第9話 過去編 熾火 その2
その日、
一時間目の教師はカンカンに怒っていたが、二時間目の教師は心配そうな声色で保健室を勧めてきた。
静謐な保健室で気が向くまで昼寝する、しかも教師公認。
これはなかなかに魅力的な案だったものの、原因が原因だけに躊躇われた。
いつものサボりの延長線ならノータイムで直行するところなのだが……
迷った末に断りの返事をすると『無理はしないように』とだけ言われ、それからは声をかけられることも無くなった。
味のしない昼食をぬるい麦茶で胃に流し込み、午後の授業もずっと横になっていた。
授業なんてさっさと終わってほしかった。時を置くほどに決意が鈍る。
いつまでも授業が続けばいいと思った。
矛盾する篤志の願いを余所に淡々と時は流れ、終業のチャイムが鳴る。
そして今──
「
再び頭の上から声が降ってきた。
うつ伏せになったまま歯を食いしばって──無理やり笑顔を作って上体を引き上げる。
そこにいた声の主は、やはり『
聞き間違えるはずがなかった。
「大丈夫大丈夫、ほら元気元気って」
「今日は一日中ほとんど寝てましたよね」
「おかげさまで元気になりました」
「あのですね……」
言いつつ透は篤志の前の席に腰を下ろした。
立ったままでも相当な身長差があるけれど、お互いに座ると少しだけ差が広がった。
──脚が長いんだな。
下半身よりも上半身の差が大きいと言うこと。
これが意味するところは――透は意外と脚が長い。
そんなことに、今さらながら気づかされる。
「それで、話って……まぁ、想像つくけど」
わざわざ放課後に話したいというところから、関係ない人間に聞かせたい話題ではない。透を正面に捉えたままだったが、教室内に他のクラスメートが誰も残っていないことはわかっていた。
途中で何度か意識が飛んでいたらしいが、透はあえて篤志を起こさなかったようだ。
居眠りしていた自分を彼女がじっと待っていたのかと思うと、気恥ずかしさで顔が熱くなる。
冷静さを保つために苦労を要した。
「想像つきますか?」
「まぁ、ね。実は昨日の放課後に
「聞きました。
小さな唇から風祭の名前が出て、篤志の心臓がドクンと跳ねた。
その名を口にする透の優しい顔に心が揺れた。
とてもではないが冷静さを保ってなどいられない。
奥歯に力を籠めて、あくびを噛み殺すふりをした。
「あいつ、なんか言ってた?」
「はい。大久保さんに怒られて目が覚めたって」
「そんなタマかよ」
「ですね。恥ずかしいんですよ、きっと」
篤志も透も苦笑いを浮かべた。
息があっているようで、内実はまるで異なる。
透は風祭に呆れ気味。それでいてどこか嬉しそう。
篤志は――心の中で盛大に舌打ちした。
――チッ。
『天城 透』と『風祭 優吾』
いずれ劣らぬ校内の有名人で。
幼馴染で家族ぐるみの付き合いで。
そして彼氏彼女の関係で。
ふたりにまつわる情報が次々と思い出される。
篤志の知らないふたりの関係。
ふたりで築き上げてきた、ふたりだけで通じ合う世界が、そこにある。
赤の他人が足を踏み入れる余地など、どこにもない。
「優吾さんはバスケ部のキャプテンだから、仕方がない部分がある。それはわかりました」
「おおう」
「『俺たちふたりだけの問題じゃないから、部活が終わるまではチームの和を乱すことはできないから』と言われました」
──あいつはアホなのか?
