その曲は『黄昏の湖』という愛を奏でたものだった。


 良く舞踏会の中頃で奏でられ、愛の告白に用いられる曲でもあった。


 一度、兄に連れていってもらった公妃主催の舞踏会とは程遠く、円舞服も地味だが、そこで踊る人たちの表情は花のように輝き、心から踊りを楽しんでいるのがわかった。


「起きたりして大丈夫なのかい?」


 演奏者の見事な技に見とれていると、胸に銀糸で小剣をくわえた狐の顔を刺繍した、白い円舞服を纏った二十歳くらいの男性が現れた。


 一瞬、兄が現れたのかと思ったが、良く良く見れば兄とは全然違った。


 目の前の男性は兄程屈強ではないし、動きがとても優雅だ。醸し出す雰囲気など高貴としかいいようがなかった。


 ……なぜ、兄さまと見間違いしたんだろう……?


「その人がルインさまよ」


 案内してきたマオがそっと囁いた。


 茫然としていたアルアが慌てて表情を引き締め、直角になる程頭を下げた。


「こ、この度は助けていただきありがとうございましたっ! わたしは、アルア・ナジと申します!」


 その大げさ態度にルインは目を丸くした。


「あ、いや、良かった。元気そうで」


 アルアの肩をポンポンと叩いた。


「すまなかったね、マオ。あとは良いよ」


「はい。じゅあ、失礼します」


 小さくお辞儀して裏戸から出ていくマオを見送り、こちらへやってくるへレアルへと笑いかけた。


「彼に冷たい黒茶をお願いします。わたしには温かいものをお願いします」


 落ち着いた感じの円舞服を纏ったへレアルは、微笑みながら頷き、厨房へと入った。


「奥さまですか?」


 アルアの勘違いにルインは静かに笑った。


「そう見えたら光栄だが、あの方はこの紅百合亭の主だよ」


 自分の早とちりに顔を真っ赤にさせた。


「しっ、失礼しました! とてもお似合いだったもので……」


「気にしなくても良いよ。さあ」


 アルアをいつもの一角に招いた。


 勧められた長椅子へと腰を下ろしたアルアは、その奇妙な一角を見回した。


 背後の壁には謎の器具や謎の液体が入った小瓶が並べられ、ルインの背後にはたくさんの本やわけのわからないガラクタが積み重ねてあり、左手には都市の地図や絵が飾られ、天井には飛空船の模型や竜の模型がぶら下がっていた。


 ……なんだろう、この魔女の館のような一角は……?


 すぐそこでは円舞服を纏う紳士淑女たちが楽しそうに踊っているというのに、この一角だけがそれらを無視しているのだ。


 ……あちらからもここは見えているのに、どうして誰も気にしないのだろう……?


