第3話 過去編『大久保 篤志』
「ふあ〜〜〜〜っ」
目蓋を開けても視界は暗かった。
顔に重みが被さっていた。安っぽいザラザラの質感。紙とインクのにおい。
のそりと上体を持ち上げると、顔に被せていた雑誌が落ちた。
今日発売の週刊漫画雑誌だ。ひと通り目を通した後、アイマスクの代わりに使っていた。
見上げた空は青かった。
季節は夏。空を見ても時間はいまいちピンとこない。
「あいたたた、今、何時だ?」
硬い床で眠っていたせいか、全身が痛みを発している。
一応日陰に隠れていたつもりだったが、太陽が傾いたせいか日向に放り出されていた。おかげで全身が汗で粘ついていて、ひどく不快だった。
ゴキゴキと首を鳴らし、ポケットからスマートフォンを取り出し、時間をチェック。
表示された数字をぼんやり眺め、ポツリとひと言。
「やべ、寝過ごした」
ヤバいと口にしながらも、当の
表向きのリアクションは額を抑えて空を仰ぎ、軽くため息をついただけ。
再び大きくあくびをしながら身体を伸ばし、立ち上がって埃を払う。
コンビニで雑誌と一緒にパンを買って、昼休みにこの屋上で腹を満たした。
そのまま漫画を読み耽っていると眠気が襲ってきて、現在に至る。
「午後の授業サボっちまったが……まぁいいか」
誰も聞いていない言い訳を呟いた。
ほとんど皆勤賞レベルで登校してはいるものの、学校の授業に興味が持てなかった。サボりも別に初めてでもない。
興味が持てないからやる気も出なくて、成績は低空飛行を続けている。
かろうじて危険水域──赤点に落ちることは回避しているものの、このままでは墜落する可能性は十分にありえる。
それでも、どうにも気が乗らない。頑張って勉強して、それで何になるのかという疑念が頭から離れない。高校三年生なのに今さら何を言っているのかと怒られてしまいそうだ。両親からはメチャクチャ怒られている。曰く『危機感が足りなさすぎる』とのこと。
ほかの生徒はとっくに進路を定めて勉学に励んでいた。この学校の卒業生の大半は大学へ進学する。篤志も進路希望調査にはそう書いた。書きはしたがやる気は出ない。
『では、どうするのか?』と問われると、それはそれで口籠ってしまうのだが……
閑話休題。
しばしの思案というか現実逃避というか、とにかくそういう曖昧な時間を経た末に、とりあえず篤志は教室に向かう事にした。
授業をサボったことはどうでもいいが、荷物は持って帰らなければならない。体育の授業では汗をかいた。体操服を持って帰らないと、この季節はヤバいことになる。こちらは割と深刻だった。
「こんな事なら、何も持ってこないほうがいいんじゃねーのかって話」
その場合、体育の授業はサボりになるが……まぁ、体育をサボって怒るのは体育教師だけなので構うまいと独り言ちる。
雑誌を脇に挟んで屋上を後にした篤志は、手抜きの極致じみたことを口にしながら教室に向かった。
放課後の学校には多くの生徒が残っている。
特に理由もなく仲良く談笑している生徒も要るにはいるが、大半は部活動に参加する生徒たちだ。
──何であんなに頑張れるのかねぇ?
その疑問を口に出すことはなかった。
しかし、心からの疑問でもあった。
勉強とか部活とか、そんなに熱心になってどうすんの?
