなかったのは僥倖と言うほかない。

 這う這うの体でバスに乗り、宿に戻ってきたころにはすでに空は真っ黒だった。

 秋も深まり、日に日に夜が近づく頃合いだ。早めに戻ってこられて本当に良かった。

 そして今――大浴場で冷え切った身体を暖めている。

 篤志だけ。


『こんな顔、誰かに見られたくありません』


 グスグスと鼻を鳴らしていた透はどうしたのかと言うと、彼女は篤志の部屋に備え付けられた温泉に入っている。

 透は宿を後にする際にチェックアウトしてしまっており、再び部屋を取ろうにも空きがなかった。帰ってくるつもりがなかったのだと気づかされて、篤志の背に冷たい震えが走った。

 篤志の胸中に気づいたらしい透は『その……ほかの宿に泊まるつもりでしたから』と申し訳なさそうにのたまい、スマートフォンに指を滑らせ始めた。

 だから……つい、だったのだ。

『俺の部屋の風呂使う?』なんて言ってしまったのは。

 もちろん『冗談ですよね?』とジト目で睨み返されると思っていたのだが……予想に反しておずおずと頷かれてしまった。

 こうなってしまうと、今さら『冗談でした』とも言えない。

 非常識とも取れる透の言動は、篤志への信頼をその根源としているに違いない。

 内心では歯がゆく思いはするものの、彼女を裏切る真似はしたくない。

 やむなく(?)女将と交渉し、透を部屋に泊めることにした。

 血相変えて宿を飛び出した篤志と、戻ってきたふたりの様子に思うところがあったのか、女将は篤志の申し出を断らなかった。

 幸いと言うべきか、篤志の部屋は広かった。

 もうひとり泊めて、なお余りあるほどに。

 加えて篤志には金がある。多少の無茶を押し通すなど造作もない。


「まぁ、部屋は広いし大丈夫だろ」


 妙齢の女性、しかも人妻を部屋に泊める。

 その危険性について考えなかったわけではない。

 それでも……十年に渡るストレスに晒され続けて精神が著しく消耗した透をひとりにしておくことに耐えられなかった。

 何かの拍子で気が変わってしまう可能性を否定できなかった。

 せめて今夜だけでも傍にいたかった。

 それが本音だった。


――さすがに風呂まで一緒とかは無理だけどなぁ。


 たとえ冗談にしても、これはさすがに許されない。

 部屋を後にして大浴場に向かうとき、なかなか足が進まなかった。

 今この瞬間、目を離した隙に何かあったら……なんて不吉な考えが頭をよぎってしまうから。

 迷いはしたけれど、最終的には彼女を信じることにした。

 事ここに至って周りの目を気にしているところから察するに、今すぐ極端な行動に出ることはないだろうと、半ば無理やり自分を納得させた。


「って、これで部屋に帰って透さんが浮いてたら、どう見ても俺が犯人じゃねーか」


 まさか、まさか。

 はははと笑って、顔に湯を浴びせた。

 この宿に名探偵が宿泊していたら、案外シャレにならないシチュエーションだ。


「ないない、考えすぎ」


 もう一度笑った。

 透を信じる。そう決めたのだが……一抹の不安が脳裏をよぎるのも仕方ないとも思った。



 ★



 十分に身体を温めてから大浴場を後にして、自室の前で突っ立って耳をそばだてる。

 室内に不穏な気配はない。

 両の手のひらでパンパンと頬を叩き、コンコンとドアをノックする。

 この状況でいきなり部屋に入るとか、どう考えてもフラグだった。

 高校時代ならラッキースケベで済んでも大人になったら冗談では済まされない。


「どなたですか?」


 中から透の声が聞こえてホッとした。

 落ち着きのある声色が嬉しかった。


「俺だよ、俺俺」


「オレオレ詐欺は間に合ってます」


大久保おおくぼです。入っていい?」


「冗談です。どうぞ」


 ドアを開けて中に入ると、そこはすっかり見慣れた篤志の部屋で。

 広い和室のテーブルのそばに、透が腰を下ろしていた。

 思わず足を見てしまった。何も履いていない白い素足……ではなく、ちゃんと足がある。


「どうしました?」


「いや、足あるなって」


「なんですか、それ?」


「なんでもないです」


「変な大久保さん」


 くすくすと笑う透に向かい合って腰を下ろした。

 透は憑き物が落ちたような穏やかな表情を浮かべている。

 安心して焦点をずらすと……普段はポニーテールな黒髪が後ろで結わえられていて、うっすら色づいたうなじがさらけ出されていた。じっと見るのも悪いと思って(バレたらヤバいとも思った)さりげなく目を逸らすと、透がそっと腰を上げた。


