第7話 過去編 惚れたの腫れたの
明けて翌日。
昨日の今日でどうなることかと危ぶんだものの、教室は特に何も変わらなかった。おっかなびっくり席に向かう
誰もが変わり映えのない日々に倦みながら、しかし平穏が破壊されることは望まない。大半の生徒たちは、刻々と迫る卒業と前後に控えた人生の一大イベントである大学受験に向けて黙々と歩みを進める、そんな一日だった。
『おはようございます、
『お、おお、おはよう、
教室で篤志を迎えた透は、やはりいつもと変わらぬそっけない態度。
昨日のあれは夢だったのかと思いきや、目じりが微かに腫れていた。
――夢じゃねぇよな、やっぱり。
奇妙なものでも見るかのごとき透の眼差しをスルーして自分の席に腰を下ろし、べったりと机に張り付いた。
そして、そのまま突っ伏した。
頭が重かった。昨晩はよく眠れなかったからだ。主に透のせいで。
当の本人が何食わぬ顔をしているのが、ちょっと腹立たしかった。
――よくもまぁ、平静を装っていられるもんだな。
教卓に立って胸を張る透を見て、心の中で独り言ちた。
いつも元気な教室のリーダーも、内心は決して穏やかなものではない。
件の噂はひそやかに、しかし確実に広がっているのだから。
どことなく居心地の悪さを覚えて身を竦ませながら受ける授業は、思いのほか長く感じられた。まぁ、ほとんど眠っていたのだが。合間の休み時間に二回ほど透に頭を叩かれた。実に理不尽だと思わざるを得ない。
そんなこんなで放課後、場所は昨日と同じ教室。
授業を終えてしばらく他の場所で時間をつぶしていたので、戻ってきたときには透しかいなかった。彼女以外に誰かの姿があったら面倒ごとがマシマシ間違いなしなので、ホッと胸を撫で下ろした。
「まずは情報収集から始めようと思うわけ」
再び透と向かい合った篤志は、さっそく切り出した。
透は軽く眉を寄せはしたものの文句を口にすることはなかった。
昨日より厳しめで、いつもよりは抑え気味な瞳で先を促してくる。
「色々考えたんだけどさ、そもそも俺って……その、透さん達のこと、あんまり詳しく知らねーなって」
「はぁ」
気の抜けた相槌が返ってきた。
どんな感情が込められているか、にわかには判断しがたい。
呆れられているような気がしなくもないが……今後を鑑みると、まずは基本的な情報を確認しておくことがとても重要なことは事実だと思う。
バスケ部の主将にしてエースである『
小さな巨人と呼ばれるクラス委員長『
このふたりは幼馴染にして彼氏彼女の関係であるという話は校内に広く知れ渡っている。
どちらも有名人だから無理もない。
そして──『風祭 優吾』は『天城 透』という彼女がありながら他の女子にうつつを抜かしているという問題の噂もまた、静かに校内に広まりつつある。
ただ、こちらはまだ誰でも知っているという状態には程遠い。
広く浅い交友関係を持つ篤志の耳に入ってきたのも、つい最近だったと記憶している。
『浮気』という単語が持つセンセーショナルな響きがひとり歩きしている状態で、実態が窺い知れない。
「別に透さんを疑っているってわけじゃないんだ。それは信じてくれ」
胡乱げな眼差しを向けてくる透に言い訳じみた言葉を返す。
内容が内容だけに迂闊な言動は禁物だった。
だからこその事実確認である。
──マジなところ、高校生で『浮気』ってどうなんだろうな?
どこの誰から聞いたのかは忘れたが、最初に件の噂を耳にしたときに首を傾げたような気がした。
『浮気』というのはよく聞く言葉ではある。主にドラマや漫画の中で。
つまりフィクションだ。
ならば、現実ではどうだろう?
