ブルゴス④

「あ……」

 あたしが正気に戻ったときには、その場は騒然となっていた。


 目の前の神父様の真っ白な服や、あたしの顔や、それ以外の場所にも。ワインと血袋の中の羊の血が、いろんなところに飛び散っている。

 歴史的にも宗教的も相当重要なこのブルゴス大聖堂でそんな爆発騒ぎがあったことで、大聖堂の関係者らしい人たちが、声をあげて大騒ぎしている。これまでいつも落ち着いていたフェリシーさんでさえも、今は珍しく、少し慌てているような表情だ。それでも、すぐに周囲の人に的確な指示を出して、飛び散った液体を拭き取らせているのは、さすがだと思った。

 それだけ周囲が騒がしいのに……その反動だとでもいうみたいに、あたしの心は、なぜか静かだった。


 さっきの「爆発」は、確かにあたしの魔法によるものだ。

 でも、あたしの魔法がこんなに激しく効果を発揮したのは、実は初めてのことだった。コインをちょっと浮かせるぐらいしかできないはずだったのに、カリスに入ったワインを爆発させてそこら中に飛び散らせることが出来るなんて……。

 振り返ると、あたしの後ろに並んでいたアミーナさんにも飛び散った液体が少しかかっていた。彼女は、立ち尽くしているあたしが持っている空のカリス――その底には、血が入っていた痕跡が残っている空のビニール袋もある――を見ている。

 アミーナさんは、さっきのあたしの不審な行動や、フェリシーさんが強引にここまで連れてきたことなんかと今の状況をつなぎ合わせて、あたしたちの「計画」のことが想像が出来てしまったらしい。ほおに飛んでいた羊の血を指で拭き取りながら、

「ちっ……」

 と、小さく舌打ちをする。

 そして、あたしたちに背中を向けて、大聖堂の出口に向かって行ってしまった。

 もちろん、あたしたちにはこれ以上のプランCやDなんかもない。つまり……あたしたちの作戦は、完全に失敗したってことだ。



 あーあ。

 ダメだったか。

 でもまあ、仕方ないよね。どうせ、あたしなんかが何かしたって、そう上手くいくわけないんだからさ……。


 罪悪感がないわけじゃない。反省だって、少しはしている。でも、今のあたしの頭の中にあったのは、そんな諦めの気持ちのほうが大きかった。もしかしたらあたしは、最初からこうなることが分かっていたのかもしれない。作戦に挑戦する前から、とっくに諦めていたのかもしれない。

 自分なんかが、アミーナさんのために何か出来るわけがない。

 誰かのために、役に立てるはずがない。

 そのことが分かっていたのかもしれない。


 無言で立ち去るアミーナさんの背中を見ながら、あたしはそんなことを考えていた。やっぱり今日も、あたしはアミーナさんを追ったりはしなかった。




「待ちなさい」

 そのとき。

 立ち去ろうとするアミーナさんの前に、立ちはだかる人がいた。アキちゃんだった。

「……なに?」

 いらだたしそうにアキちゃんを睨むアミーナさん。答えを待たずに、そのままアキちゃんの横を通り抜けようとする。でも、アキちゃんは彼女の手を握って、それを阻止する。

「だから、待ちなさいってば」

「……なんでだよ!」

 アミーナさんは、乱暴にその手を払う。そして、我慢していた気持ちを吐き出すように、大声で言った。

「さっきから、何なんだよオマエらっ⁉ ごちゃごちゃごちゃごちゃ、わけわかんないことやりやがって……余計なお世話なんだよっ! もう、私のことは放っておいてくれよっ!」

「アミーナさん……」

「オマエらが何をしたって……私が何をしたって……! もう……あの娘は帰ってこないんだよっ! 意味なんてないんだよっ! だったら、私がこれからどうしようと勝手だろっ⁉ 私の命を、私がどうしようと勝手だろっ⁉ これ以上、余計なことはしないでくれよっ!」

「……」

 天井が高くて開けた大聖堂の中だと、大きな声はすごくよく広がる。

 周囲の人が、飛び散ったワインを拭き取る手を止めて、大声で叫んでいるアミーナさんを見ていた。たまたま通りかかったらしい他の巡礼者や観光客も、何事かと驚きながら、アミーナさんのほうを見ていた。フェリシーさんも、そのパーティーメンバーたちも、アミーナさんを見つめながら、今の彼女にかける言葉を探しているように思えた。