「すまないね、散らかってて」


「あ、いえ、その、そんなことは! 独特の雰囲気があって良いと思います」


 精一杯のお世辞だったが、悲しいかな表情と声がついてこなかった。


「良いんだよ。無理しなくとも。わたしもこの散らかりようには困っているからね」


 だったら片付けろよと冷静な自分が突っ込むが、この散らかりようが良いのだと堕落した自分が突っぱねるのだ。


「そうだ。自己紹介がまだだったね。わたしは、ルイン・カーク。この店の用心棒で雑用夫をしている者さ」


 ルインは場を和ませるために軽口をたたいたが、まっすぐ育ったアルアには通じなかった。


 その口調、その姿勢、その雰囲気。どれもが見事だった。


 兄も親衛騎士になる際、礼儀作法の難しさに愚痴を漏らし、文字通り血を吐く程練習してなんとか覚えたものだ。


 父だってここまで優雅にはできないだろう。


 騎士隊の隊長として公王さまの前に立ち、何度も舞踏会に招待されているが、父の動きは無骨としかいいようがなく、優雅とはほど遠かった。


 父を見て、兄の苦労を知る自分から見ても目の前の人は実に優雅がである。舞踏会の帰りだといわれても素直に信じられた。


「あ、あの、ルインさまは──」


「──さまはいらないよ。そんな大層な生まれではないし、大層な肩書きを持っているわけではない。地方貴族の三男坊で現在無職。それがわたしさ」


「ほ、本当ですかっ!?」


 アルアは思わず声を慌らげた。


 本当はどこかの国の王子だ、といわれた方が遥かに信じられるし、さまと付けた方がとても似合っていた。


「……君は、一人っ子かい?」


 本当だよとは敢えていわず、質問に質問で返した。


「い、いえ。兄と、姉が二人います」


「随分と賑やかだね」


「はい。父も母も子は宝。幸せの象徴というのが口癖でしたから」


「立派なご両親だ」


 ルインの笑顔にアルアは顔を赤らめた。


 ……不思議だ。この人にいわれると、とても誇らしく思えるや……。


「わたしも両親は尊敬しているし、自慢にも思っている。だが、両親の愛情程世間は貴族の次男や三男は愛してはくれない」


「…………」


 その言葉は痛い程理解している。


 自分もそうだ。父も母も大切な人だ。尊敬し、憧れ、身内であることを誇りに思う。


 だが、自分は次男。家を継ぐことはできないし、公国騎士団に入ることもできない。 


 父はそれが『次男の特権だ。好きに生きろ』というが、そう都合良く受け取ることはできなかった。もちろん、父や兄のような騎士になることを諦めたことはない。その努力も怠ったこともない。日々鍛練している。


「──だが、騎士になるには幾百もの競争相手と戦わなければならない。本当に自分は勝てるのだろうか」


 アルアの表情を見て、ルインがその押し隠した不安を代弁してやった。


 はっとして顔を上げると、ルインは悪戯っぽく笑った。


「帝都に一年もいるとね、君のような若者を良く見るんだよ」


 思わず他の道を探したらといいたくなるくらいたくさんいるのだ。


「帝都には親戚か知り合いてもいるのかい?」


「いえ、いません」


「では、宿泊先はどこに?」


「公国の宿舎に泊まろうかと……」


「公国の宿舎ね? 確か、この近くでルクアートの宿舎といえば……南か。どうやら反対側に連れてきてしまったようだ」


 ルインの言葉にアルアは驚いた。


「あ、あの、ど、とうしてぼく──いえ、わたしがルクアートの出身だと?」


 丁度そこにへレアルがお茶を運んできた。


「こちらのへレアルさんもルクアート出身でね。その腕輪でわかったんだよ」


 反射的にへレアルを見ると、なんとも大人な笑みを浮かべた。


「わたしの生まれたギルメリアでもそういった腕輪をする風習がありましたから」


 へレアルの説明によると、その風習は古く、始まりは大切な人の安全と幸運を願うものだったが、いつの頃からか右腕にするのは家族からのもの。左腕は恋人や奥さんからのものとなったらしい。他にも意匠で願いごとや意味が違ってくるという。


「君のは随分と古そうだね?」


「はい。母が若い頃、父からもらったものです」


 普通、そういった大事なものは一生大切にするか長男に贈るかだ。それを次男に贈るということは、そうとう大事にされているということだ。


「愛されているだね」


「あ、いえ、そんな……」


 顔を真っ赤にさせて俯いてしまった。


「……それで、仕官先は、やはり公爵のところかい? それとも帝国学校への進学かな?」


「え、あ、いえ、姫さまの騎士になるために帝都にきました」


 一拍置いて、ルインは首を傾げた。


「……えーと。お姫さまや王子さまの護衛といったものは確か、親衛騎士から選ばれるか、公爵の信頼を得る者がなるんじゃないのかい?」


 別に規定はがあるわけではないが、このミナス帝国ではだいたいがそのどちらかだった。


 ルインの問いになぜか誇らしく胸を張るアルアだった。


「そうですね。他の公国や高位の貴族ではそれが常識です。ですが、我がルクアート公国の賢姫は違います。道を誤ったのなら戻る勇気を持ち、間違ったら謝罪する言葉を知っています。下々の暮らしを学ぶために街へと出たり働くという意味を知るために農作業に従事したこともあります。今回のことも次男や三男といった者たちに希望を与えるためのものなんです!」


