どこからか流れてくる軽やかな音色に少年は揺り起こされた。


 ……この曲、どこかで聴いたな……。


 ぼんやり見知らぬ天井を見詰めていると、横からガチャという音が耳に届いた。


 なんだろうと首を動かしたら、なぜか白い壁がそこにあった。


「あ、起きたんだ。具合はいかが?」


 それが前かけだと気が付いた少年は、起き上がろうとした瞬間、凄まじい頭痛に襲われた。


「無茶しない。あんな安酒飲まされたんだから。ほら、これ飲んで」


 差し出された茶器をなんの疑いもせずに受け取った少年は、中身を確かめずに口に含んだ。


「──ぶホッ! ゴホ! ゴォホっ!」


 その苦さ不味さに咳き込んだ。


「苦いのは自業自得。兄さんが煎じた薬湯は二日酔いに良く効くんだから」


 茶器を置こうとする少年の腕をつかみ、残りを無理やり口の中に押し込んだ。


 男の自分にも勝る腕力に抵抗できず、口が曲がりそうな薬湯を胃の中流し込まれた。


「えん。偉い偉い。じゃあ、今度はこっちね」


 差し出された違う茶器に少年は思わず身を引いてしまった。


「フフ。これは水だから大丈夫よ」


 そこで初めて声の主を見た。


 大きな目と褐色の肌が印象的な、自分より二、三歳上の女の人だった。


「……あ、あの、あなたは……?」


 少年の問いに少女はヤレヤレと肩を竦めた。


 そんな少女の態度になにか失礼なことをしてしまったのかと少年が狼狽える。


「坊やからしたら身分低い女でしょうけど、仮にも貴族なら、ううん。一人前の男と思うならまず先に名乗る。礼をいう。それが礼儀というものじゃないかしら?」


「────」


 少女の迫力に、父からいわれた言葉を思い出した。


『──立派な騎士になりたいのなら自制心と礼節を忘れるな。前者は奢りに。後者は不義に通じている。それは騎士として、一人の男として恥ずべきことだと知れ──』


 すぐそこで父に叱られたかのように寝台から飛び下り、床へと片膝をついた。


 少年の思いもしない行動に少女は目を丸くする。


「わ、わたしは、アルア・ナジと申します。数々のご無礼、誠に申し訳ありませんでした!」


「ちょ、ちょっと、止めてよ! 頭上げてよ! これじゃあたしがいじめてるみたいじゃないのよっ!」


 もう少しで床につきそうな頭をその力で引き離した。


「ったく。極端すぎるよ、君は……」


「す、すみません……」


 自分でもこの性格には困っていた。


 父からも『混乱する癖を治せ』といわれ、兄にはこれでバカにされていた。


 捨てられた仔犬のように小さくなるアルアが、ジリートと重なり合ってしまい、思わず苦笑してしまった。


 ……ヤレヤレ。どうしてあたしはこういう男に弱いんだろうね……。


「ほら! いつまでもうじうじしない。男でしょう!」


 手の掛かる弟のような扱いに、アルアは益々小さくなる。


 母だけではなく六つ上の姉と二つ上の姉に育てられたせいか、こういう姉御肌の女性には頭が上がらないのだ。


「そうそう。あたしの自己紹介がまだだったわね。あたしは、ミルラ。この下の茶舞店で働いているんだ」


 茶舞店というところでアルアは首を傾げた。


「あの、なんですか、その茶舞店とは?」


「……本気でいってるの?」


 はいと頷くアルア。


「見聞紙に紹介されてから毎月のようにできてるって兄さんがいってたけど、君のところまではまだ広がってないんだ」


 いや、アルアが知らないだけでルクアート公国にも茶舞店はできている。


 ただ、知らないのは街で遊ぶということを知らなかったことと、お茶と踊りは家で楽しむものという家風があったため、茶舞店の前を通っても気が付かなかっただけである。


「──ミルラねえさん。あ、起きたんだ」


 と、マオが部屋に入ってきた。


「じゅあ、ルインさまに知らせてきますね」


「あ、待ちなさいマオ!」


 旋風のように出ていったマオを呼び止めると、ひょこっとそばかす顔が現れた。


「なんですか?」


「兄さんにはあたしが伝えるわ。あんたはこの子の世話をお願い」


「え~! あたしがですかぁ~?」


 嫌な顔をするマオにつかつかと歩み寄り、ポカリと頭を叩いた。


「受けた恩は次に回す。それがあんたの未来を救ってくれ人への最大の感謝。それともあたしの恩はいらぬお節介だったかしら?」


 とっても優しく微笑む義姉に慌てて首を振った。


 言葉使いや物腰は優しいがミルラだが、ルインと出会うまでは山賊団の手下として生きてきたという。


 それが本当かはマオにはわからないが、ミルラの教育は実に厳しく、口より先に拳が出るものだった。


 だからといってミルラを恨む気持ちは全然なかった。それどころかルインと同じくらいの恩を感じていた。


 ここにきた当時は叩かれる毎日だったが、覚えたことにはちゃんと誉めてくれるし、実の妹のように接してくれた。読み書きも教えてくれた。寂しい夜は一緒に寝てくれた。相談にも乗ってくれる。毎日を活気あるものにしてくれた。


 そんな義姉に逆らうということはルインを裏切ることに等しかった。


「全身全霊をかけてお世話させていただきます!」


 またポカリと頭を叩いた。


「バカ。そんなことされたらうっとおしいだけでしょうが! レギニーの面倒を見るくらいで良いのよ」


「……はい……」


 しゅんとするマオの頭をポンポンと軽く叩いてやった。


 ……良くねーちゃんがあたしにしてたけど、すっごく納得。もう可愛いったらありゃしないわ……。


「じゅあ、お願いね。あ、君の服は洗濯してるからそこの棚にあるのを適当に着てちょうだい。たぶん、少し大きいかもしれないけど、そこは我慢してね」


「なにからなにまで申し訳ありません」


「良いのよ。じゅあ、また明日ね」


 手をひらひらさせながら部屋を出ていった。

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