我に返ると、店内は近所のおかみさんやお年寄りの社交場と化していた。


 隣にいたウージュはとっくにいなくなり、茶器の中のルク茶も完全に冷えていた。


 二人もルインが思考中は、なにをいっても無駄と知っているから勝手に消えることにしていた。


「あ、マオ」


 厨房へと入ろうとしたソバカス少女を呼び止めた。


「あ、はい。なんですか?」


「レギニーに出掛けるように伝えてくれ。あと、ヘレアルさんに熱い黒茶をお願いしてくれ」


「はぁーい!」


 元気に返事をして厨房へと消えた。


 残ったルク茶を飲み干し、出掛ける準備に取りかかった。


 卓や長椅子に積み重ねられた本の中から読み掛けの本や図書館で借りた本を捜し出して鞄へと詰め込み、謎の道具類を収めた革帯を腰に巻き、謎の袋を上着の物入れにしまっていく。


 知らぬ者がこの一角を見たらどうして私物が置かれていることに疑問を持つことだろう。事実、今日初めてここを訪れた客が不思議そうに、壁に飾られた短剣をくわえた銀色の狐の紋章を見詰めていた。


 それを近くを通った給仕の少女に尋ねると、給仕の少女は慣れたように答えた。


「あそこはルインさまのお城ですから」


 用がない限りルインはその一角で過ごすためにヘレアルが『ルインの城』と命名し、給仕の少女たちからは『狐のお城』と呼ばれ、ひっくるめて『お城』と呼ばれているのだ。


 そんな事情を知らないお客は首を傾げるばかりであった。


「お客様も常連になればわかりますよ。なぜあそこがお城と呼ばれてるかを、ね」


 給仕の少女は、悪戯っぽい笑みを浮かべて立ち去った。


 そんな会話が行われているとは知らないルインは、出かける準備を続けた。


 乗馬用の長靴に履き替え、薄手の外套を衣紋掛けから外して纏うと、ヘレアルが厨房から出てきた。


「お出かけですか?」


「はい。ちょっと外の空気を吸ってきます」


 準備が完了したルインは、卓に置かれた黒茶に手を伸ばし、香り立つ湯気を楽しんだ。


「……豆、新しくしました?」


 香りがいつもと違っていた。


 淹れ方を伝授した自分を軽く凌駕したため、今では完全に任せてはいるが、味の良し悪し、違いのわかる舌は今でもヘレアルには負けていないと自負している。


「はい。ケルトール産が手に入りましたもので」


「ケルトール産? 良く手に入りましたね」


 三大産地の一つだが、ケルトールは帝都からもっとも遠く、生産量が少ない。殆どが現地で消費され、帝都ではなかなか手に入らない高級豆であった。


「最近は飛空船を持つ冒険商人が増えてきたそうで、遠方の品が売られているそうです」


「なるほど。新しい技術は新しい商売を生む、か。便利な世の中になったものですね」


「ルインさまの言葉ですか?」


「いいえ。奇蹟の姫の言葉ですよ」


 ルミナス王国の王女でありながら希代の冒険商人。この帝都にも何十軒と店を持ち、浮遊島を一つ所有している程の商才を持つお姫様であった。


「我々人魔ヒュードゥでもないのに技法に長け、画期的な飛空船を世に出している。一度、会って見たいものです」


「きっとお話が合うことでしょうね」


 含み笑いに肩を竦め、黒茶を飲み干した。


「では、いってきます」


「はい、お気をつけて」


 まるで夫婦のような挨拶を交わして店の外へと出た。


 そこには愛馬のシリルと紅百合亭の馬番の少年が少し怒った様子で待っていた。


「……えーと、どうしたのかな?」


「どうしたのかじゃありませんよ! もう三日もそのにきてないじゃないですか! 水が濁ってきましたよ」


「散歩も"契約"の内に入っているのを忘れてない?」


 と、愛馬が麗しい声で非難した。


 どここらどう見ても栗色の馬だが、それは帝都で暮らすために“馬„に変幻しているだけで、本来の姿は半人半馬の聖なる獣であり、空を飛ぶことに情熱を傾ける変わり者であった。


