思考から目覚めると、目の前にいたアルアが消えていた。


 しばし宙を見詰め、辺りへと泳がせた。


 しっとりとした音楽が奏でられ、男女らが一組になって踊っていた。


 ……またやってしまったか……。


 顔をピシャリと叩いて自分の癖に恥じ入った。


 昔から思考癖はあったが、帝都にきて、いや、旅に出てから酷くなる一方だった。


 沢山の出会いと大量の知識、未知なる世界に触れる度に自分の世界が小さいことを思い知らせれた。全てを手に入れようと集中してしまうのだ。


 そんな自分を冷静に分析できるのだが、それを改善する方法を見つけようとは思わなかった。


「……考えるのが好きというのも変な性格しているな……」


 何気なく視界に入った茶瓶へと手を伸ばし、横にある茶器に注ぐ。


 薫り立つルク茶を鼻腔で楽しみ、堪能してから味を楽しんだ。


 渋味の中にある微かな甘味が霞んだ頭をすっきりさせてくれた。


 ……思考の後のこの一杯。最高だね……。


 全てを飲み干し、もう一杯注いだ。


 二杯目を飲もうとして、ふっと気が付く。


 当然のように温かいルク茶を飲んでるが、思考に入る前は黒茶を飲んでいたはずだ。


 茶瓶を触ると、今まさに飲み頃な温度であった。


 それが当然のようにあったから気にしなかったが、いつも思考から覚めるとルク茶が置かれていた。


 数種類あるお茶の中で一番好きなのはルク茶だが、そのルク茶を知ったのは帝都にきてから。この一角に座ってからだ。それまでは一般的な黒茶を飲み、自分で淹れていた。


 茶器から店内へと視線が移り、アルアと踊るへレアルで停止した。


 ……ほんと、凄い人だよ……。


 勘の鋭い人だとは思ってはいたが、自分の癖や嗜好を完璧に把握し、ちょうど良い頃合いを見極める能力があるとは今の今まで気がつかなかった。


「その上、努力家で研究家とくれば大きくなるのも当然か」


 へレアルは自分のお陰だとはいうが、自分がしたのはちょっとした助言と少しの雑用。紅百合亭をここまで大きくしたのはへレアルの力である。


 ……とはいえ、そろそろ夜を任せられる人を探さないと体を壊してしまうな……。


 演奏が終わり、踊っていたアルアとへレアルが戻ってきた。


 頬を赤らめたアルアが、ルインの視線に気が付き、ちょっと照れ臭そうに笑った。


「なかなか堂に入った踊りをするね。思わず見とれてしまったよ」


「そ、そんな、踊り好きな姉から手ほどきされたていどですよ!」


「ならば良い腕を持った姉上のようだ」


「ええ。女性の心を熟知した動きでしたわ」


 二人に絶賛されてアルアの顔は真っ赤に染まった。


 踊りは剣の稽古と同じくらい好きだった。想像の中で踊った踊りが現実でもできたときは震えるくらい気持ちが良く、とても嬉しかった。


「故郷では家族や従姉妹たちとばかり踊ってたから……そういってもらうと嬉しいです!」


 目を輝かせるアルアを長椅子に座らせ、冷たいものを飲ませて落ち着かせた。


 しばらく踊りのことをしゃべっていたら、アルアの瞼が落ちてきた。


 若くて精力もあるが、長旅の上に泥酔。目覚めてから踊りでは疲れても当然。無理してはいけないと自分の部屋(倉庫)に下がらせた。


 やがて最後の曲が終わり、幸せな時間を楽しんだ紳士淑女たちが帰途についた。


 演奏者たちが楽器を片付け、夜専門の娘たちが掃除を始める。へレアルは厨房へと杯や食器を片付けるのを見て、ルインは厨房へと入り、食器を洗うへレアルの横に付いて洗い終わったものを拭き始めた。


 そんなルインにへレアルは苦笑するが、なにもいわずに洗い終わった食器を渡した。


 この時代、身分ある男性がこんな下働きのようなことするなどあり得なかった。


 そんなことをする貴族がいるのかと、給仕の娘たちも我が目を疑ったものだ。


 勇気ある娘が尋ねると、ルインは笑って答えてくれた。


「これも勉強。自分を律するための修行さ」


 娘は首を傾げるばかりである。


 会ったときから普通じゃないのはわかっていたが、これはもう普通とか普通じゃないとかの問題ではない。もう常識外の話であった。


 真っ先に尋ねたへレアルもそう思った。


 騎士として身分が低かった父も家事などしなかったし、母も家事などさせなかった。


 第一、騎士には騎士の、貴族には貴族の義務がある。領分がある。矜持があるのだ。


 もっとも、最近の貴族──いや、その子弟らの矜持といったら目を覆いたくなるくらい腐っていた。


 そこら辺を歩いている貴族の子弟に『家事をしたことはあるか?』などと聞いたら、まず間違いなく『なんだこいつは?』という目で見られ、次に侮辱されたと怒ることだろう。


 なのに、この人は進んで家事をする。料理の種類も自分の倍はでき、掃除といったら叩き上げの家政婦にも勝った。物置や戸棚を直すのも得意だし、草木の手入れなどその道うん十年の庭師を唸らせる程だ。シリルが住む園などまるで精霊が住む地である。