「透さん?」


「お茶入れますね。いりませんか?」


「いえ、いただきます」


 ポットから急須にお湯が注がれ、ほどなくして篤志の前に湯気を立てた茶が用意された。

 そっと手に取って湯呑みを口に運ぶと、鼻先を香気がくすぐった。


「なんかホッとするなぁ」


「そうですね」


 それっきり、ふたりともほとんど口を開かなかった。

 静かな部屋にお茶をすする音だけが響く。

 この街に来て、この宿に泊まって。

 昨日から今日にかけて気の休まる暇がなかった。

 まだ一日しかたっていないことに驚きすら覚える。

 ぼんやりとしていると、部屋の備え付けの電話が鳴った。

 何事かと受話器を取って耳に当てると、女将の声が聞こえてくる。


『お客様、本日のご夕食はいかがなさいますか?』


「ああ、それは……」


 口ごもって透に目を向けると、彼女は目の前で小首をかしげている。

 彼女を部屋に泊めるにしても、食事は食堂で。

 それが健全な選択肢のはずだ。


「今日も部屋で食べます。えっと、ふたりで」


『承りました』


 口から出たのは正反対の言葉だった。女将もノータイムで頷いている。

 他にもあれこれと尋ねられ、ひとつひとつ答えて電話を切った。

 

「どうしました?」


「夕飯どうするかって話。透さんもここで一緒にって確認」


「でも……」


「もう言っちゃったから、遠慮はナシで」


「……では、ご相伴にあずかります」


 躊躇いがちに頭を下げる透は、かすかにはにかんでいた。

 その瞳に先ほど垣間見えた澱みはなかった。





「だーかーらー、聞いてるんれすか、大久保さん!」


「聞いてる、聞いてるから落ち着いて」


 本日の夕食も、やはり豪勢だった。

 昨夜と同じく料理人が腕を振るってくれたのだろうと容易に想像できた。

 二日連続の和食であっても献立は大きく異なっており、美味に飽きることなどない。

 カップラーメンとコンビニ、そして豪勢にファミレス。それが篤志のデフォルト飯。

『もう少し栄養に気を使ってください……っていうか飽きませんか、先生?』などと周囲を困らせる男とは根本的に世界が違った。


 そんな料理を前にして心の中で嘆息した。たぶん篤志だけ。

 対面に向かい合っていたはずの透は、いつの間にか隣にいて。

 見た目よりもずっと強い力で浴衣越しに篤志の肩を掴んで揺さぶっている。

 その頬は真っ赤だが、別に彼女は照れているわけではなかった。

 白い手には空のお猪口があって、テーブルの上には空の徳利が乱立していて。

 つまるところ……昨夜と同じく透は酔っていた。


――どうしてこうなるんだろうな、あの流れから……


 夕食を一緒に食べようと誘って、透は頷いた。恐縮しているようであった。

 それから女将がやってくるまでの時間は、なんとなく居心地が悪かった。

 お互いに語り合うべきことがあるはずなのに、どうにも切っ掛けがつかめない。

 まごついているうちに夕食が運ばれて『いただきます』と手を合わせて――現在に至る。


――あれはねーよな。はぁ……


 透はやはり昨日同様、初手から徳利に手を伸ばした。

 この段階で猛烈に嫌な予感がした。

『ストップ。昨日のこと思い出して』と当然のことを口にしたつもりだったのだが、透が泣きそうな顔をするものだから、決意が鈍った。

 悩みに悩んで、結局『じゃあ、一杯だけなら』と妥協した。

『ありがとうございます』と微笑んだ透は――手に持った徳利の中身を湯呑に注いだ。

 豪快に、ドバドバと。そして止める間もなく一気飲み。

 あとはあれよあれよと酒を進められ、その結果がこの有様であった。


 あえて昨日と異なる点を挙げるならば、篤志は酒に手を付けていない。

 さすがに二度目の失敗はない。

 大人になるって、そういうことだと思うから。


――じゃあ、透さんは何なんだって話にはなるけどさ。


 ずいっと差し出されたお猪口に酒を注ぐと、すかさず透はグイっと飲み干す。

 そしてまたお猪口が差し出される。あとはエンドレス。

 適切な表現ではないかもしれないが、透は酒を飲むのが下手なように思えた。

 普段は飲まないのではないだろうか。そんな気はしたが、何の慰めにもならなかった。


「透さん、お酒控えた方がよくない?」


「おいしいからいいんです!」


 会話が成立していない。

 なんかもう考えるのが嫌になってきた。

 

「俺も飲むかなぁ」


「ダメです」


 思わず口をついたボヤキに、思いっきり食い気味の声が被った。

 ふと隣を見ると――透と目が合った。

 黒い瞳が、近い。


「透さん?」


「……私の話を、聞いてくれませんか?」


「ああ……聞くよ」


 頷くと――透はグイっと酒を呷った。

 吐き出される酒臭い吐息。

 色々と台無しだった。

 酔いで色気を纏うタイプではない。


「透さん!?」


「これが素面で話せることですかって言うんです!」


 調子っぱずれの声とは裏腹に、大粒の黒い瞳には悲しげな光が宿っていた。

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