この学校は進学校ではあったが、有名国立大学に生徒を押し込むほどではない。
この学校は部活動も盛んだが、どれもこれも全国レベルではない。
何らかの道で卒業生が大成したなんて話も聞かない。
進路だ将来だと騒いだところで、高校でのアレコレなんて未来に繋がらない。
だから――頑張ることに意味を感じない。
そう嗤おうとして、嗤えなかった。
意味の有る無しを語るなら、他人のことは言えないと思い至ったからだ。
何もせずに燻っている分、自分の方がダサいという自覚はあった。
でも、そこまでだ。それ以上踏み込むことはない。
胸の奥に巣食っているモヤモヤした闇を直視することは極めて煩わしく、大して上手くもない鼻歌で誤魔化した。
そうこうしているうちに辿り着いた教室のドアに手をかけて──
「お?」
ドアを横開きにするのは一時停止。咄嗟に身を隠した。
窓越しに人影が見えたから。
女子だ。小柄な女子。
──うげ。
ただ小柄な女子というだけなら珍しくはない。
その女子は──とてもとてもとても小柄だった。
外を向いている。どうやらグラウンドを見ているようだった。
だから、今はまだ、彼女は篤志に気が付いていない。
あまりにも特徴的なシルエットゆえに、正体を見間違えることはない。
いっそのこと回れ右して昇降口に向かおうか。そんな誘惑が脳裏をよぎった。体操服は明日回収すればいい。体育はないし、においは我慢すればいい。
いきなり宗旨替えしたことには理由があった。
率直に言ってしまえば、篤志はその女子が苦手だったのだ。
放課後の教室でふたりきりなんて、できれば勘弁願いたかった。
その願いは、残念な事に叶わなかった。
逃げようと決心するより早く、件の女子が振り返ったからだ。
「「え?」」
間抜けな声が重なった。
篤志の声と、少女の声。
繰り返しになるが、その少女は特徴的なシルエットを備えていた。
あまりボリュームのない黒髪を後ろでポニーテールに束ねていた。
顔立ちは整っているが……背は低く、全体的に発育が残念だった。
制服を着ていなければ中学生、下手をしたら小学生に見られることもあると噂で聞いた。
『
クラス委員長。
真面目で真面目で、クソ真面目。
委員長として生まれ、委員長として育ち、これからも委員長であり続ける。
そんな未来がありありと想像できてしまう、そういう女子だった。
なぜ眼鏡をかけていないのだろうと真顔で疑問に思うほどに、彼女は委員長だった。
ゆえに、授業を寝過ごしても『まぁ、いいか』のひと言で済ませる篤志とは根本的に相性が悪い。
顔を合わせるなり『宿題をさっさと出しなさい』だとか『掃除を手伝いなさい』だとか『ちゃんと授業に出なさい』だとか、お小言を頂戴する。
なりは小さくても、いつも胸を張って堂々としているせいか、彼女はとても大きく見える。『小さな巨人』なんてあだ名が陰で囁かれているほどなので、篤志だけが苦手意識から錯覚に囚われているわけではない。
そんな透の、凜とした輝きを宿している瞳が潤んでいる。
泣いていると気が付いた瞬間、篤志と透の目と目が合ってしまった。
「……」
「……」
物凄く居心地が悪かった。
こめかみから流れ落ちた汗が床に落下する音すら聞こえてきそうな静寂があった。
外からは運動部の掛け声と校内に散った吹奏楽部員が方々でかき鳴らす音の断片と、カラスの鳴き声が入り混じって聞こえてきたが、室内の沈黙はそのすべてを無効化した。
「あ……あの……」
透の掠れた声が耳朶を打った。
弱々しい、消えてしまいそうな声。
いつも凄烈に『
篤志はため息をつこうとして、やめた。
『大久保 篤志』は『天城 透』が苦手だ。
ただひたすらに苦手だ。もはや天敵と呼んでも差し支えない。
それでも──篤志は男で、透は女の子だ。
泣いている女の子を見過ごして帰るとか、ため息をつくとか、それは男のすることじゃない。
何ひとつ人に誇るもののない篤志にだって矜持がある。
古臭いと言われるかもしれないが、譲れないものがある。
だから──後頭部をガリガリと掻いて、意識して殊更に軽薄な声をかける。
「透さん、どうしたの?」
びくりと身体を震わせた透は、ほんの一瞬だけ視線を逸らせた。
その瞳の向かう先は窓の外、ついさっきまで見ていたグラウンド。
──なるほどなぁ……見ちまったのか。
僅かな仕草で察してしまった。
『天城 透』と彼女を取り巻く人間関係と。
ここ最近校内で密やかに囁かれている噂と。
あれこれ推測を重ねて仕舞えば、おおよその見当がついてしまった。
『天城 透』は、現在、少々とは言えない厄介ごとを抱えている。
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