第七章 挫けぬとは
1
見た目、紅百合亭に変わりはなかった。
ルインが作った花壇も、マオが育てた花も、硝子が入った扉や窓も、出掛けたときのままである。
だが、紅百合亭の前には五十人を超す警備隊士と、青い外套を纏った総隊長が三人も集まり、それと同じくらいの文士と何百人もの野次馬で埋め尽くされていた。
「兄貴!」
文士の集団の中にいたジリートがルインに気がつき駆け寄ってきた。
「どこに行ってたんだよっ! こんな大事なときにっ!」
「そんなことより皆は? 皆は無事なのか?」
ジリートの襟首をつかんで問い質した。
「……く、苦しい……」
「──通いの娘と離れにいる者は無事だ。ただ、ヘレアルさんが……」
そう答えたのはオルディアス侯爵領区の警備隊総隊長、ノルベット・ケシュリーだった。
「状態は?」
ジリートを放り投げてノルベットへと振り向いた。
「傷そのものはたいしたことはないんだが、なぜか血が止まらないのだ」
自分の横にいた第一分隊長、ルディーに案内してやれと命じ、ヘレアルがいる部屋へと向かった。
部屋にはミルラとウージュ、顔見知りの警備隊士、そして、この街でも名医と名高いミーシャ女史がいた。
「兄さん……」
「ルインさま……」
泣きそうなミルラとウージュに微笑み、寝台の上で苦しむヘレアルの横についた。
「容態は?」
治療に全力を注いでいるミーシャへと尋ねた。
「あなたの精霊水を使ってなんとか血は止めたわ。けど、傷口がどうしても塞がらないの。縫合しても糸が腐るし、傷口の周りの皮膚が徐々に腐って行くのよ」
……魔剣か。それも破魔に属するもので斬られたんだろう……。
個人により強弱はあるが、魔を持つ人魔ヒュードゥ族には最悪の魔剣であった。
「……ヘレアルさん……」
血の気を失い、大量の汗を流すヘレアルに声をかけた。
その声が誰なのかわかったヘレアルは、重い瞼を必死に開け、焦点がわない目でルインを捜し、見つけるとにっこり笑って見せた。
「……お帰りなさい。楽しいことはありましたか……?」
それは、いつも自分の帰りを迎える言葉だった。
心臓を鷲掴みにされたように胸が痛み、そのまま倒れてしまいそうになった。
「……ええ。とても楽しい放浪でしたよ……」
必死に痛みに堪え、いつものように微笑みで返した。
「今回は特別でしたよ。あなたの好きなココア・クレメール夫人やルクアートの公女にも会いました。ほら、今回のお土産です」
鞄から本を取り出し、ココア・クレメールの名が書かれた頁を開いて見せた。
小さな声で嬉しいと囁くヘレアルに本を渡し、弱々しい笑顔を見詰めた。
「……ルインさま……」
その呼び掛けに応えるようにルインはヘレアルの手を握りしめた。
「挫けないでください」
弱々しい声なのに、心を殴りつけられたくらいの衝撃を受けた。
「あなたは自分で思う程臆病な人ではありません。弱い人ではありません。こんなこというと不愉快に思われるかもしれませんが、あなたはジャン・クーと並ぶ、いえ、ジャン・クーにも勝る騎士です。少なくともわたしやウージュ、あなたに救われた者にとってはあなたが一番の騎士でした」
ヘレアルの手を握る手に力が自然と籠り、堪えていた震えが出てしまった。
「……ウージュ……」
動けないウージュをミルラがルインの横へと連れて行き、ルインはヘレアルを見たままウージュの肩に腕を回して抱き寄せた。
「ごめんね。かあさん、もうウージュの側にいてあげられなくなっちゃった」
「……か、かあさん……」
「泣かないの。ルインさまは泣いてないわよ」
ウージュを抱く腕に力が籠る。
「ルインさま。申し訳ありませんが、ウージュをお願いします」
「あなたの願いなら喜んで」
ルインは答えた。力強く頷いた。
「……充実した時間をありがとうございました。あなたに出会え……」
自分を見ていた瞳から光が消えてしまった。最後まで言葉を紡ぐことができないまま、ヘレアルは死んでしまった。
「……かあさん? かあさん! ねぇ、起きてよっ! 起きてってばっ! 嫌だよ! そんなの嫌だよっ! 起きてよ! 起きてってばっ!」
もう二度と目覚めることのない母親を必死に起こそうとするウージュをルインが制す。
「止めなさい、ウージュ」
とても優しい声だったのに、まるで恫喝されたかのようにウージュの体が萎縮した。
恐る恐るルインを見たウージュは、その目から流れる涙に声を失った。
「良くかあさんを見ておきなさい。その顔を心に刻んでおきなさい。そして、今の気持ちを忘れず、その気持ちに負けるな」
人は死ぬ。幸運でも不運でも死はやってくる。そして、死は突然やってくるのだ。
ああ、わかっている。二年もの旅でたくさんの死に触れてきた。この手で人を殺したときもある。親しい者の死も、愛する人の死も、この手で触れてきた。この目で見てきた。
「悲しくて当然だ。辛くない訳がない。最愛の人を奪った者を憎むなという方が悪い。泣くなといわれて我慢できるか。大いに感情を爆発させろ」
涙を流すもののルインの表情や気配はとても静かだった。
ルインはウージュの目線まで腰を落とした。
「だが、わたしは挫けたりはしない。生きることを止めたりはしない。明日も明後日もわたしは生きる。人を愛して見せる。ウージュ・ルカートの前で、ヘレアル・ルカートの前で誓う。わたしは、絶対に、挫けたりはしない」
ルインはウージュを強く抱き締めた。
「……ルインさま……」
ウージュもルインに腕を回すと、ルインがなにかを囁いた。
他の誰にも聞こえないように、ウージュだけにもう1つの誓いを立てた。
ウージュはわかったと、腕に力を籠めてその誓いに応えた。
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