サン・ファン・デ・オルテガ②

「人数は、お二人ですよね? ……ええ、大丈夫です。ベッドの空きはありますよ。さあどうぞ、中へお越しください」

 聞いているだけで気分が落ち着くような、物腰の柔らかい声。その声に引き寄せられるように、あたしはそのアルベルゲの中へと入っていった。


 周囲の光を吸い込んでいるみたいに真っ黒な修道女のローブと、それに対比するみたいに、燃える太陽のように真っ赤なロングの髪。全てを包み込むような、優しい表情。まるで、彼女の周りだけ空気が輝いているように見える。

 その人は、「天使」とでも言わないと適切に形容出来ないくらいに、綺麗な人だった。


「さ、こちらにお名前をご記入下さい」

 そう言って宿泊台帳をあたしに差し出す動作さえも、美しすぎて思わず見とれてしまう。でもなんとか我に返って、あたしはそれを受け取って、自分の名前を書いた。

「まあ、チカ・ブランコさんとおっしゃるのですね? とっても、美しい響きのお名前だわ……」

 台帳に書かれた名前を見て、そんなことをつぶやいた彼女。まるで、神様から祝福の言葉を聞いたみたいに、うっとりとした表情で天を仰ぐ。彼女のその表情は、人種や性別を超えた、あらゆる人間を惹きつける魔法のような魅力を持っていた。あたしは、自分の体温が上がっていくのを感じた。

「あ、ありがとうございます。そ、それにしても、ずいぶんお若い女主人オスピタレイラさんですねー⁉ ほとんど、あたしと変わらないんじゃないっすかー⁉」

「うふふ」

 あたしの照れ隠しの言葉に、その赤毛の女性は優しく笑う。

「ここのアルベルゲの主人オスピタレイロさんは、ご友人のお葬式とかで、今はちょっと外に出ているんです。わたくしは、ただ、その代理をしているだけですよ?」

「え、それじゃああなたは……?」

「フェリシー・ルーセル……フランスの、ル・ピュイというところからカミーノを歩いてまいりました。わたくしも貴女と同じ、ただの巡礼者の一人でございます」


 それからあたしたちは、フェリシーさんに手伝ってもらって、アルベルゲの受付を済ませた。

 そのときにフェリシーさんに聞いた話によると……ここは、たった一人のオスピタレイロさんで切り盛りしている、いわゆる民泊のようなスタイルのアルベルゲらしい。だから、巡礼者たちもただの宿泊者という立場じゃなく、自分たちのできることはなるべく自分たちでしないといけないっていう話だった。




 ★☆★☆★☆★☆★☆




 それから、荷物を整理したり洗濯を済ませたりして、夕食の時間になった。


「さあ、皆さん? ご自分のその日のかては、ご自身の手で用意するのが筋というものですよ? ご自身が汗を流して手に入れたものだけが、本当の意味での明日の生きる力となるのですから」

 そんなふうに、周囲の巡礼者たちに次々と的確な指示を伝えていく、赤髪のフェリシーさん。他の巡礼者の中には、フェリシーさんの親と言ってもおかしくないくらいに歳が離れている人もいるっていうのに。

 ル・ピュイから来る間にこういう場面を何度も経験してきて慣れているのか……。それとも、神に仕える修道女シスターっていう彼女の立場が、従ってしまいたくなるような不思議な響きを言葉に与えているのか……それはよく分からないけど。誰も文句ひとつ言わずに、むしろ彼女から指示されることが心底喜ばしいことのように、彼女の言う通りに夕食の準備を進めていた。



 ちなみに、ル・ピュイというのは、フランスの中心から少し南東寄りにある、正確にはル・ピュイ=アン=ヴレって言う名前の町だ。

 この『サンティアゴ・デ・コンポステーラまでの巡礼路』には、あたしたちが通ってきたオーソドックスな「フランス人の道」以外にも、いくつかのルートがある。例えば、ポルトガルの首都リスボンからスタートする「ポルトガルの道」とか。スペイン北部のビスケー湾沿いを通っていく「北の道」とか。

 その中でも、特にフェリシーさんのようなフランスに住んでいる人に人気があるのが、ル・ピュイ=アン=ヴレから出発してサン=ジャン=ピエ=ド=ポールまで行って「フランス人の道」に合流する、「ル・ピュイの道」だ。

 「ル・ピュイの道」のル・ピュイからサン=ジャンまでだけで、約八百キロ。そのサン=ジャンからゴールのサンティアゴまでが、さらに約八百キロなので……フェリシーさんはすでに、あたしたちがゴールするのに必要なだけの距離を歩いてきたっていうことになる。もちろん、歩いた距離が長い方が偉いとか、そんなバカみたいなことを言うつもりはないんだけど……でもやっぱり、それを知ってしまうと彼女のことを一目置かずにはいられなかった。


