第10話 現代編 まったりした時間を、透と

 汗ばむ身体の不快感に耐えきれなくなって、篤志あつしは再び目を覚ました。

 視界いっぱいに広がっているのは、古ぼけたもとい伝統を感じさせる天井。


――知らない天井、じゃねーな。


 いまだ覚めやらぬ頭で記憶を手繰り寄せると、ここが昨日から泊まっている温泉宿の自室であること、そして身体の節々が訴えてくる痛みが……どうやら自分が畳に横たわっていたことに起因しているらしいことに思い至った。


「何やってたんだっけ、俺?」


 ゆっくりと上体を起こし、コキコキと軽く首を鳴らす。

 おかしな姿勢で寝っ転がっていたせいか、全身が凝り固まってしまっている。

 夢の中の記憶――学生時代の自分だって散々不摂生な日々を過ごしていたはずだが、当時は何ともなかったのに。こんな些細な日常の一幕に、時の流れを感じずにはいられない。


「ずいぶん長く眠っていた気がするけど、あ~」


 盛大なあくびとともに放り出されていたスマートフォンをタップして時刻表示を呼び出すと……まだ午前中だった。日付は変わっておらず、朝食をとってから大して時間は経過していない。

 その割には頭が重かった。物事を考えることが、ひどく億劫に感じられた。

 よほど深い眠りに入っていたのか、あるいは夢に見た過去に囚われていたのか。

 いずれにせよ時間の感覚がひどく曖昧だった。


「へ、へ、へくしょい! うう、寒……とりあえず、風呂にすっか」


 やかましいくしゃみを一発かまして、寒さに震える身体を抱きしめた。

 大きく身体を伸ばして立ち上がり、はだけた浴衣を放り出して縁側に向かう。

 部屋に備え付けられている温泉から湯を汲んで軽く流し、そのまま湯船に身体を浸す。

 居住スペースの近くに風呂がある生活という点では東京の自宅と何も変わらないはずなのに、ここには圧倒的なまでの開放感があった。

 ただ湯につかるだけでも快楽がある。身体の中にたまっていた悪いものが溶け出していくような安堵を覚える。


「あー、こりゃいい。この部屋取ってくれた後藤ごとうさん、マジ感謝」


『後藤さん』というのは篤志の仕事仲間すなわち担当編集者だった。

 勝手に部屋を予約するわ、有無を言わさず職場からたたき出すわとロクなことをしない。

 無茶ぶりなスケジュールぶっこんで来るなんて日常茶飯事な仕事の鬼だが、だからこそ今の今まで篤志は彼女とうまくやってこられたとも言える。

 というか、ことあるごとに仕事を要求していたのは篤志のほうだった。

 常に手を動かして頭を使い続けていないと、思い出したくない記憶が甦って心が苦しくなるから。


――みんなにもなんか土産買っていかないとなぁ……


 肩に湯をかけ顔を拭って、ホッとひと息。

 ぼんやりと時を過ごしていると、やはり脳裏にはとおるの姿が甦る。

 不倶戴天の仇であり、初恋の相手であり、片想いのまま失恋した相手でもある。

 彼女と過ごしたあの夏の日々は、封印したい思い出であり、決して忘れたくない思い出でもある。矛盾している自覚はあった。矛盾を矛盾のまま抱え続けるしかなかった。

 理屈をどれだけこねくり回しても、どうにもならなかった。


――変わってない……なんてサクッと言い切れないのがキツイわ。


 夢に見た十年前の姿と、この温泉街で再会した現在の彼女。

 本人には悪いが、見た目はあまり変わっていない。本人には絶対に言えないが。

 でも――些細なところが違う。ふとした時に十年の歳月を感じる。

 ひとつひとつの仕草に見え隠れする、得も言われぬ色気。

 学生時代は決して口にしなかったはずの酒を嗜むようになっていた点も大きい。

 酒精に染まって酔いしれる吐息と上気した頬。

 愁いを帯びた眼差しと、濡れた唇。

 そして左手の薬指に光る指輪。

 今の彼女は『天城 透あまぎ とおる』ではなく『風祭 透かざまつり とおる』なのだ。十年前に破綻しかけたふたりの仲を取り持ったのは篤志だ。自分が手を貸したおかげで彼女たちの縁は続き、無事に結婚に至った。確認はしていないが、そういう流れのはずだ。


「将来の夢はお嫁さんつってたのになぁ」


 思い出してしまった記憶の中で、顔を真っ赤にしていた透。

 彼女は無事に夢をかなえたようだ。

 しかし――今、己の眼に映っている透は幸せそうには見えない。

 篤志だって子どもじゃない。彼女を取り巻く状況に想像を巡らせることはできる。

 

