なにやら香ばしい匂いが漂ってきた。


 遠くに飛ばしていた意識を引き寄せると、真っ白な茶器と立ち上る湯気。そして、その向こうに白い手と古びた盆が見えた。


 鈍く働く意識が上を見ろという。


「なにか悪いことでも書かれてましたか?」


 長い銀髪を頭の後ろで一つに纏めた二十歳後半の女性が自分を心配そうに見ていた。


 しばしその優しい瞳を見詰め返し、その人が紅百合べにゆり亭の主で借家の大家でもあるヘレアルだと、やっと理解できた。


「えーと、なんでしたか?」


 理解したものの質問の意味までは理解できず、申し訳なさそうに問い返えした。


 わざとらしくため息をついたヘレアルは、この店の用心棒にして北エルレード随一の賢者、ルイン・カークへと茶器を押し出した。


「まずは、頭をすきっりさせてください」


「え、あ、はい……」


 いわれた通りに茶器をつかみ、ヘレアル自慢のルク茶を口に含んだ。


 ルク茶の苦味と微かな甘味が口の中いっぱいに広がり、霞がかかった意識をすきっりさせてくれた。


 完全に目覚めた意識で辺りを見回し、卓に置かれた手紙に気がついた。


 ……そうだ。これを読んでいたんだっけな……。


 もう一度ルク茶を飲み、茶器を卓に置く。そして、気持ち姿勢を正してヘレアルを見上げた。


 今度は本当にため息をつき、いつもの優しいヘレアルへと戻った。


「なにか悪いことでも書かれてましたか?」


 その問いにルインは手紙をヘレアルに差し出した。


「よろしいんですか?」


「遠慮なく」


 ルインの性格を知るので遠慮なく手紙を受け取り、中を読む。


 書かれているのは故郷のこと。一番上の兄に子供が生まれたこと。二番目の兄が結婚したこと。母の愚痴に父の心配。そして、三年近く帰ってこない理由はなんだ。働いているのか、勉強しているのか、忙しいならせめて手紙を寄越せ。もし遊んでいるなら今直ぐ帰ってこい、ということがぎっしり書き込まれた手紙である。心にしまうには重すぎる内容であった。


 そんな沈んでいるルインにヘレアルは首を傾げた。


 遠い地で暮らす息子を思う母親の愛情が良く出ている内容だからだ。


 自分にも八歳になる息子がいる。父親を亡くし、女手一つで育てた分過敏なところもあるかも知れないが、もし息子が遠い地に行くと想像しただけで胃が痛くなる。


 息子だって母親思いの優しい子だ。こんな手紙を見たら落ち込んで当然。沈んでしまってもしかたがないことだろう。


 だが、この青年は違う。この青年はどんな状況に陥ろうと冷静だ。どんな苦境だろうとそれを表情には出さない。その心で思考する人である。


 ルインと知り合って約一年。それは嫌というほど見せられた。


 初めて会ったときもそうだ。この北エルレードを仕切っていた一家の頭にいい寄られて困っていたら突然ルインが現れ、腕っぷし自慢の手下たちを瞬く間に伸し、警備隊ですら手を焼く用心棒を枝一本で、それも一撃で倒してしまった。


 まるでなにもなかったような顔で、ちょうど良くそこにいた人に道を尋ねるかごとく住むところはないかと聞いてきた。


 今思い出しても不思議なくらいうちの借家を紹介し、自己紹介するのも忘れて家に連れてきたのは良い思い出だ。


 地方出身だというのに都会での暮らしに熟知し、その知識は賢者顔負け。その強さといったら騎士を凌駕している。それだけならなんとか受け入れられる。そういう"天才"なら帝都に多くいるから。だが、この青年はそれだけではなかった。主婦歴九年の自分以上に家事をこなし、掃除洗濯はもちろん繕い物すら自分を凌駕していた。


 そんなルインが母親からの手紙くらいで沈む訳がない。自分が知るルインならこういうとき程笑みを崩さない。


 一年という短い時間だが、出会ったときからルインの姉と思っている。できの良い息子を持つ母親の気持ちで接してきたつもりだ。もし、心配事があるなら話して欲しかった。


 だがと、ヘレアルは思い止まる。


 まだ二十歳だというのにルインには良識を持っていた。立派な男性であった。本当に地方貴族の三男坊かと疑いたくなるくらい人格ができていた。そんな人に差し出がましいことをいうなど、侮辱しているようなものだ。


