紅百合亭の再開は常連客に大変喜ばれ、たくさんの人で埋め尽くされた。


 その中にはルインの軟弱ぶりをなじろうときた破廉恥も多かったが、客のほとんどは北エルレードの者たち。少しでもルインを貶そうものなら数人で囲み、死なない程度に制裁を食らわして店の外に放り出してやった。


 当然のごとく死なない程度に制裁を受けた者らは警備隊へと訴えるが、このオルディア侯爵領区でルインを捕まえようとする警備隊はいない。モロリム大侯爵からもルインの名誉を全力で守れと命じられている。だから少々の、いや、死人が出ない限りルインの身は保証され、破廉恥どもの訴えは却下されることになっていた。


 常連客や警備隊に守れる日々が過ぎ、一月もすればいつものお茶と踊りを楽しむ者らの憩いの場所となっていた。


 厨房や給仕を手伝っていたルインも少しずつ娘らに任せていき、自分の城を再建していった。


「ルインさま。味見をお願いします」


 再建途中の城で読書していると、新しく厨房長となったシトリーが盆に茶器を乗せてやってきた。


 ミルラと同じく十八歳のシトリーは、まだここが酒場だった頃から働いていた娘で、ヘレアルがお茶を淹れるようになってからは料理を任されていた。ルインもその経験と腕を買って厨房長にしたのだが、誰よりもヘレアルを尊敬し、姉だと思っていたシトリーは、お茶も自分が継ぐといってルインに師事を受けているのだ。


「今日はなんだい?」


「黒茶です」


 差し出された茶器を受け取り、一口啜った。


「不合格。豆を焦がしすぎるし、お湯の温度も高すぎる」


 いって茶器をシトリーに返した。


 ルインの厳しい口調にシトリーは無言で頷き、茶器を持って厨房に戻った。


 別にシトリーは落ち込んだわけではない。怒ったわけでもない。ルインにいわれたことを反芻し、どこが悪かったか、次はどうすれば良いかを考える余り反応が少なかっただけである。


 ルインもそれを知るからなにもいわないし、曖昧な評価をすることはしなかった。


「兄さん」


 読書の続きをしようとしたら副店主となったミルラがやってきた。


 ミルラに目を向けるかミルラはなにもいわない。なぜか困惑した顔を店内に向けたのだった。


 その先にあるものに目を向けると、お忍び姿のルクアートの公女さまが立っていた。


 その両脇にはマーベラスとニックスが控えており、ルインがこちらを認識すると一礼した。


「や、これはこれは、良くいらっしゃってくださいました」


 ルインは急いで立ち上がることはせず、まず本を卓に置き、ゆっくりと長椅子から立ち上がってお忍びの公女に軽く一礼した。


「いえ、本来ならもっと早くくるべきでしたのに、本当に申し訳ありませんでした」


 頭を下げる公女にルインは笑った。


 直ぐこられてもウージュの名代として葬儀を仕切っていたルインに公女の相手をしている暇はなかったし、公女の訪問でさらに見聞紙を賑わせてしまう。下々の事情を知っていなければできない配慮である。


