サン・ファン・デ・オルテガ④

 扉から出ると、そこはすぐにアルベルゲの裏庭になっていた。

 椅子やテーブル、パラソルが並んでいて、天気のいい日には、そこでランチでも食べたら最高だろう。でも、今は太陽が沈みかけていて薄暗くて、人々から忘れされてしまった廃墟のような寂しさがあった。

「あ……」

 その椅子の一つに、ぼんやりと光るものがある。まるで蛍か、あるいは人魂ひとだまのように揺らめいているその光は……タバコの火だ。

 さっき食卓を出て行ったアミーナさんが、薄暗い中で、タバコを吸っていたんだ。


「……何?」

 アミーナさんは、ほとんど同時に自分を追って現れたあたしとアキちゃんに、鋭い目つきを向けている。あたしは、そんな彼女に何を言えばいいか分からず、先にそこにいたアキちゃんの陰に隠れるように、一歩下がってしまう。

「えと……あの、えっと……」

「ここ、禁煙?」

「え? あ、いえ……それは……、多分違う、かと…………知らないですけど」

「……ふん」

 アミーナさんは、タバコの火を消そうとする。要領を得ないあたしの言葉にしびれを切らして、その場を立ち去ろうとしているようだ。

 正直、今の雰囲気が気まず過ぎて、このままここにいるのがつらい。アミーナさんがどこかに行ってくれるなら、それを待っていたほうが……。なんて、事なかれ主義の考えで、あたしが立ち尽くしていると……、

「待ちなさいよっ!」

 アキちゃんが、強い口調でアミーナさんを呼び止めた。


「え……ア、アキちゃん?」

「……何?」

 アミーナさんが、面倒くさそうにアキちゃんのほうを見る。その鋭くて冷たい視線に、アキちゃんはまた委縮してしまうかと思ったけど……。

「ア、アンタ……ちょっと、非常識すぎるんじゃあないのっ⁉」

 今度は、そうじゃなかった。

「はあ? 何が?」

「食事の準備をしなかったこと……。食べた後、食器を片付けなかったこと……」 

 あ……それ、言っちゃう?


 今日のアルベルゲは、夕食は自分たちで用意するスタイルだった。同じアルベルゲに泊まって、外のレストランに食べに行った人もいたみたいだけど……でも、さっきキッチンの食堂で一緒に食べた人は、みんな夕食は自分たちで準備していた。そこに参加していなかったのは、後からきたアミーナさんだけだ。それに、そういうスタイルなら、食べ終わった後に食器を自分で片付けるのが、一般的だ。

 だけどアミーナさんは、――夕食分のお金は払ったとはいえ――そのどちらもしてくれなかった。それは確かにアキちゃんが言ったように、このカミーノでは、ちょっと非常識な行動と言わざるを得ない。


「……でも、それは別にいいわよっ! ワタシだって、出来るなら準備も後片付けも、やりたくないからっ!」

「あ、あれ? そうなの……?」

 急に、正直なことを言うアキちゃん。ちょっと肩透かしを食らったような気分になる。

「でも……でもね……。だったら、料理を残すのは、マナー違反なんじゃないのっ⁉ 別にさっきの料理は、そんなに不味くはなかったでしょうっ⁉ 普通に、美味しかったでしょうっ⁉ だったら、全部食べなさいよ! 他人と関わるのが嫌なら嫌でもいいけど…………だとしてもせめて、料理を全部食べてから席をたちなさいよっ!」

「あ、あー……」

 なんだか、食べることが好きなアキちゃんらしい物言いだ。でも、確かにその意見も一理あるとは思った。


「はあ……」

 アミーナさんは、億劫おっくうそうに一回ため息をつく。それから、

「ああ。料理とか、手伝わないといけない宿だったのか……。それは、悪かったわ」と、謝ってくれた。だけど、

「それを知ってたら、初めから外に食べに行ってたんだけどね」

 その謝罪のあとの付け足しの言葉が、アキちゃんには納得できなかったみたいだ。


「は、はあーっ⁉ ア、アンタ、何も分かってないじゃないっ!」

「何が? 謝ったんだから、もういいでしょ?」

「よ、よくないわよっ! 全然、よくないわよっ!」

「じゃあ、何? 今から私が戻って、自分の食器を洗えばいい? そうすれば、もうほっといてもらえるの?」

「だ、だからっ! そういう事じゃなくって……!」


 多分アキちゃんが一番怒っているのは……アミーナさんが、さっきの食事を残したってことなんだろう。

 食事が大好きなアキちゃんにとっては、食事はきっととても大事なものなんだ。だから、それを少し口につけただけで残してしまったアミーナさんに、こんなにも突っかかっているんだ。

 でも……。

 アミーナさんとしても、別に理由もなく、嫌がらせのために食事を残したわけじゃない。きっと彼女には彼女の理由があって、食事の途中で席を立ってしまったに違いない。


 エキサイトし過ぎて冷静さを欠いているアキちゃんと、冷静過ぎて最初からアキちゃんを相手にする気がないアミーナさん。二人の相性は多分最悪で、このまま放っておいても、二人の議論が何かの決着を迎えるとは到底思えなかった。