「……優しいお母様で……」


 尋ねたい思いを押さえ付けて手紙を返した。


「さすが母親。見るところ、感じるところがバカ息子とは違いますね」


「ふふ。バカ息子どころか立派な息子ですよ、ルインさまは」


 ヘレアルのセリフにルインは苦笑で返した。


 帝都で仕事を探すといって家を出たのに、未だに決まった仕事もせず遊び回っている。それどころか用心棒なんていう荒んだ身に甘んじているのだ、いい訳しようもないくらいバカ息子である。


「──母さん、お腹すいたぁーっ!」


 裏へと続く扉が勢い良く開かれ、元気な少年が飛び込んできた。


「こら、ウージュ! お店に入ってくるときは静かにっていってるてしょう!」


 元気なウージュはうるさいな~といいながら厨房へと消え、なにやら食器をガチャガチャさせていた。


「母さん。この腸詰めと白パン食べて良い?」


「腸詰めは良いけど、白パンはダメよ。黒パンにしなさい。それと、葉野菜も食べるのよ」


「わかった」


 盆に朝食を載せたウージュは、ルインがいる卓へと置き、当然のように横へと座った。


 ルインもルインでウージュが横に座ってもなにもいわない。ウージュの食べる姿を優しく見守った。


 そんないつもの光景にヘレアルは微笑み、息子のために羊乳を温めるべく厨房へと戻った。


 ルインがきてからというもの息子はルインの横で朝食を取っていた。


 父親と死別して六年。父親の記憶がないウージュにはルインが父親であり、もっとも憧れる英雄なのだ。


 強くて賢くて優しいとなれば息子じゃなくても好意を抱いてしまう。自分だってこの青年を──


 なにをいおうとしたのか理解したヘレアルは、その先を慌てて飲み込んだ。


 ──わ、わたしったらなにをいっているのよ!


 一家の頭を退治してくれた。自分の淹れてくれたお茶を美味しいといってくれる。潰れかけた居酒屋を茶舞店ちゃぶてんとして復活させてくれた。店の用心棒として守ってくれる。この青年がきてくれてから生活が見違えるように健やかになった。


 ──そ、そうよ。これは感謝。感謝からくる好意なのよ!


 そう無理やり自分を納得させ、温めた羊乳を息子へと運んだ。


「ねぇ、母さん。今日、塾が終わったらレムルたちと遊びに行っても良い? 交易広場にジリーム遊芸団の幕が建ったんだ」


「あら、天霊祭にはまだ早いんじゃないの?」


 八大祭りの中で新春を祝う天霊祭は、一番長く祝う祭りであり、双月の月の五日から二十日まで行われる。


 それは、この北エルレードだけではなく、帝都中で行われるから遊芸団や曲芸団がこぞって集まり、祭りの二日前から幕を垂らす。だが、今は銀風の月の二十二日。まだまだ先であった。


「皇帝シリウル四世が即位したのが銀風の月の二十八日。一周年のお祝いで通行税や収益税が免除になりますからね、旅芸人にとっては他を蹴っても帝都にくるでしょうね」


 母親の問いにどう答えようかと悩んでいたウージュの代わりにルインが答えてあげた。


「──うん、それ! 良いでしょう?」


「え、ええ。良いけど、遅くなっちゃダメよ。最近物騒なんだから」


「わかった。暗くなる前に帰ってくるよ!」


 何度も見た心温まる光景に、ルインは少年時代を思い出した。


 家を出るまでの日々はとても穏やかで、とても幸福なものだった。


 裕福ではなかったが、食べるのに困ったことはない。二転三転する出来事もなかった。


 もちろん、なにもなかった訳ではない。父とは何度も衝突したし、兄たちとも衝突したことはある。だがそれは、人が、家族が暮らす上で必ず起きること。それが生きていくということだ。