時折テレビで芸能人が浮気してスキャンダルになっていたりはする。
でも……芸能人とか芸能界とかいうのは、どこにでもいる一般人にすぎない篤志にとっては異世界であり異世界人とさほど変わらない。
兎にも角にもリアリティがない。
自分の両親や親戚を思い出してみても実例はない。
探せばあるのかもしれないが、身内の不祥事なんて知りたくない。
インターネットを検索すればいくつかの案件に該当するものの、得体の知れない記事を鵜呑みにするわけにもいかない。
ましてや今回は高校生同士のトラブルだ。
高校生といえば、惚れた腫れたは日常茶飯事の青春真っ只中。
誰と誰が付き合っただの別れただのは、よくあることのひとつに過ぎない……のではないかと類推される。
ゆえに、状況を正確に把握しないとロクな対策を講じることすらできない。これもまた、疑いようのない事実だった。
「こんなこと聞くの悪いって思うんだけど、この件、透さんは……」
篤志の問いに、透は首を横に振った。
噂を鵜呑みにして事実確認を怠っていたらしい。
それで放課後の教室でひとり泣き濡れていたのだから、彼女もなかなかのロマンチストといったところか。
日頃は篤志たちを正面から一刀両断する小さな巨人らしくない……と笑うのは失礼に当たるだろう。
迂闊だとも、無理もないとも思う。
自分の彼氏が他の女と浮気(どの程度かは不明)しているのに、堂々と正面から尋ねるのは難しかろう。
年齢=彼女いない歴な篤志ですら無理感を容易に想像できるのだから、透が躊躇うのも仕方がないし『自分のことは自分でケリをつけろよ』なんて説教する気もない。
「大久保さんのおっしゃることは理解できます」
「だろ?」
「はい。事実確認をせずに優吾さんを一方的に責めるのは筋違いです」
──優吾さんって、下の名前で呼ぶのか。
透が誰かを下の名前を読ぶところを耳にしたのは初めてだった。
彼氏彼女の関係なのだから、名前呼びは別におかしくはないと思う。
ふたりきりのときは『優吾』『透』と呼び合っているのだろう。
透のことは親しみあるいは揶揄をこめて『透さん』と呼ぶ者が多い。篤志もそのひとりだが、彼氏である風祭にしてみれば面白くないかもしれない。
「では、私から言い出した話ですので、自分で……」
「ちょい待ち」
「なんですか?」
話を遮ると、透は不快げに眉を寄せた。
今度ははっきりと反駁してくる。
「いや、透さんが直接ってのはマズイだろ」
「でも……」
「もともとそれができてたら拗れてないわけで」
「それは、そうですけど……」
言葉を交わすごとに透の語尾から力が失われていく。
向けられる瞳も輝きを失い、目じりが下がっていく。
本人には言わなかったが、透がいきなり風祭を問い詰めてもロクな結果にならないとも思った。だから止めた。
もし浮気が事実無根なら、疑われた風祭としては文句のひとつも言いたくなるに違いない。そこからふたりの関係に亀裂が走る可能性もある。
逆に浮気が事実だったら、これはもう完膚なきまでに破綻する未来しか見えない。現段階でメソメソしている透が、その決定的な瞬間にどうなるかなんて想像したくもない。
「ま、その辺は俺に任せといてくれればいいって」
透自身がこの件を嗅ぎ回るのも、かなりリスクが伴うように思えた。
校内の人間関係は複雑で、しかも噂の類は無責任に広がるのが世の常だ。
良くも悪くも『天城 透』は目立つ存在であり、そんな彼女が彼氏の浮気を疑っているなんて素振りを見せたら、それこそどんな噂が広まるか……
「悪いようにはしないから、さ」
「……」
篤志を見つめる透の瞳に複雑な光が宿る。
信じたい。任せたい。信じられない。任せられない。
『天城 透』にとって『大久保 篤志』は信頼できない存在だ。
高校に入って同じクラスになって共に過ごした時間が、彼女に警戒を促している。
篤志だって、まさか天敵な彼女の恋愛相談を受ける未来が訪れるなんて思ってもみなかった。
「大久保さんは」
「ん?」
「大久保さんは、どうして私のためにそこまでしてくれるのですか?」
「どうしてって、そりゃ……」
何か言おうとして、何も言えなかった。
昨晩もアレコレ考えては見たものの……正直なところ、特に理由はないのだ。
あえていうなら、泣いている女子を放って置けなかっただけ。
それを口にしたところで、透が納得してくれるとは思えない。
篤志と透の関係は、決して好ましいものではなかった。裏を勘繰るのも無理はない。
だからと言って、『大久保 篤志』という男は、この状況で気の利いた言い訳ができるような人間でもなかった。
「マジな話、よくわかんねぇ」
「わからないって……それは」
信頼を勝ち取るための状況でバカ正直に心中を吐露した篤志に、透は露骨に疑わしげな眼差しを向けてくる。
理由はわからないけど協力するなんて言われたら、篤志だってそんな目をするに違いない。
「泣いてる透さんをみたら、なんか放って置けないなって」
「な……昨日のことは忘れてください」
「忘れられないって」
茜差す放課後の教室。
涙を湛えて声を殺して泣くクラスメート。
視覚的にも聴覚的にもインパクトが強すぎた。
あまりにも一枚の絵として、あるいはひとつのシーンとして完成していた。
ひょっとしたら、生涯忘れることができないかもしれない。
「……とりあえず、周りを刺激しない程度に聞き込みから始めようと思う」
「……」
「それでいいかな、透さん」
「え、あ。は、はい。その、よろしくお願いします」
こんな状況でも素直に頭を下げる透を見ていると、篤志の胸の奥に言いようもない不快感が広がる。
──こんな可愛い彼女がいるくせに……なんで他の女に目移りするかね?
たいして親しくもない同級生に、恨みのひとつもぶつけてやりたくなるほどに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます