サン・ファン・デ・オルテガ⑤

「私には、妹がいたの。十歳くらい年が離れた、本当に、よくできた妹がね……」

 静かに語るアミーナさん。それのときの彼女は、とても優しい微笑みを浮かべていた。

「彼女はかわいらしくて、頭もよくて……ママからも、パパからも、他の誰からも愛されていた。もちろん私も、そんな彼女のことが大好きだった。それに彼女も、私たちのことを心から愛してくれていた……でも」

 とっくに短くなってしまったタバコを消し、アミーナさんは、次の新しい一本に火をつける。

 あたしとアキちゃんは彼女の言葉を待って、相槌すらつかずに黙っていた。


「すべてが完璧で、非の打ちどころのない彼女だったけど……たった一つだけ、欠けているものがあった。彼女は生まれつき、病気にかかっていたんだ。現在の医療では治すことのできないと言われている、重い病気に……」

 アミーナさんは言葉を切って、タバコを吸いこむ。それから顔を軽く上に傾けて、暗い空に向かって、深くゆっくりとその煙を吐き出した。そのときの動きがあまりにもぐったりと生気がなく見えたせいか、あたしにはまるで、彼女が自分の魂の一部を吐き出しているようにさえ思えた。


「……医者には、今までその病気にかかって、十歳まで生きた子供はいないと言われた。そのとき九歳になったばかりだった妹が、もしも次の誕生日を迎えられたとしたら、それは奇跡だろう……ともね」

「そ、そんなのって……」

 ショックで、思わず何か薄っぺらい言葉を漏らしてしまいそうになった。

 でも、そんな安っぽい同情のようなものをアミーナさんが望んでいないことなんて分かっていたので、その言葉は飲み込んだ。

「それでも私たちは、諦めることなんて出来なかった。出来るはずがなかった。だから、必死で彼女を治療する方法を探したよ。妹を診せた医者の数だって、十や二十じゃきかない。どんなに新しい医療技術でも、どんなに怪しい疑似科学でも、彼女を助けてくれるっていうのなら、私たちはいくらでも受け入れた。……そのおかげで、数えきれないくらいの善意と悪意が、ないまぜになって私たちの周りに集まってきた。けど、そんなの気にしてる暇はなかった。私たちは、彼女を助けるためにどんなことでもしてきた。彼女が助かるのなら、自分たちの命なんか少しも惜しくなかった。神にこの身を捧げても、悪魔に魂を売っても、何でもいいからとにかく彼女を助けたかった。……私たちは、奇跡が起きて彼女の命を救ってくれることに、自分たちのすべてをかけていたんだ」

 そこでアミーナさんは、あたしたちのほうに顔を向ける。その表情はもう、これまで見ていた無表情に戻っていた。


「でも、結局彼女は死んだよ。最初の医者が言ったとおり、十歳の誕生日を迎える前に、静かに息を引き取った。風の強い、秋の日の夕方だった。私は、あの日のことを今でも忘れることが出来ない。私の心は、あの瞬間から止まってしまったんだと思う」

「……」

 あまりにも自分と遠い世界の言葉に、あたしは絶句している。

 きっと、今のあたしがどんな言葉を言ったところで、今の彼女には何の意味もないから。あたしの言葉なんて、きっと届かないから……。

 そう思ってしまって、あたしは言葉を失ってしまっていた。


 そのとき。今まで黙っていたアキちゃんが、感情の分からない淡々とした声で、尋ねた。

「じゃあアンタは、その妹さんを追悼するために、この道を歩いているのね」


 妹さんの、追悼……。

 確かに、亡くなった身近な人をいたむためにカミーノを歩くというのは、よくある理由ではある。キリスト教の聖地へと向かう厳しい道を、今はいない誰かのことを考えながらひたすらに歩く。そうやって、瞑想にも似た長い思索の時間を経て、自分の中の悲しみや、やるせなさを吐き出す。

 あたしたちもここまでに、何人かそういう人たちに出会ってきた。


 でもアミーナさんは、逆にそんなアキちゃんを憐れむように少し微笑みながら、「違うわ」と言った。

「私がこの道を歩いているのは、そんなセンチメンタルな理由なんかじゃない。だって私はキリスト教徒なんかじゃないし。この道にも、この道の先にある聖地にも、全然興味はないから。私の目的は、もっと別……」

「も、もっと……別……?」

 アミーナさんはタバコを深く吸い込むと、今度は、ため息のように長く細く下に向けて煙を吐き出した。煙が苦手だからか、アキちゃんは露骨にそれを嫌がって、口もとを手で覆った。

「この旅の最後に、私は、この下らない世界に別れを告げるつもり」

「え? い、今なんて……?」

 あたしの問いには答えず、アミーナさんはタバコの火を消す。そして、独り言のようにつぶやいた。


「どれだけ祈っても、どれだけ強く願っても、私の妹の身には奇跡なんか起きなかった。神は……この世界は……私の妹を救わなかった。そんな神を、私は信じない。妹の身に起こらなかった奇跡を、私は認めない。だから、『そんなものが存在しないことを証明するため』に、私はこの道を歩いている」

「え……? あ、あの……?」

 歩き出すアミーナさん。

 もう彼女は、あたしたちのことなんて、少しも気にかけていないように思えた。ただ、自分自身に宣言するように、つぶやき続けていた。

「誰もが無事に到着出来たことを歓喜し、その奇跡に感謝するはずの聖地サンティアゴで、私は……神を否定しながら命を絶つ。神への呪いの言葉を叫びながら、この世界に別れを告げる。それは、神様や奇跡が大好きなあなたたちにとって、あまり気持ちのいいことではないでしょう? 浮かれた気持ちを、興ざめさせることが出来るでしょう? 私たちが受けた絶望を、少しは思い知ることが出来るでしょう? もしも神が本当にいるのなら……。奇跡が、本当に存在するなら……。どうにかして、こんな私の企みをやめさせてみればいい。それが出来ないというのなら、しょせん神も奇跡も、ただのまやかしでしかないということだから」

「ちょ、ちょっと……うぅっ!」


 アルベルゲの中へと戻ろうとするアミーナさんを、手を伸ばして引き留めようとする。でもそのとき突然、その裏庭に強い風が吹いて、あたしは伸ばしかけた手を引いて、自分の顔を覆わなくてはいけなくなった。


 そして……風がやんで、あたしがその手を顔からどけたときには、既にアミーナさんは、そこからいなくなってしまったあとだった。

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