 そんな中。

 あたしだけは、彼女から目をそらしてしまっていた。

 彼女に何か言うことを、もう諦めていた。彼女を救うことを、もう諦めていた。

 彼女が、早くこの場を立ち去ってくれることを願ってしまっていた。


 なのに……。

「アンタの妹……まだ、アンタのそばにいるわ」

 アキちゃんはそんなアミーナさんの忠告を聞かずに、余計なことを言った。

「やめろ……バカなことを、言うんじゃない」

 アミーナさんはアキちゃんを睨みつける。でも、アキちゃんは引かない。

「精霊になって、アンタのそばを飛んでいるわ。人間には見えないのかもしれないけど……ハイエルフのワタシには、分かるの。彼女の、声を聞くことも出来るわ」

「……やめろ!」

「今もすぐそばにいて、アンタに何かを言って……」

「やめろって、言ってるだろっ!」

 激昂したアミーナさんの手が、アキちゃんを突き飛ばす。

 体の細いアキちゃんはその衝撃に耐えられずに、その場に倒れてしまう。

「ち……」

 アミーナさんは一瞬気まずい表情になる。でも、すぐにそれをイラ立ちに変えて、

「もう、構わないでくれよ! 全部、もうどうしようもないんだよ! もう、何もかも……」

 また、出口へと向かって歩き出した。



 ああ。これで、本当に終わりだ……。

 やっぱり、今のアミーナさんを助けることなんて、誰にも……。



 そのとき、またアキちゃんが何かを言った。

「……エリーゼ」


 ……え?

 あたしには、その言葉の意味はよく分からなかった。

 多分、その場にいた他の人も、それは同じだったと思う。



 だけど……次の瞬間、不思議なことが起きた。

 それまで、明らかにその場を立ち去ろうとしていたアミーナさんの足が、急にピタッと止まったんだ。しかもそれだけじゃなく、さっきまで怒りでいっぱいだったはずの彼女の表情も、一変している。

 驚きと困惑が混ざり合った、複雑な表情に。


「オ、オマエ……今、なんて……?」

 振り返るアミーナさん。

 アキちゃんは、大聖堂の床に倒れたまま、その言葉をもう一度繰り返した。

「エリーゼ……そう言ったのよ。ワタシじゃなく、アンタのそばにいる精霊がね」

「バ、バカな……」


 それは、人の名前だ。

 ドイツ語圏でよくある、女性の名前。でも、それをどうして今、アキちゃんは……。


「じゃ、じゃあ……まさか、本当に……?」

 アミーナさんが、自分の周囲をキョロキョロと見まわす。

 まるで、誰かを探すように。

 亡くなってしまった妹さんの魂を、探すように。

「多分、アンタの妹さんの名前でしょ? ワタシは知らなかったけど、この子がそう言ってるからね」

 アキちゃんはゆっくりと立ち上がると、まるで、目には見えない小鳥と遊ぶみたいに手を宙にかざす。すると彼女の周りを、優しい風が吹きぬけていった。

「エ、エリーゼが、ここに、いるのか……? 本当に、私の、妹が……?」

「……だから、さっきからそう言ってるでしょ」

 手を自分の顔の前に持ってきて、ふうっと優しく息を吹くアキちゃん。その息は緑色に輝く不思議な風となって、アミーナさんのカールヘアーを揺らす。

 アミーナさんはその瞬間に目を見開いて、歓喜の声をあげた。

「あ、ああ⁉ エリーゼ! エリーゼなんだな⁉ 分かる……分かるよっ! いるんだな? こ、ここに……いるんだな⁉ あ、会いたかったよ、エリーゼっ!」


 あたしには……その風は、ただの風にしか見えなかった。

 でもアミーナさんにとっては、そうじゃなかったんだろう。

 これまでずっと妹さんのことを考えていて、その妹さんを失ったことの悲しみと罪悪感で、自ら命を絶とうとしていたアミーナさんにとっては……。その風は、アキちゃんが言うように、まぎれもなく妹さんだったんだ。

