3
アルアを見送り、四杯ほどお茶を楽しんでから店を出た。
途中、シリルと合流し、陽が傾くまで街を探索し、その日はメログリア侯爵領区でも有名な高級宿に宿泊した。
何事もなく朝を迎え、朝食とお茶を心いくまで堪能してから昨日の探索の続きを開始した。
衣食住が充実したルインには店の中に入ってまで見たいものはなかったが、本屋だけは違った。
坂道を転げ落ちるように、本屋へと入ったルインは、棚から棚へと渡り歩き、興味を惹いた本を片っ端しらから読み出した。
時間を忘れて読み耽っていると、腹の虫が抗議の声を上げた。
「……もう昼か……」
一食二食抜いたくらいで参る体ではなかったが、食後のお茶を抜きにできる精神力はなかった。
感性に訴えてきた本を全て買い、店の外に出ると、散歩に飽きたシリルがちょうど帰ってきたところだった。
そのまま通りを進むが、どういうわけだか食堂がなかった。こっちではないのかと通りを戻るが、やはり食堂がなかった。それどころか茶屋すらなかった。
たまたま通り掛かった紳士に尋ねると、ここの食堂は予約制で一見さんはお断りのことだった。茶屋も香麓亭に挑むような剛の者はいないとのことだった。
ないとなると余計に飲みたくなるのが人というもの。中毒患者のように体が震え出し、シリルに跨がり香麓亭に向かわせた。
あっという間に香麓亭に到着したルインは、馬番の者に構わず、本を一冊だけ持って店に突っ込んでいった。
品書きを出す前にルク茶を注文するルインを見た主は、給仕の一人になにかを囁いてから奇蹟の手といわれた技を使ってルインのためにお茶を淹れた。
「お待たせいたしました」
主自ら運んできたことに驚いたが、この禁断症状を止めるのが先と、ルク茶を口にした。
口いっぱいに広がる爽やかな甘み。それは生命の源かと思うくらいの美味しさだった。
「……これぞ命の水だ……」
大袈裟なことだが、ルインにとってはこれが全てだった。
「いや、この感激は初めてルク茶を飲んだ以来ですよ。さすが店を任せられるだけはありますね」
「こんな拙い腕で淹れるお茶で良ければもう一杯いかがでしょうか?」
「ぜひとも!」
厨房へと下がり、今度はゆっくりルク茶を淹れ、今日のお薦めの林檎の焼き菓子を添えて出した。
「菓子長自慢の林檎の重ね焼きでございます」
頼んでない品に、ルインは首を傾げた。
「お茶を愛するお客様への特別優遇でございます」
「……特別優遇、ですか。さすが有名処は違いますね。客の心をつかむのがお上手だ」
ルインの笑みに主は営業用の笑みで応えた。
「では、ごゆるりと」
茶器を掲げて主に一礼した。
店の、いや、主の心遣いに応えるべくお茶を楽しみ、焼き菓子を堪能した。
新たに黒茶を注文し、六杯目を飲んだところ、五十代半ばの婦人が香麓亭にやってきた。
それに気が付いた主は、歓迎の笑みを浮かべ、ルインが座る席へと目を向けた。
婦人は軽くお辞儀し、その席へと向かった。
「……相席、よろしいかしら?」
茶瓶から七杯目を注いでいたルインは、注ぐ手を止めて目を向けた。
身なりは地味だが、その身からは隠しても隠し切れない品の良さと、優しい瞳からは賢さと意志の強い光を輝かせていた。
「喜んで」
席へと着いた婦人は、なにかを注文することなく、ただ黙ってルインを見詰めていた。
沈黙が支配する中、主が現れ、婦人に東方茶を置いて直ぐに立ち去った。
なんの会話もなく、目の前に誰もいないかのように二人はお茶を楽しんだ。
やがて二人の茶器からお茶がなくなり、まず婦人が茶器を置き、やや遅れてルインも茶器を置いた。
可笑しそうに笑うルインと婦人。先に言葉を紡いだのはルインからだった。
「良い少年でしょう」
「はい。貴方が味方したくなるのも頷けますわ」
婦人の答えに肩を竦め、卓に置いていた一冊の本とペンを婦人に差し出した。
「知人に貴女の愛好者がいましてね、ぜひ名をいただけませんか?」
ルインの行動に婦人──ララシー・カルント男爵夫人は静かに笑い、本に名を贈った。
「わたしがくると、良くおわかりになりましたね?」
本とペンを返しながら尋ねた。
「手紙にお茶が好きと書いてありましたからね」
「それだけで?」
「あとは、貴女の本を読んでの印象からですかね」
ココア・クレメール夫人は、とても好奇心が強く、とても人が好きな方なんだろうと見ていた。
正にそんな人物だったようで、子供のように目を輝かせていた。
「それがわかってて良くきましたこと」
「“未熟„で“青い„わたしなは、この誘惑に勝てませんでしたからね」
未熟で青いを強調していたが、男爵夫人はそれを軽く流した。
本当に賢い人は自分の才能を隠す。そう簡単に能力を見せたりはしない。才能があればあるほど、自分を低く見せ、謙虚に出るのだ。
「実は、貴方に会いに行ったことがありますの。それも二度……」
ルインは目を大きくして驚いた。
「でも、機会が悪くどちらも不在で会えませんでしたわ」
「それは失礼しました。なにものにも縛られず、思ったときに思ったことをするのが信条なものでして」
「そのようですわね。あの綺麗なご主人もそういってましたわ」
「いや、自分でもなんて“子供„なんだろうと思いますよ」
そんな可笑しな抵抗をするルインに男爵夫人はクスクス笑った。
……確かに子供っぽいところはあるけど、それで逃げられると思っているのかしら……?
ルインも逃げられるとは思ってなかった。ここにきた時点で負けているのだ。素直に認めた方か楽だともわかっている。わかっているのになぜしないか。それはたんにいきたくないからだ。
ある意味子供なのだが、いや、子供だから駄々をこねるのだ。
人生の先輩として、女性として、ルインの心情を読み取った男爵夫人は、それはそれは優しい笑みを浮かべた。
それは完全武装した百人もの聖騎士に囲まれたような、まったく隙がないものだった。
「ルイン・カークどの。これもなにかの縁。我が自慢の乙女を見て頂けませんか?」
その目には『女性の招待を断る程無粋ではありませんわよね?』と語っていた。
嫌なものは嫌といえるルインだったが、生憎女性に恥をかかせるほど勇気がある男ではなかった。
それでも最後の抵抗とばかりに嬉しそうに笑った。
「喜んでココア・クレメール夫人の乙女たちを、拝見させていただきましょう」
そこ以外には絶対に行かないぞとの意志表明であった。
……本当。似たような人っているものなのね……。
一人の少女を思い浮かべ、男爵夫人は心の中で苦笑した。
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