第7話 過去編 風祭との別離

 あの『天城 透あまぎ とおる』が泣いていた。

 ミニマムながら、いつも背筋を伸ばして胸を張って、凛として威勢がいい。

 誰が呼び始めたのかは定かではないが、彼女につけられたあだ名は『小さな巨人』という厳ついモノで。

 女子の呼び方としてはどうかと思わなくはないけれど、校内の誰に聞いても同じような印象を抱いているに違いなくて。その証拠に下は一年生から上は三年生まで、挙句の果てには教師にまで『小さな巨人』のふたつ名はすっかり定着してしまっている。誰も本人に面と向かって言わないのは、怒らせると怖いから。

 そんな彼女が泣いていた。

 嘘はついていないし、話を盛ってもいない。

 篤志あつしが見たありのままの事実を聞かされて、涙の原因である彼氏こと『風祭 優吾かざまつり ゆうご』は驚きのあまり絶句していた。

 この様子では、彼女は彼氏である風祭の前でも涙を見せることはなかったのだろう。

 すっかり固まってしまった風祭の姿を見て、篤志はほんの少しだけ溜飲を下げた。

 風祭はすっかり動転してオロオロとしている。

『自分で招いたことなのに無様だな』とまでは言わなかった。

 同じ男として、ほんのわずかでも同情心を抱いたのかもしれない。

 自分の知らないところで他の男に泣きついていたなんて、情けないにも程がある。

 校内一のカリスマの割には、率直に言ってメチャクチャカッコ悪かった。


「う、うそだろ? あの透が泣いてたなんて」


「うそじゃねーよ。お前の噂を聞いて泣いてたよ。あと、なんか見てたみたいだけど」


「噂って……そんなことであいつが泣くかよ。むしろ直接怒鳴り込んでくるところだろうが!」


 風祭が逆ギレした。まったくもってお門違いもいいところである。

 何で自分が怒られなきゃならんのだと内心で憤慨したものの、同時に目の前の男の言い分も理解できないわけではない。

 篤志だって自分の目で見ていなければ、きっと風祭と似たり寄ったりの反応をしたに違いない。

 良くも悪くも『天城 透』とはそう言う少女なのだ。いや、彼女が悪いわけではないのだが。あくまでイメージがそんな感じというだけで。


「風祭、お前さ……透さんの何が不満だったんだ?」


 聞きたかったことをそのまま口にした。

 あれだけ可愛くて真面目な彼女がいて、何でほかの女に目移りするのか。

 年齢=彼女いない歴であり、浮いた話のひとつもない男のやっかみだと自覚はあったが、尋ねずにはいられなかった。


「……不満なんてない。て言うか、勘違いだっての。あいつとは別に浮気なんかじゃないし」


「俺やお前がどう思うかなんて関係ないだろ。透さんからどう言うふうに見えてるかが問題なわけでさ」


 風祭の言い草が無性に癇に障って、ついついキツイ物言いになる。

 少なくとも土曜日に見た風祭達の姿を見る限りでは、デートしているようにしか解釈できなかった。  

 そう思わせるほどの嫌な説得力があった。

 あの調子で日常的に無意識に似たりよったりな振る舞いを続けていたら、あらぬ誤解を受けるのも無理はない。篤志に限らず透に限らず、きっと学内のほかの生徒も同じだろう。

 そうして醸成された空気の中で、どれほど透が居た堪れない日々を過ごしてきたことか。

 風祭はその辺が全然わかっていない。

 漫画やラノベでも早々お目にかからないほどの鈍感キャラっぷりだ。


「いや……でも、俺は男子バスケ部のキャプテンで、あいつは女子バスケ部のキャプテンなんだ。キャプテン同士で何もしゃべらないってわけには行かないだろう」


「そりゃまぁ、そうだろうけどよ」


 彼女がいるのだから、他の女性と話してはならない。

 これではいくらなんでも厳しすぎる。日常生活に支障をきたしかねない。

 そんなことは言われなくともわかっているし、透はそこまで極端に束縛してくるタイプではない。

 ふとした拍子にすとーんと表情が抜け落ちたり、瞳からハイライトが消失したり。そこまで極端にヤンデレを拗らしているわけでもない。篤志から見た彼女の言動はあくまで常識的な範囲にとどまっている。このまま風祭が好き勝手やらかしたら今後どうなるかは保証できないが、それは置いておく。


「お前さ、透さんとちゃんと話をしろよ」


「それは……俺はそんなに悪いことをしたか? 透を傷つけたか?」


「だから俺じゃなくて本人に聞けって。いいか悪いかなんて知らねーし」


 事ここに至ってなお自分本位な疑問符を並べ立てる風祭に、呆れを通り越した感情を抱かずにはいられない。

 透と風祭が交際していると言う話が学校中に広まっていたのは、ずいぶん前からだったと記憶している。篤志が一年生のころには、このふたりはそういう関係として認識されていた。透とは三年間ずっと同じクラスだったから、噂がそれとなく耳に入ってきたことを覚えている。透たちは仲睦まじく校内のベストカップルと裏では呼ばれていたことも事実だった。

