サン・ファン・デ・オルテガ⑥

 あたしとアキちゃんが食堂に戻ると、すでにみんな食事は食べ終わっていて、その後片付けもほとんど終わっているみたいだった。出ていくときにあたしがこぼしてしまった赤ワインも、フェリシーさんが中心になってすっかりきれいにしてくれていたらしい。

 しかもフェリシーさん、途中で抜けてしまったあたしとアミーナさんの分の食事をとり分けて、容器に入れて冷蔵もしてくれたそうだ。もはや、女神かよ……。あたしはそんな彼女に、頭が上がらなかった。

 フェリシーさんはそれから、よければ、このあともう少し起きていて一緒に話さないかと誘ってくれたけど……。正直、さっきのアミーナさんから言われたことが頭の中に残っていて、とてもそんな気分にはなれなかった。


 でもそれとは逆に、一緒に彼女の話を聞いたアキちゃんとは、少し話をしたいと思った。さっきの出来事を自分一人で抱えられそうもなかったので、誰かに相談して楽になりたいと思ったんだ。

 でも、あれ以来、彼女は何かを考えているみたいにあたしが話しかけても上の空で、あんまり話せるような雰囲気じゃなかった。それでも、なんとかベッドルームに戻るときにちょっと強引に彼女を捕まえてみたんだけど……、

「別に……。アイツが納得してるなら、それでいいでしょ。ワタシたちには、関係ないわ」

 とか言われてしまって、一方的に話を終わらされてしまった。



 そのアルベルゲは珍しく、一人一人のベッドルームが個別に分かれていた。一応ツインの部屋もあるみたいだけど、あたしたちが到着していたときに空いていたのはベッド一つの部屋だけ。だから結局あたしは、その日のモヤモヤした気持ちを抱えたまま、一人で眠らなくちゃいけなかった。




 ★☆★☆★☆★☆★☆




 いや……。

 眠れない……。


 いつもなら、大部屋でたくさんの人と一緒のベッドルームで、気が散るとか。誰かのイビキがうるさいとか。そういうのが、眠れない理由だった。でも、今日はそうじゃない。

 どうしても、アミーナさんの話を、思い出してしまう。


 この旅の最後に、私はこの世界に別れを告げるつもり……。

 そんな話を聞いて、冷静にいられるほうが無理だ。



 あたしはこれまで、この旅の途中でいろんな人と出会ってきた。そして、出会った人たちからいろんな話を聞いてきた。

 どこからやってきたのか? これまで何をしてきたのか? どうして、カミーノを歩いているのか? カミーノが終わったら何をするつもりなのか?

 その中には、キリスト教の信仰心が深い人もいれば、あたしみたいに全然ない人もいた。でも……そんな人たちの中に、アミーナさんのような人は一人もいなかった。神の奇跡に恨みを持っていて、旅の最後に自ら死のうとしてる人なんて……。


 このまま彼女を放っておいちゃいけない……そのことは、分かる。そんなことをすれば、彼女を見殺しにするのも同じだ。

 だけど……。

 あたしには、自分がどうすればいいのか分からなかった。


 あたしの体は、さっきアミーナさんの話を聞いていたときから、ずっとこわばって委縮したままだ。

 思いつめている彼女に、自分なんかが出来ることなんてない。強い意志を持って歩いている彼女に対して、カミーノを歩く「自分だけの理由」を持っていないあたしなんかが、何かを出来るはずがない。

 その思いがずっと頭を支配していて、それ以外のことを考えることが出来なくなっていた。堂々巡りのような……むしろ、ほとんど思考停止と変わらないような……。静かな寝室で、何時間も同じことを繰り返しながら、あたしはなかなか寝付くことが出来ずにいた。


 そして……。

 そんなあたしが、もう何十回目かも分からないような、寝返りを打ったとき……気づいてしまった。目の前に、自分を見つめている二つの目があるということに。



 え……?


 シングルベッドのフチから、頭を出して寝ているあたしを見ている人がいる。その距離は、きっと三十センチもない。手を伸ばせば、十分に届く距離だ。


 こ、怖い……。

 体が硬直する。部屋のカギは……かけてなかったかもしれない。ぼーっと考え事をしていたせいで、かけるのを忘れていたかもしれない。


 怖い……。

 状況を理解するほど、恐怖心が大きくなってくる。ガタガタと体が震えてしまうのを、必死に我慢しようとする。動かずにいれば、諦めて立ち去ってくれるかもしれない、なんて思ってしまうけど……クマじゃないんだから、そんなはずない。そもそも、あたしは今その人物と、目が合っているっていうのに。


 ……怖い!


 ようやく少しはまともな思考が出来るようになったあたしは、その瞬間に、出来る限りの大声で叫び声をあげようとした。

「ひぃ…………!」

 でも、その前にその人物が手を伸ばしてきて、あたしの口をふさいでしまった。

 ……その手は、すべすべして柔らかくて、とてもいい香りがした。



「驚かせてしまって、申し訳ありません……。ですが、どうか声を出すのはご容赦ください……。わたくしは、どうしても貴女とお話させていただきたいだけなのです。あの……アミーナさんのことについて……」

 それは、赤い髪のシスター、フェリシーさんだった。




 ★☆★☆★☆★☆★☆




 他の人を起こさないように、薄暗いランタンの明かりの中で、小声で話し始めたフェリシーさん。時間は、深夜の一時を過ぎている。急ぎの用じゃないのなら明日にしても、と思うけど……。それがアミーナさんに関わることだと聞いて、あたしは彼女の話を聞くしかなくなっていた。


「チカさんは……さきほどアミーナさんから、あの方の妹さんに起きたご不幸のことをお聞きしたのではありませんか?」

「……はい」

 食事のときにあたしたちがアミーナさんと出て行ったこと。そして、戻って来たときにあたしの様子がおかしかったことから、フェリシーさんはそれに気づいたらしい。

 そしてフェリシーさん自身も、これまで何度かアミーナさんとカミーノを一緒に歩いたり、同じアルベルゲで泊まったりしていたときに、彼女からその話を聞き出していたんだそうだ。


「それは、あまりにも悲しい出来事です。わたくしにも、あの方のお辛いお気持ちが分かる……なんて軽率に言うことは、とても出来ません。あの方の苦しみは、きっとわたくしたちには到底想像もできないほどに大きく、深いことでしょう。その辛さから、あの方が我らがしゅを呪う気持ちを持ってしまったとしても……わたくしには、それを責めることは出来ません」

 そう言いながら、全身で罪悪感と後悔のような感情を表現して震えているフェリシーさん。そのときの彼女は、まるでアミーナさんが神を恨むまでに至った経緯が、全部自分が不甲斐ないせいだとでも言っているようだった。

「ええ……」

 あたしは、小さくうなづく。

 それから、ほとんど無意識のうちに、さっきからずっと自分の頭を巡っていた悩みを彼女にぶつけていた。

「でも……だったら今のあたしたちには、アミーナさんに出来ることはないんでしょうか? あたしたちには、このまま彼女を見殺しにするしか……」

「そこで、ご相談なのですが……」


 そのあたしの悩みは……まさに、フェリシーさんがこんな深夜にあたしの部屋にやって来た理由そのものだった。


「明日わたくしは、この先のブルゴスまで歩く予定です。どうか、そこまでチカさんたちもご一緒していただいて……ブルゴスの大聖堂で、貴女の魔法を使っていただくことはできませんでしょうか?」

「え?」

「チカさんの魔法の力で……神の奇跡を見失っているアミーナさんに、『奇跡』を見せてあげられないでしょうか?」

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