「ひとりってことは、そういうことなんだろうか?」


 夢の中の透は、高校時代の透は、風祭とほかの女性との関係に胸を痛めていた。

 あの件は解決したはずだが、自分がいなくなった十年で風祭の浮気性が再発したとしてもおかしくは……ないのかもしれない。想像はできるが、軽々に結論は出せない。

 篤志は今の『風祭 優吾かざまつり ゆうご』を知らない。知りたくもない。



 ★



「満喫してますね、大久保おおくぼさん」


 自室の風呂から上がって新しい浴衣をまとって、篤志は共用スペースでマッサージチェアを堪能していた。日ごろから酷使している全身が温泉と機械的振動によってほぐされていく。控えめに言って最高だった。是非とも仕事場に導入したい。設置する場所がなさそうだが。

 だらしない声を上げて弛緩していたところに、透が姿を現した。

 呆れた声と、じっとりした眼差しとともに。


「あ、いや、透さん……違うんだ、これは」


 一番見られたくない相手に、一番見られたくないところを見られてしまった。

 心も身体もだらけの極致に達していた篤志は、慌てて取り繕おうとして失敗した。

 まともに頭が動かなくて、当然舌も回らない。


「って、どっか出かけるの?」


 目を丸くした篤志の問いに、透は首を縦に振った。

 透は浴衣ではなく、再会した時に来ていた外出着を身に着けていた。

 おとなしいデザインで今日も透によく似合っている。

 美少女と呼んで差支えのない透ではあったが、昔は溌溂としたイメージが強かった。

 今の彼女は年齢相応の落ち着きを纏っている。


「ええ。せっかく来ましたから、ちょっとあたりを見て回ろうかと」


「それなら別に浴衣でよくない? ほら、温泉街だし」


 言葉とともに篤志が浴衣をつまみ上げると、透はそっと目を逸らした。

 意外な反応に『あれ、これってセクハラになるのか?』と首を傾げる。

 結論は即座には出なかったが、とりあえず裾を直してゴホンとわざとらしくせき込んで見せた。

 視線を戻した透は、これまたわざとらしくため息をついて見せる。


「……」


「……ま、まぁ、それはともかくとしてだ、うん」


 宿に到着するまでの間、街中を浴衣で散策している人を見かけた。

 東京でそんなことをやったら警察が飛んでくるかもしれないが、この街ではごくありふれた光景のひとつなのだろう。まったりしたい篤志としては、今さら堅苦しい服を着る気になれない。


「はぁ、いくら何でもだらしなさすぎますよ」


「そうかなぁ」


 身体を揺らしながら異を唱えると、透はクスリと笑った。

 その笑みに――違和感を覚えた。

 

――なんだ?


 何かが引っ掛かったように感じられた。

 しかし、適切な言葉が出てこない。


「まぁ、大久保さんはゆっくりしていてください」


「……じゃあお言葉に甘えて」


 何の根拠もない曖昧な疑念を、思いついたままに口にすることはできなかった。

 心の中で首を捻りながらも、怠惰を装ってマッサージチェアに横たわる。

 再び機械は動き出したものの、そこに快楽を覚えることはなかった。


「ええ、では……さようなら」


 胸元で軽く手を振って、透は遠ざかって行った。

 その小さな後姿が見えなくなるまで、ぼんやりと目で追っていた。

 目蓋を閉じると、ポツリと呟きが唇から零れた。

 

「なんなんだろうな、今の?」


 奇妙な感覚だった。首筋がスーッと冷えるような。胸にぽっかりと穴が開くような。

 ゆっくりした時間の流れに揺蕩っていた篤志の脳内に、チリチリと電流が奔った。

 過去に同じ感覚を体験したはずなのに、思い出せない。実にもどかしい。


「マジでなんだっけな、これは?」


 ここ最近また見るようになった高校時代の夢とは関係なかったはずだ。

 目を閉じて記憶を辿ることしばし――唐突に答えに行き当たり、勢い良く立ち上がる。

 日当たりのいい場所を占拠していたにもかかわらず、全身に寒気が走った。

 予感が正しければ、マッサージに浸っている場合ではない。事は一刻を争う。

 周りでまったりしていた他の客が『何事か!』とびっくりして篤志に注目するも、そんなことを気にしている余裕はなかった。


「透さん!?」


 喉を震わせる自分の声が、驚愕と恐怖に震えていた。

 透が立ち去ってから、どれくらいの時間がたっているのだろう?

 スマホをタップして時計を表示させると、びっくりするぐらい時間が経過していた。


「はぁ!? なんじゃそりゃ!」


 己が目を疑い、そして愕然とした。

 頭の中が真っ白になって――焦燥が胸を、全身を焼き焦がす。

 先ほど(ただし、ずいぶん前)見送った透の後を追うべく、慌てて駆け出した。

 途中ですれ違った中居だか女将だかが露骨に眉を顰めるも、かまっていられない。


「透さん、変なこと考えるなよ!」


 震える自分の声が耳朶を震わせ、焦りが加速する。

 嫌な予感が膨らみ続け、悪循環を意識することすらできなかった。

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