 熱く語るアルアに、またもルインは首を傾げた。


「……なんだか、そのお姫さまに会って会話したかのような口ぶりだね?」


「実は、姫さまが街へ出たとき案内したのはわたしなんです」


 当時を思い出したのか、アルアはとっても嬉しそうに笑った。


 なんでも不良たちに絡まれているところを助け、護衛役として街を案内する。といった、良くある物語の一場面に、ルインはそのお姫さまのことを考えた。


 そこだけ聞けば世間知らずの愚行だが、その前の話を聞く限りではそうとうな型破りで、確固たる信念の持ち主であることが良くわかった。


「しかし、なぜ帝都に? 採用試験? なら公国で行えば良いのでは?」


 公国の姫なら公国でやれば良い。なにも四〇〇リグも離れた帝都ですることもない。いろいろ用意するのも大変だし、訪れる方も苦労ではないか。


「そこが姫さまの凄いところです。自分の騎士たるもの帝都までの道程を苦とせず、自分を捜し出せるくらいの者ではならない。広く公募するが無能者はいらない。能力がある者だけ自分の前にこい、というわけです」


 熱く語るアルアとは反対に、ルインは心はどこまでも冷静だった。


「……若者からしたら革新的ではあるが、年寄りには異端としか見られないのでは?」


「ルクアートにはこんな言葉があります。『新しき子よ。新しきを学べ』と。確かに伝統は大事です。守るべきものです。ですが、新しき時代を切り開くのは新しき子です。過去に縛られず、今を見て、未来に向かえ。それがルクアートの子です!」


 農業国でありながら十二公国の上位にいる理由がそれであり、ルクアートの強さでもあった。


「……手強いな……」


「え? あ、あの、なにがですか!?」


 アルアの問いに答えず、ルインは黒茶へと手を伸ばして一口啜った。


 揺れる湯面を見詰め、そこに映る自分に語り掛けるように口を開いた。


「確固たる信念を持ちながら柔軟な思考ができ、伝統を重んじながら新しいものを取り入れることができる。そういった人物は自分に厳しく、下の者にそれ相応の力を求める。もちろん、そういった人物は下を大事にする。気配りも忘れない。頭だけではなにもできないと知っているから。ならば、敵と味方の判別に優れ、人の言動にも敏感だ。勘も鋭く嘘を見破る眼も持っている。第三者から見れば申し分なく、そういった人物が上にいることはとても幸せなことであろう


 今度はアルアが首を傾げた。


 口では素晴らしいと語っているのに、その表情は難題を前にして苦悩しているような顔なのだからだ。


「申し訳ありません。ルインさまったら一旦考え込んでしまうと周りが見えなくなる癖があるんですよ」


 ルインを知らないアルアのために助け船を出すへレアルだった。


「あ、あの、とても素晴らしい方なのはわかりますが、いったいルインさ──ルインどのは何者なんですか?」


 ルインと接したことがある者が必ず思う疑問にへレアルは優しく微笑み、少年は頬を赤らめた。


「ルインさまが何者か。それはルインさまでも答えられないでしょうね」


「?」


「賢者のように賢く、並の騎士より腕が立つ。心根も正しく礼節を忘れない。料理やお茶に精通し、玄人並の演舞技を持つ。商人にも勝る商才で朽ちかけた酒場を帝都一の茶舞店に蘇させる。一言では表せられない能力。わたしたち凡人には決して出せない発想力。望めば明るい未来があるのに、なぜか用心棒で満足している。本当、この方は何者なんでしょうね?」


 ルインを優しく、そして温かく見守るへレアルに、アルアは心の中で呟いた。


 ……何者でもなく、只者であることがこの人にとって幸せなことなんだろうな……。

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