口には出さず、脳内に浮かび上がった風祭に盛大な罵声を浴びせてやった。
あの男は結局透に負担を押し付ける道を選んだらしい。
そして透がそれを受け入れたことも、容易に見て取れた。
「それで、OKしたの?」
あえて尋ねると、透は首を縦に振った。
嬉しそうにはにかみながら。
ポニーテールが一拍遅れて揺れる。
「私としても優吾さんの邪魔をしたいわけではありませんから。部活を引退したら、一緒に勉強して一緒の大学に行こうって約束しました」
「あ、そう」
透の成績は優秀だ。
風祭の成績だって優秀だ。
篤志は──ふたりとは比べ物にならない。
仮に勉強したところで、彼らと同じ大学に行くことは叶わない。
最初からわかりきっていたことだ。
――行ってどうするってんだ。アホか、俺は。
ふたりを見守る。
喧嘩したら仲裁して、ステップアップを手伝って。
ありえない未来とは言え……そんな自分を想像したら、吐き気がした。
「あの、その、えっと……本当にお世話になりました」
『面倒でしたよね、私?』
篤志の胸中に気づかない透が、申し訳なさそうな顔で付け加えてきた。
『そうでもねーよ。透さんと一緒に色々やるの楽しかったって、マジで』
軽薄な笑みを浮かべて言ってやりたかった。言えなかった。
だから──
「そりゃそうよ。透さんって、あんなしおらしいキャラじゃないでしょ。でもさ、あんなメソメソ泣いてるところを見せられたら、誰だって放って置けないじゃん」
「あ、あのことは……その、忘れてください!」
皮肉げにからかってやった。
それが精いっぱいだった。
たちまち透の頬が紅潮し、瞳の輝きが強くなった。
「いやぁ〜無理だわ。あれは一生忘れないわ」
嘘ではなかった。
あの放課後の光景は、きっと生涯忘れない。
断言できるだけの確信があった。
「……もう!」
頬を膨らませ。そっぽを向いてしまった。
その横顔も、とても可愛らしいと思う。
「じゃあ、もう大丈夫だな?」
「はい。大久保さん、ありがとうございました」
スッと頭を下げて――戻った顔に浮かぶ笑みが眩しかった。
素直で、真面目で、堅物で、融通が効かない。
『大久保 篤志』はずっと『天城 透』が苦手だった。
一体自分は、彼女の何を見ていたのだろう。
後悔の念が胸の奥から湧き上がってくる。
「無理すんなよ。なんかあったら俺に言いなさい」
「不吉なこと言わないでください。でも、何かあったらまた頼りにさせていただきますね」
「おう、何と言っても俺は頼りになるからな」
「でも……めんどくさいんですよね」
「それはもういいから」
ふたりで顔を見合わせて、吹き出した。
ひとしきり笑い声がおさまった頃に、透が立ち上がった。
「大久保さん……私、このご恩は一生忘れません」
「一生って、重いよ」
彼女らしいとは思ったが、恩なんてどうでもよかった。
自分のことを忘れないと言ってくれたことが嬉しくて、辛かった。
「これから、どうされるんですか?」
「どうって言われてもな」
頭の後ろを掻きながら天井を見つめた。
無機質な平面を眺めても、何も思いつかない。
そもそも透の意図が掴めなかった。
「夢、追いかけないんですか?」
夢。漫画家になること。
以前にそう語ったことがあった。
嘘ではなかったけれど、叶うとも思っていなかった。
透は──曇りのない瞳で問いかけてくる。
そんな眼差しを向けられたら、弱気は見せられない。
篤志にだってプライドがある。
「そうだな……せっかくだからやってみるわ」
透の言葉に説得力はなかった。
目の前でほほ笑むクラス委員長は、その道の困難を知らない。
篤志だって実際のところはよくわかっていない。
漠然と無理だと決めつけていたけれど、あっさりと意見を翻した。
「応援してます」
「見てろよ。日本……いや、世界中に名前を轟かせてやっからな」
「ええ。大久保さんならできると思います」
無責任にすら聞こえる透の声が心地よかった。スーッと胸に入ってくる。
漫画家になる。そう決めた。
無理だろうが無茶だろうが無謀だろうが、そんなことはどうでもいい。
篤志は『天城 透』にカッコ悪い姿を見られたくなかった。
胸中を占めるのは、ただそれだけ。
幼い頃に抱いた憧れなんて、もはやどこにも残っていない。
「じゃあ……私、そろそろ行きますね」
「ああ、せっかく仲直りしたのに、風祭を待たせたりしたらまた揉めるからな」
「はい」
「透さん」
「? なんですか?」
腰を浮かせた透に、つい声をかけてしまった。
『俺と一緒にいて、楽しかった?』
そう問いかけたかった。でも──声にならなかった。
「なんでもない。元気でな」
「なんですか、それ。まだ学校は普通にありますよ」
「そうだった」
頭をかいて笑った。
余計なことを言わなくてよかった。
心からそう思った。思えたはずだった。
思わなければならない。思え。思え!
「ありがとうございました、大久保さん。私……楽しかったです」
「え?」
「なんでもありません。今日はちゃんと寝てくださいね」
反射的に尋ね返したが、答えはなかった。
透は笑みを残したまま、慌ただしく去って行った。
目の前から消えた彼女の幻影をずっと見つめて、ぽつりとひと言。
「失恋か……はぁ、これが失恋か」
視界がゆがんだ。
目元を手のひらで抑えた。
頬を伝って涙が零れた。
「何やってんだ、俺は……」
最初からチャンスなんてなかった。
心の中で何度も言い聞かせた。
そういうことにしておかないと正気を保っていられない。
『大久保さん、ありがとうございました』
『私……楽しかったです』
目蓋の裏には、透の笑顔が焼き付いている。ほころぶ花に似た笑顔が。
彼女の瞳が潤んでいるように見えたのは、きっと篤志の気のせいだ。
「漫画家か……やってやんよ」
本気でやるなら、ここにいてはいけない。
ここから、この街から一刻も早く離れたい。
目指すは――東京だ。
これ以上あのふたりを見たくない。一緒にいたくない。
頭の中でぐちゃぐちゃに入り混じった本音は、誰にも聞かせるわけにはいかないもので。
胸の奥から溢れそうになっていた言葉を、グッと喉の奥に飲み込んだ。
きっと永遠に口にすることはないだろう。そう思った。
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