「とんでもありません。そのご配慮だけで充分です。ありがとうございました」


 見ていた護衛の騎士たちは、その心の籠った一礼に感嘆とした。


 あのときと同様にこの男に揺らぎがなく、誰の前だろうと毅然としていた。


 とても二〇歳の青年が出せる貫禄ではないし、地方貴族に出せる態度でもない。真似しろといわれても真似できるものではなかった。


「兄さん。こちらの方から荷馬車いっぱいの茶葉と果物を頂いたんだけど……」


 アルアから呼び出され、この少女の身分を聞いたミルラだったが、義兄が名をいわないことに気がついて身分で呼ぶことは避けた。


「お気遣い、ありがとうございます」


 それ以上のことはなにもいわず、公女を自分の城に招いた。


 護衛の騎士たちは近くの席を用意し、ミルラにお茶と菓子を出すように指示すると、ルインは『少々お待ちください』といって厨房に向かった。


 しばらくしてルク茶と青林檎の焼き菓子を運んできて公女に勧め、公女は湯気たつルク茶の香りを楽しんでから一口含んだ。


「……さすが、です。口の中で広がる香りがとても爽やかです。葉の良さ、淹れ具合、見事しかいいようがありませんわ」


 ルインに批評されてから男爵夫人に手解きを受けたが、まだまだルインの域には程遠いものだった。


 公女の批評にルインは微笑むだけでなにもいわなかった。


「……毎日通いたくなる美味しさです」


「以前のような味はもう出せませんが、こんな味で良ければいつでもお越しください」


「はい。では遠慮なく」


 その言葉通り、公女はほぼ毎日のように紅百合亭へと通い、お茶とルインとの会話を楽しんだ。


 いつものように昼過ぎ頃に現れた公女は、店の前を掃除していたミルラに気さくに挨拶を送った。


「あら、今日はアルアだけなの?」


 日に寄って違うが、必ず二人はついていた。


「ええ。今日は天気が良いからアルアに乗馬を教わっていたの」


 手綱をアルアへと渡し、愛馬を優しく撫でてやった。


 とても公女の言葉ではなかったし、公女の振舞いではなかった。


 この風変わりな公女は身分で人を見ない。見下したりはしない。自分と同等に見て同等に接してくる。だからミルラも身分で見ない。偏見もしない。友達のように接し、他の常連客のような態度を取っていた。


「乗馬か~。久しぶりに遠乗りしたいな~」


「ミルラも馬に乗るの?」


「田舎にいた頃は毎日のように乗ってたわ」


 そんな会話をしながらルインの城へと赴いた。


「今日はなにを読んでいますの?」


 楽しそうに本を読むルインに尋ねながら向かいの席に座った。


 もはや勝手知ったる他人の我が家であった。


「シェリザール著、ウロボロスの太陽です」


「なにかの物語ですか?」


「はい。ウロボロス諸島を支配する翼人ハピタル族の歴史を元に描かれた幻想記です」


 ルインが淹れてくれたお茶を楽しみながらあらすじを聞いていると、裏からレギニーがやってきた。


「ルインさま。コギーがきました」


「わかった。部屋に通しててくれ」


 はいといってレギニーは出ていった。


「申し訳ありません。客がきたので失礼します」


 公女もそろそろ帰る時間なのでルインに挨拶をして紅百合亭をあとにした。


 その日はなにも思わなかったが、その光景を三度も見ると疑問が浮かんできた。


 とはいえ、ルインの交遊関係は様々。街の浮浪児から自分のような者までいる。だから質問するまでにはいたらなかったが、それを偶然重なったアルアはとても不思議そいにしていた。


 そのことを主に尋ねてみた。


「どうしてそう思ったの?」


 逆に問われたアルアは下を向いて考え込んだ。


「……以前、ルインどのにお世話になったとき、ルインどのの部屋を見ましたが、あそこは部屋というより物置場でした。本人もあの部屋に行くのは滅多にないといってました。なによりルインどのの部屋はあの一角です」


 確かにと思いながらも口にはせず、自分がいたからではないかと問うてみた。


「ルインどのを尊敬する人に身分を持ち出す人はいません」


 まったくもってその通りである。


 それから公女はルインの行動や言動に心がけた。


 それから五日過ぎた頃、公女はとある変化に気がついた。壁に貼られた帝都の地図に色画鋲が、初めてきたときより増えていたのだ。


 初めてきたときもこの地図のことが話題になった。帝都探索が趣味でいったところに印をつけているといってたが、ここの主が死んでからルインはここから動いてはいない。いや、毎日きている訳ではないし短い時間しかここにはいないが、ルインの愛馬は聖獣ケウロン。その脚は一日で千リグを駆けるという。出掛けることは可能である。


「シリルはどこにもいっていません」


「どうしてわかるのだ?」


 今日の護衛担当のアスファルがアルアに問うた。


「本人は出掛けているといってましたが、表情は不満でいっぱいでした」


 加護持ちのアルアでなければいえない台詞である。


「やはり、ルインどのは復讐を考えているのでしょうか? だとしたらあの色画鋲にいったいなんの意味があるんでしょうか?」


 そう問われても公女には答えられない。


 あの人は深慮遠謀だ。他人と違うところで思考する。そんな人の行動などわかるはずもない。見抜けという方が悪い。


 ……亡くなった方には申し訳ありませんが、こんなに明日が待ち遠しいなんて生まれて初めてだわ……。


 公女は年相応に、偽りのない心で笑った。

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