 亡くなったあとも、風の精霊となってお姉さんの近くを漂っていた妹……エリーゼさんだったんだ。


「な、なあっ⁉」

 アミーナさんは、アキちゃんに掴みかかる。

「エリーゼは……妹は、なんて言ってる⁉ あの娘は今、どんな気持ちでいるんだっ⁉ 苦しんでいるのか? 泣いているのか? そ、それとも……」

 アミーナさんに掴まれたまま、アキちゃんは目をつぶって、また風と遊ぶようなポーズをとる。そして、しばらくして目を開けて、静かにその質問に答えた。

「この子は今、とても嬉しいって言ってるわ。今もアンタのそばに居られることが、嬉しいって」

「エ、エリーゼ……で、でも、私はお前を、助けることが出来なくて……」

「それから……」

「え?」

「それから、少し……困ってもいるみたいね」

「そ、そんな、どうして⁉」

「アンタが……」

「え……?」

「アンタが、昔みたいな笑顔を見せてくれない。それどころか、いつも泣いているような顔をしている。だから、サヨナラを言うことが出来なくて、困っているって……」

「そ、そんな……っ!」


 それを聞いた瞬間に、アミーナさんは全身の力をなくして、その場に座りこんでしまった。

 そして、「違う……違うんだよ……。私は……。だって私は……あなたのことが…………。あなたを救ってあげられなかったことが、ずっと…………。ごめん……ごめんね……エリーゼ」と何度もつぶやきながら、静かに涙を流していた。



 やがて周囲の人たちは、そんなアミーナさんを一人にしてあげようと思ったのか、あたしがばらまいてしまったワインの後片付けを再開した。最初は野次馬のようにこちらを見ていた他の巡礼者たちも、いつの間にかいなくなっていた。


 そんな中、アキちゃんは、座り込んでいつまでも泣き続けていたアミーナさんのそばに立っていた。これ以上何か言うわけでも、背中をさすって励ましてあげるわけでもなく。ただただ、その場に立って彼女のことを見ているだけだった。

 でも、きっとそれでいいんだ。

 今の彼女に必要なのは、一人にしてあげること。ようやくちゃんと向き合う事が出来た自分の妹さんと、精神の対話をすること。

 実はそれこそが、今日、あたしとフェリシーさんが目指していたことだから。



 結局。

 あたしたちの計画はすべて失敗してしまったけれど……精霊と交信することのできるエルフのアキちゃんによって、その計画の当初の目的は果たされることになった。結果オーライってやつだ。

 でも、こんなことなら最初からアキちゃんを作戦の中心において考えればよかったよね? ってか、アミーナさんの妹さんが精霊になって彼女の近くを飛んでいるんだったら、もっと早くそう教えてくれればよかったんだよ。そうすれば、あたしが変な計画で無駄な恥をかかなくてもよかったんだ。最初から、さっきみたいにアキちゃんに精霊と交信してもらって、簡単にアミーナさんを立ち直らせることが出来たんだから……。



 ……いや、違うよね。


 あたしは本当は、とっくに気が付いていた。

 だってあたしはこれまでアキちゃんと一緒に、カミーノを歩いてきたんだから。そのときに、彼女が精霊と交信するところを、何度も見てきたんだから。だから、精霊と交信するとどんな感じになるのかってことも、知っていたんだから。

 さっきからアキちゃんが風の精霊と会話するような仕草をしているのは……ただのポーズだ。今まで見てきた精霊との交信は、あんなのじゃなかった。

 アキちゃんは、嘘をついたんだ。

 アミーナさんを助けるために。彼女の妹さんがいつもそばにいる、なんて嘘をついて、自殺をしようとしていた彼女を思いとどまらせようとしたんだ。


 エルフの自分が精霊のことで嘘をついても、きっとアミーナさんには、その真偽は分からない。もしもそのときに自分が、「誰も知らないはずのアミーナさんの妹さんの名前」を言ったりすれば……きっとアミーナさんは、彼女の妹さんが精霊になったって話だって信じてくれるだろう。


 二日前、サン・ファン・デ・オルテガのアルベルゲで、最初にアミーナさんに出会ったとき。アキちゃんはアミーナさんとぶつかって、彼女の荷物を床にぶちまけてしまった。

 あのとき、アキちゃんが拾おうとしたアミーナさんの私物の紙切れは……多分手紙だ。すぐにアミーナさんが取り上げてしまったから、詳しい内容については分からなかった。でも、その中の一部分に確か……エリーゼという名前が書いてあった。「für liebe愛する Eliseエリーゼへ」って言葉が、書いてあった気がする。

 アキちゃんもあのとき、その手紙を見た。だからさっき、精霊がエリーゼという名前を言った、なんて嘘をつくことが出来たんだ。



 それに気づいてしまったあたしは、そこからもう、何も考えられなくなっていた。

 ただ……結局いつも通り何もできなかった自分と、「自分自身の力でアミーナさんを救ってしまった」アキちゃんとの間に、深い溝が出来てしまったような気がしていた。

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