 だから、あたしはその仲介に入ることにした。


 一応あたし、バルセロナで大道芸とかしてきたから、そこで観光客同士がケンカとかしたときの対処もだいたい分かっているつもり。こういうときは……出来るだけバカっぽい感じで二人の間に入るのがいいんだ。突然、第三者がバカっぽく割って入ってきたら、自分たちがマジメに話しているのがバカバカしく思えてしまって、ケンカなんてしてられなくなるはずだから。


 そのセオリーにのっとって、あたしはアキちゃんとアミーナさんの中間の位置に移動して、バカっぽい演技をした。参考にしたのは、ついさっき見たあの人の仕草だ。

「ちょっとちょっとー⁉ かわいいレディーたちぃーっ⁉ どうしてそんなに怒ってるのーっ⁉ せっかくの美人が、台無しネー!」

「な、何よチカっ⁉ 突然、変なことを……」

「ああ?」

「ほらほらー。怒っているより、こうやって笑っているほうが、楽しいですよネー?」

「ちょ、ちょっと……そんな、変な顔して……ぷ、ぷぷ」

「……ふ」

 よし……。

「あー、もしかして……お腹空いてますかー⁉ お腹すいてるから、ぷんぷんしちゃってますかー? オーケーオーケー! そしたらボク、中に戻って、料理とってくるねー? みんなで作った美味しい料理をお腹いっぱい食べたら、きっとみんな、スマイル間違いなし! ネ! きっと、ジーザスだってそう思ってるネー!」

「……っ」

「バ、バカなこと言って……もう、チカったらっ!」

 よしよし、いい感じ!


 あたしのイタリア人男のモノマネは、正直全然似てない自覚はあったけど……。でも、その似てない感じが逆に、くだらなさを倍増させているみたいだ。アキちゃんはもちろん、アミーナさんの冷たい表情も、少しだけ緩んだような気がした。想像以上に自分の思い通りに事が進んで、あたしも少し調子に乗ってくる。

 ……だから、気づくのが遅れてしまった。

 あたしがふざけて「ジーザス」と言ったとき、アミーナさんの表情がまた少し、冷たく厳しいものに戻っていたことに。


「さあ、ご飯の残りを食べて、またお話の続きをしまショー⁉ せっかく同じカミーノを歩いているんだから、みんなスマイルでいるのがいいですもんネー! 同じカミーノを歩いて、素晴らしい仲間に出会うことが出来た奇跡に、かんぱぁーい……」

「……やめろっ!」

 そこで。

 アミーナさんが、恐ろしい表情であたしを睨みつけながら、そう叫んだ。


「あ……」

 頭から冷水をかけられたように、テンションが一気にマイナスまで急降下してしまった。その落差があまりにも大きすぎて、その瞬間にもう何もできなくなって、黙りこんでしまう。

 さっきまでの、「よし、このままうまくいきそう!」という期待をすべて吹き飛ばしてしまうほどの、激しい感情の発露。強い怒りだった。

「あ……あの……」

 さっきまでふざけた態度だったのが嘘みたいに、今にも泣きだしてしまいたい気分だった。

「やっぱり……空気の読めない非常識なヤツですわね……」

 少し冷静になったアキちゃんは、そうつぶやいた。



 やがて。

「はあ……」

 一言であまりにも落ち込んでしまったあたしの様子に、罪悪感を感じたのか。無表情に戻ったアミーナさんは、静かにつぶやいた。

「いや……悪かったよ。別に、あんたのことを怒ったわけじゃない。気にしないでいいから」

「で、でも……だったら、なんで……?」

「……嫌いなんだよ。『奇跡』……って言葉。だから、その言葉につい過剰に反応してしまっただけなんだよ」

「え……」

 「奇跡」という言葉を言うとき、一瞬また彼女の表情に、怒りの炎がともった気がした。



 そう、言えば……。

 あたしはそこで思い返して、理解する。


 さっき食堂で、フェリシーさんの祈りにアミーナさんが悪態をついたとき。

 それから、アミーナさんが食べている途中で席を立ってしまったとき。

 そしてついさっき、ふざけていたあたしに怒りをあらわにしたとき。


 そのすべてに共通していたのは、誰かが「奇跡」という言葉を口にしていたということだ。

 アミーナさんは、やっぱり最初から食事を残すつもりじゃあなかったんだ。あれは、あのときイタリア人の男の人が「奇跡」という言葉を言っていたから。だからその言葉が嫌いな彼女はそれに耐えられなくて、あの場から逃げ出したんだ。


 で、でも……。

 それを理解すると当然、疑問が浮かんでくる。

「でも、どうしてそんなに?」

 そこまで「奇跡」を嫌いになる理由は、一体何なのだろう……?


 アミーナさんは、チラリとこっちに目を向ける。

 そして、あたしと……あたしの隣で、真剣な表情を向けているアキちゃんに目を合わせてから、小さく首を横に振った。

「はあ…………ほうっておいてもらうには、話すしかないのか……」

 それからまた、これで何度目かと思うような乾いたため息をついてから……静かにその『話』を始めた。

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