 なのに、この人は驕ることはない。自慢もしない。どんな賛辞にも動じることなく淡々と腕を磨いていた。


 もはや、貴族とか騎士とかという枠に収まる人ではない。もっとこう、聖職者のような、神さまの使徒のような、人を導くような立場にいるかのような人であった。


 ──いや、違うわ。


 この人は、神を信じる前に自分を信じる。人の上に立ち、神の言葉など伝えたりはしない。自分の意志で、自分の言葉で、自分の人生を歩んでいる人なのだ。


 そう理解したとき、死んだ父の姿が浮かび上がった。


 ……そうだ。我が道を歩む人なんだ……。


 身分が低く、小隊長止まりだったが、その人望で上からも下からも慕われていた。


 家柄でもなく役柄でもない。その行動で培われためのなのだ。


 ──人を見て我を思え。我を見て人を思え。


 それは父の口癖だった。


 家柄という鎧。役柄という剣。確かに必要で大事なものだ。だが、人の価値──その誇りを決めるのは家柄でもなければ役柄でもない。進もうとする自分自身にあるのだ。


 その頃は小さくてわからなかったが、これまでこの人が見せた行動をかえりみて、今やっとわかった。


 この人は自分自身を知っている。人が自分を見ていることを知っている。誇りを知っている。恥を知っている。努力を知っている。生きるということを知っている。そういう人だと知っているから自分たちはルインを尊敬し、この人に恥じない自分になりたいと願うのである。


「……なにか?」


「──いっ、いえ、すみません!」


 いつの間にかルインの横顔を見詰めていたようで、慌てて視線を外した。


 そんなへレアルに首を傾げながらも追求したりせず、また皿を拭き始めた。


 ルインの心遣いに感謝しながら脈打つ心臓を静めたへレアルは、皿洗いに集中しようとするが、まったく集中できなかった。


「……ルインさまは、どうして騎士にならないのですか?」


 それは秘めていた疑問。隠していた希望。この人を世間に自慢したい願望が思わず出てしまった。


 いってしまってから後悔の波が押し寄せてきて俯いてしまったが、ルインは振り向いたりはせず、答えたりもせず、そのまま皿を拭き続けた。


 重い沈黙が続いた後、ルインは静かに口を開いた。


「……へレアルさんは、ジャン・クーという騎士を知っていますか?」


 知っているもなにも帝都に住む──いや、帝国に住む者なら誰でも知っている有名人である。


 たくさんあるジャン・クーの叙事詩の中で一番有名なのはやはり帝都で起きた『魔術師反乱』だろう。


 冷遇されていた魔術師らが皇帝の暗殺を企てた。


 宮殿に核石弾かくせきだんを仕掛けた魔術師らは、近衛隊や守護騎士団を混乱させて皇帝が住む天星宮へと侵入した。


 皇帝を守る親衛隊を倒して皇帝の寝室へと進んだ魔術師たち。そこへ企てを知った奇蹟の姫と剣姫が立ちはだかるが、魔術師らの罠は巧妙で悪辣。どうすることもできず捕まってしまった。


 もはや絶体絶命というとき、奇蹟の姫に恩があるジャン・クーが助けに現れた。


 まだ十六だというのにジャン・クーの強さは凄まじく、この日のために用意した高等魔獣を倒すばかりか、数百もの術を習得した大魔術師をも倒してしまったのだ。


 その功により皇帝から破格の誘いを受けたが、『自分は騎士。良人おっとの意志を継いだだけである』と一蹴すりばかりか聖騎士の称号も拒んだという。


 自分も見聞紙を読んでウージュに聞かせたものだ。


「わたしが騎士にならないのは、いや、この生活を続けるのは、彼の人と戦い負けたからでしょうね」


 その衝撃的発言にへレアルは目を剥いた。


 ジャン・クーの強さは魔術だけではない。剣の腕も凄まじく、火竜の中でも最強の烈火竜れっかりゅうを一刀両断した話は有名である。


 最強とも無敵ともいわれるジャン・クーと戦い、こうして生きていることが信じられない。いや、それ以上に驚きなのはこの人がジャン・クーと戦ったことだ。


 ジャン・クーの剣は弱者を守るために振るわれる。決して私利私欲のために剣は抜かれはしない。抜かれるときは悪を斬るたきだけである。


 この人が悪なわけがない。嘘をいうわけがない。それは自分が良く知っている。


「……本当、なんですか……?」


 それでも受け入れられないへレアルは問い正した。


「嘘ならどれほど良いか。彼の人のことは今でも夢に出てきますよ」


「──なぜそんなバカなことを!?」


 思わず叫んでしまったへレアルだった。


 ジャン・クーに会ったこともなければ見たこともない。その強さも見聞紙から知っただけである。だが、魔術師反乱はこの帝都で起きたこと。全ての地区の警備隊が出動し、魔王の攻撃すら凌ぐといわれた天星宮を半壊させる程の人物である。戦いに素人でももジャン・クーの強さが並ではないことがわかるというものだ。