 この親子だってそうだ。こうして笑い合うまでたくさんの障害があったはずだ。


 ……この親子を見ていると、結婚もそう悪いものではないと思えてくるな……。


 地方貴族の三男や四男がもっとも目指すのが騎士への道だ。


 一番の幼なじみも騎士を目標に日々努力し、騎士になることを口癖にしていた。それが立派な男になることだと信じていた。だが、自分は違っていた。一度たりとも騎士を目指したことはないし、なりたいと思ったこともなかった。


 では、なにになりたかったと問われれば、なにも考えてなかったと答えるしかない。


 少年時代は毎日が楽しかった。覚えたいことはたくさんあり、やりたいことは多くあった。一日をどう使うかで頭がいっぱいだった。


 そんな一心不乱に遊んでいる息子を見た父は、なにをどう勘違いすればそんな答えを導き出せるのか謎だが、息子は騎士を目指していると見てしまったのだ。


 父の相談にのった騎士団長も騎士団長で、自分が騎士になりたがっていると勘違いし、伯爵へと推薦状を出してしまった。受け取った伯爵も快く承諾してしまうのだから理解不可能である。


 その裏話を一番の幼なじみから聞いたとき、決められた道を歩むのは嫌だ、という少年特有の反発心は出てこなかった。どの道生きるためには仕事をしなくてはならないし、どんな職業を選んだとしても自分は変わらない。きっと好き勝手に生きているだとうことが想像ができた。


 だが、そう納得できたのも次のセリフが出るまでだった。


 ──騎士になるととめもにレクルアと結婚か。幸せにな。


 意味がわからなかった。


 結婚? 幸せにな? いったいなんのことだ?


 良く良く聞いてみると、常々自分を養子にしたいと思っていた団長が、父の話にこれ幸いと、一人娘のレクルアとの結婚させることにしたそうだ。


 貴族の十七なら結婚話が出ても不思議ではない。山の友人も十七で結婚したし、名門貴族なら十三で婚約者がいるのも普通である。だが、自分は下流貴族。しかも三男坊。結婚できず一生独身なんて話、珍しくもない。そんなところにいる自分が結婚など出世してから。名を上げてからだ。


 レクルアの名誉のために断っておくが、別にレクルアが嫌いだったり問題があった訳ではない。それどころか女幼なじみの中では一番の器量持ちだ。


 そんな彼女に幼なじみたちは心酔し、騎士団の方々からも慕われ、レクルアを賭けて決闘まで行われたという。


 レクルアとは同じ歳で、剣の稽古や駆け馬して良く遊んだ幼なじみ。それ以上でもなければそれ以下でもない。恋愛対象として見たことなんて一度もなかった。


 そんな懐かしい思い出に、成長したルインはふっと思う。


 ……もしかして、レクルアは自分を恋愛対象として見ていたのか……?


 当時のことを思い出して見る。


 剣の稽古をしようと誘ってくるのはいつもレクルアの方だった。踊りの練習をしたいからと相手しろというのもレクルアだった。他の女幼なじみと楽しく会話していると不機嫌でいた。結婚話が出てからは、いつも男装していたレクルアが綺麗な衣装を身に纏い、いったいいつどこでそんな女言葉を覚えたと突っ込みたいくらいおしとやかになっていた。


 ……なるほど。レクルアが鈍いと怒るのも当然だな……。


 結婚を断ったときのレクルアの怒りようときたら黒竜にも勝った。顔を真っ赤にさせて怒るレクルアに戸惑い、大の男すら殴り飛ばした拳をまともに食らってしまった。


 手が自然と頬に動き、あのときの痛みとレクルアの揺れる背中を思い出した。


 ……ほんと、バカでガキで、どうしようもないくらい鈍かったんだな……。


 手紙を再度開き、最後の一文に目を向けた。


 そこにはレクルアと一番の幼なじみが結婚したことが書かれていた。


 少々熱血漢のある男だったが、一番の幼なじみもレクルアを慕っていた。好きだ愛していると叫ぶ姿に呆れながらも応援していた。


 入団と結婚を断ってしまい、父とレクルアの名誉を守るために故郷を出なくてはならなくなり、帰ることも二人に手紙を出すこともできないルインは、二人が並んでいる光景を思い浮かべた。


「……幸せにな、二人とも……」


 大切な幼なじみたちに、今できる精一杯の祝福を贈った。

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