「ごめんごめん。おもしろい本があったから夢中になってしまって」


 こういう男だとはわかっているのでシリルもそれ以下はいわない。ただ、呆れたとばかりに肩を竦めて見せた。


 ルインもそれ以上謝ったりはせず、栗色の背中(半馬の方)を優しく撫でてやった。


「では、今日は遠くまでいってみるか」


 いって軽やかに愛馬へと跨がった。


 尊敬と憧れで自分を見るレギニーに気がついたルインは、微笑みを見せた。


「では、いってくるよ」


「はい! いってらっしゃいませ!」


 ルインが人込みに紛れて見えなくなるまで見送ると、想像の剣を抜き放ち、適当に振り回しながら裏へと回った。


 ちょうどゴミ捨てに出てきた姉のマオが、想像の剣を振り回す弟を見て顔をしかめた。


「まったく、いい加減にしなさいよね」


 そんな姉に構わずレギニーは想像の剣を振り回す。


「良いだろう。剣の腕は小さい頃からの努力で決まるんだから」


 前にルインがいった言葉を持ち出して姉のセリフを斬り払った。


 弟の気持ちがわからない訳ではない。あの人に憧れるのも希望に思うのも当然だ。自分もあの人は好きだし、恋心もある。


 両親が死に、頼れる人もおらず路上で死にかけているところを助けてもらったばかりかこうして働くところを与えてくれた。


 言葉にできないくらいの感謝がある。この身を差し出しても返し切れない恩がある。あるからこそ刻んでおかねばならないことがあるのだ。


「レギニー」


 抑揚ない声で弟を呼んだ。


 最初、姉を無視していたが、いつもとは違う雰囲気に負け、想像の剣を振るうのを止めて姉に向き直った。


「……なんだよ、怖い顔してさ……」


 口を曲げる弟に近づき、赤くなっている頬に手を伸ばした。


「良い、レギニー。ルインさまに憧れるのも尊敬するのも構わない。でも、それ以上は望んではダメ。あの方はあたしたちと違う世界にいる人なんだから」


「なんだよそれ! 身分が違うから口聞くなっていうのかよ!」


「バカ! そんなこといってんじゃないの! あの方は身分や生まれで人を差別したりはしないわ。そんな人ならあたしたちはここにいないでしょうが」


「じゃあ、なんだっていうんだよ?」


「あんたは、このままルインさまがここにいたら良いと思ってるの?」


「そんなの当たり前だろう! ねえちゃんは思ってないのかよ!」


 弟の愚問に怒りで我を忘れそうになるが、無理やり押さえ込んだ。


「……ルインさまがここにいるということは、貴族としての、ううん。あの方の未来を潰すってことなのよ」


 あの方を独占してはダメ。ここにいることを当然と思ってはダメ。あの方の行動を縛るということはあの方の誇りを汚すことになる。わたしたちが望んで良いのはあの方の幸せだけ。それけがあの方と出会えたわたしたちの特権よと、女将さんがいっていた言葉を最近になってわかってきた。


「あんたはそれで良いの? どんな貴族よりも貴族らしい人をここに閉じ込めて、あんたは嬉しいの? あんたの憧れる人が用心棒のまま終わらせるの? あんたは納得できるの?」


「…………」


「あの方は、あたしたちとは違う。ものの考え方や見ているもの、心の有り様がまるで違うわ」


「…………」


 姉の視線から逃れて口を結ぶが、マオはそれを許さなかった。


「納得できないのはわかる。正直いえばあたしだって女将さんからいわれるまでルインさまがずっとここにいてくれると信じてた。でも、それはあたしたちの我が儘。ルインさまの望んだことではないの。良い、レギニー。あたしたちに許されるのはルインさまへの感謝だけ。それだけよ。あの方の重荷になってはダメ。もし、あんたが重荷になるのならあたしが許さない。あたしがあんたを殺すわ」


 姉の言葉ではなく、その確固たる決意に身を震わせた。


 いろいろ感情が渦巻いているが、ルインさまのためならと無理やり自分を納得させた。


「……わかった。ルインさまの重荷にはならない……」


 弟の弱々しい返事に頷き、たった一人の肉親を優しく抱き締めた。


「大丈夫。どんなに偉くなろうと、どんなに離れようと、ルインさまはルインさま。あたしたちのルインさまだよ……」


 うんと、レギニーは頷いた。確信を込めて。

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