「まったくもって返す言葉もありません」


「──あ、いえ、も、申し訳ありません……」


 我に返ったへレアルが身を縮めて謝るが、ルインは咎めたりはせず、いつものように優しく笑って見せた。


「良いんですよ。実際、バカなことなんですから」


 アレをバカといわなければこの世にバカなと存在しない。ジャン・クーの噂は何度も耳にし、戦いの現場を二度も見たというのに。


「彼の人と出会うまで、わたしは誰にも負けなかった。どんな相手だろうと、どんな人数だろうと、わたしは勝ってきました。わたしわ苦しめる者はいなかった」


 この人を知らない人は、それを自慢話だと聞き流すことだろう。だが、この人を知る者なら聞き流すことなどしない。その言葉はこの人を知ることができる奇蹟のような話なのだから。


「そんな驕りに驕ったわたしは、噂の彼の人がどれ程のものかと興味を持ち、とある事件を利用して彼の人と対峙しました。苦労して一芝居打ったというのに、目の前の人物は見るからに貧弱で、とても汚ならしかった。本当に烈火竜を倒したのか? 本当に魔王の配下を倒したのか? その手に持つ枯れ枝は剣のつもりか? ジャン・クーを騙る偽者ではないか? もう罵倒しか出てきませんでした」


 あれほど醜い自分はいない。人生最大の汚点である。


「……剣を抜き、ジャン・クーに向けたとたん、剣先が地面に落ちました。衝撃はなかった。動きも見えなかった。ただ、バカみたいになくなった剣先を見詰めていました」


 あの一撃は今でも忘れない。どうしても脳裏から離れてくれない。あの哀しいまでの冷たい瞳がどうしても心から消えてくれないのだ……。


「我に返ったときは逃げていました。全力で、恥も外聞もなく、そこにある恐怖から離れたかった」


 あのまま茫然としていたら確実に自分は死んでいた。万が一のために用意した罠とシリルがなければ追い付かれて捕まっていたことだろう。


「反則に近い追撃から逃れ、助かったと理解したとたん、目と鼻と口からいろいろなものが吐き出されました。全身からは嫌な汗は噴き出すし、腰は抜けるし、泣くし、それはもう見せられない状況でしたよ」


 おどけて見せるルインだが、生憎笑い飛ばせる話ではなかった。


 固まってしまったへレアルからどこか違う世界に意識を向けるルイン。


「生まれて初めて知った死の恐怖。初めての敗北。今まで自分を支えていたものが粉々に崩れ落ちました。そんな泥沼を歩んでいるとき、わたしは一人の女性と出会いました。その女性は生命力に溢れ、とても優しく強い人でしたが、決して逃れることができない牢獄に閉じ込められ、救われない悲しみを抱いていました。それなのに、その女性はわたしを励ましてくれました。なにをしてると怒鳴ってくれました。堕ちたわたしを立ち上がらせてくれました。いつしかわたしはその女性を愛するようになりました。この女性を光の下へ導くと決めました。自分の持てる限りの力を使い、恐怖でしかないジャン・クーを巻き込み、愛する人のために戦いました。ですが、わたしは愛する人を救えなかった。救えないどころかわたしが救われる始末。息途絶えるそのときまでわたしを心配してくれ、わたしのために笑ってくれました」


 そこで言葉を切ったルインは、自分の両手を見た。未だに消えない愛する人の温もりが残る手を。


「彼女は強い人でした。自分の身の不幸を一度も口にせず、いつも笑って、いつも怒鳴って、前を向いていた。なのに、わたしは泣いてしまいました。恥も外聞もなく、ジャン・クーの前で泣いたんです」


 騙し、巻き込んだと怒って殺してくれたらどんなに救われたか。なのに、彼の人はなにもいわなかった。放心する自分を宿へと運び、そのまま立ち去ってしまった。


「……わたしは、彼の人の強さに、自分の弱さに負けたんです……」


 大きな壁の前で立ち竦む自分を嘲笑った。


「……挫けたんです……」


 その呟きはとても小さかったのに、とても重いものだった。


 この人の悲しみを理解してあげることは自分にはできない。その重いものを持ってあげることもできない。だが、なにかしてあげたかった。少しでも良いから心を軽くさせてあげたかった。だって、わたしはこの人の姉だから。帝都での母であるから。この人を愛しているから……。


 重苦しい沈黙の中、必死に考えたへレアルは、一番上の棚から一本の酒瓶を取り出し、ルインに掲げて見せた。


 その意味がわからないルインは、困惑顔でへレアルを見た。


「隠していた置いた宝石酒ですの。どうです。久しぶりに星見酒と洒落込みませんか?」


 その茶目っ気にルインの頬が自然と緩んだ。


「……はい。喜んでお付き合いさせていただきます……」


 横に誰かいてくれる喜び。誰かが自分を見てくれている温かさ。もう二度と人を愛さないと誓った自分がどれ程愚かだと教えてくれた人に感謝の笑顔を贈った。


 ……帝都にきて良かった。この人と出会えて本当に良かった……。

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