 ふたりとも人気者で、周りには男女を問わず多くの人間が集まる人種だ。中には透を慕う男子もいるだろうし、風祭に想いを寄せる女子だっているだろう。にも拘らず喧嘩をしたとか破局の危機とか、そんな不吉な話は今まで聞いたことがない。

 つまり、今回は特別なのだ。

 これまでとは話が違うのだ。

 状況を俯瞰してみれば、透が嫉妬のあまり腹にすえかねた……と言うよりも、風祭が限度を超えていたと考える方が無理がない。誰が見ても同じ結論を出すに違いない。当の本人たちを除いては。


――何で俺がこんなことを……って、もう今さらか。


 ため息のひとつもつきたくなる。

 本来ならばこの手の話題は本人同士が腹を割って話し合った方がいい。

 他人が余計なお節介を焼いたら、却ってロクなことにならない。

 ……つい今しがた、思い知らされた。

 それでも言わざるを得なかった。自然と口調に熱がこもるのを止められなかった。


「お前がしっかりしてくんねーと困るんだよ」


 透が、そして篤志が。

 この件に関わり始めてから、胸の奥にモヤモヤした感情をずっと抱いている。

 正直に言えば、あまり愉快な気分ではない。


「……今は部活に集中したいんだ。ここで部内にトラブルを持ち込めない」


「女子バスケ部と揉めたくないってか? その分だけ透さんに負担をかけるのか?」


「あいつならわかってくれる」


「随分と都合のいい話に聞こえるがな」


 自信に満ちた風祭の言葉に、ついつい皮肉が口をついてしまった。

 その反面、透なら風祭を許すだろうと心の中ではため息をついていた。

 彼女が風祭に抱く恋心は本物で、その風祭に頭を下げられたら意地を押し通すことはしないはずだ。

 ただ……ひょっとしたら『これまでもそうやってストレスを溜めてきたのでは?』と言う危惧はあった。透は基本的に我慢強い性分だ。さんざん好き勝手やってきた篤志に根気強く説教を繰り返してきたらしいことからも見て取れる。

 そんな透が限界を超えた。

 その事実はもっと重く見てしかるべきではないか。

 風祭も、透自身も。


「透さんには頭を下げて、あの女と距離を置く方がいいんじゃねーの?」


「それができたら苦労はないって言ってるだろう」


「ちょっとは苦労しろよ」


「帰宅部のお前にはわからないだろうが、この時期は大変なんだ」


 喉元まで出かかった言葉を飲み込もうとして失敗した。

 対する風祭の反論にイラついたが、帰宅部でフラフラしている篤志とバスケ部のキャプテンである風祭では、根本的に物の見方が違う可能性がある。

 高校最後の大会を前にして、チーム内に不和の種を育てる羽目になるのは望ましくないという意見も否定し難い。風祭と件の女子はともかく、他の部員にしてみたら、とんだとばっちりだ。


「それ、透さんに言う気か?」


「言わないと、あいつずっと機嫌悪いままだろ」


「……」


 言っても機嫌は良くならないと思った。

 表向きはどうにか取り繕うだろうけれど。

『許してくれ』と言われて『許さない』とは言わない。

 ましてやバスケ部のことを持ち出されては、尚更強くは出られない。

 透はきっと笑顔で許して、裏で泣く。

 泣き笑う彼女の顔が目に浮かぶようだ。想像するだけで腹が立ってくる。

 それは問題の先送りに過ぎず、根本的な解決にはならない。


「なぁ、透さんかバスケかどっちかに絞れないのか?」


「……」


 度を越えたお節介な言葉に返事はなかった。

 ここまで頑なになられると、篤志では風祭を押し切ることは難しい。

 透と風祭が培ってきた関係とバスケ部内の問題。

 対する篤志は帰宅部で部外者だ。

 風祭の言い分が通るだろう。歯がゆくて、悔しかった。


──いっそのこと、透さんと思いっきり喧嘩して……それで……


『別れてしまえばいいのに』なんて悪辣な思考が脳裏をよぎった。

 きっとそうはならないだろうとも思った。

 透は何だかんだで風祭を受け入れる。確信があった。


「とにかく、俺は忠告はしたからな」


「ああ、悪かったな」


「それじゃ、もう行くわ。お前もせいぜい部活頑張れよ」


「言われるまでもない」


 そう言って去って行く風祭の背中に、唾を吐きかけてやりたくなった。

 無性に腹が立つ。生まれてこの方全く覚えにない類の苛立ちを覚える。


「なんなんだよ、ちくしょー!」


 誰もいなくなった体育館裏で空を仰いで叫んだ。

 吠えたところで、答えてくれる者はいなかった。

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