 それに。

 いくらカミーノが、どんな人間でも受け入れてくれるような、器の大きな道だとしても。その器の大きなカミーノの根本に、キリスト教っていう大きな流れがあることは、否定しようがない。道中には歴史のある聖堂があって、キリスト教の聖人や偉人の逸話が語り継がれている。あたしたちが毎日見ている、このカミーノのトレードマークのホタテ貝なんて、フランス語だとコキーユ・サンジャック……「聖ヤコブサンジャック 貝 コキーユ」って言うくらいなんだから。

 だから……そんな道の途中で、フェリシーさんのようにキリスト教側の人間に出会うということは、特別な意味を持っていたんだ。


 まあ、そういうのを全部抜きにしても……人間離れしたほどの美貌を持ったフェリシーさんは、じゅうぶんに魅力的で特別な人ではあったんだけどね。



「シスター様。このあとでちょっと、私の悩みを聞いてもらっても、よいでしょうか?」

「ええ、もちろんですよ」

「あ、あの……実は、私も告解こっかいしたいことが……」

「はい。わたくしでよろしければ、喜んでお力ぞえさせていただきます」

 料理中、そんなフェリシーさんに対して……周囲の巡礼者はもちろん、このアルベルゲの主人オスピタレイロでさえも、悩みを相談しようと次々と話しかけていた。

「わたくしがル・ピュイのサン=クレール女子修道院から参りましたのは、巡礼者の皆様の悩みをお聞きして、少しでもそのお力になりたいという思いからです。どうぞ皆様ご遠慮なさらずに、わたくしをお使い下さい」

 そしてフェリシーさんも、そんなふうにみんなから必要とされている状況に少しのおごりも感じさせずに、みんなに優しい笑顔を向けてくれていた。



「う、うわー。す、すごいね、あのフェリシーさんっていう人。みんなから大人気だよー。ど、どうしよう、アキちゃん? あたしたちも、何か聞いてみよっか?」

 今どきの若者らしく、信仰心なんて微塵もないあたしだけど……なんとなく流行りに流されるみたいにそんなことを言っちゃう。

「ふんっ」

 でもアキちゃんは、やっぱりそういうのには興味がないみたいだった。

「ワタシは、美味しいご飯が食べられてベッドで休むことが出来れば、どうでもいーですわ! ……どうせ、この辺にはワタシが探している精霊はいなそうだしね」

 そんなことを言いながら、彼女はさっさとフェリシーさんたちがいるキッチンから出て行こうとしていた。

「……そ、そっか」

 しっかりと自分を持っているアキちゃんは、ちょっと物珍しい人がいたからといって、普段の態度を変えないってことらしい。そんな彼女の態度を見て、あたしは流されやすい自分の軽薄さを反省してしまって…………。

 って……おい。

 どさくさに紛れて、何、逃げようとしてんの? 今は夕食を作る時間なんだから、アキちゃんも料理作るの手伝うんだよ?

「ちょっと、アキちゃんっ!」

 食べるのは好きなくせに、自分で料理するのはめんどくさいらしい。しれっとキッチンを逃げ出そうとしていたアキちゃんを捕まえるために、あたしは彼女の肩を掴む。

「な、何よっ⁉ ワタシは、これからちょっと用があって……」

 後ろめたいところをつかれて焦ったのか、そんな明らかな嘘を言うアキちゃん。

 それから彼女が、乱暴にあたしの手を払おうとした……そのとき。


 動かしたアキちゃんの腕が……ちょうど、そのときアルベルゲの入り口から中に入ってこようとしていた、別の女の子の体にぶつかってしまった。

「ふぎゃっ!」

「う……」

 アキちゃんの腕にぶつかって、床に倒れてしまうその女の子。

 一方のアキちゃんも、彼女の体の反発ではじかれて、反対側に吹っ飛んでしまった。


「な、何なのよ、アンタどこに目をつけて……⁉」

 起き上がったアキちゃんは、いつものような悪態をつこうとする。でも、ぶつかった相手の様子を見て、その言葉を止めた。

 どうやらアキちゃんとぶつかったとき、入ってきた彼女のバッグの口が、開いていたらしい。倒れた拍子にそのバッグに入っていた物が床にばらまかれちゃって、大変なことになっていたんだ。

「あ、えと……」

 自分よりも相手のほうが明らかに被害が大きいことに気付いて、罪悪感で、アキちゃんはいつものような高圧的な態度がとれなくなっている。アキちゃんとぶつかった彼女のほうは、既に一人で床にばらまかれた物を回収し始めていた。


 黒い肌。

 強いカールのきいた、茶色みのあるブロンドヘアー。

 まるで、R&Bシンガーを目指しているアメリカの黒人少女、って感じの雰囲気だ。フェリシーさんとは全然タイプが違うけど、カッコよくて確実に美人って言っていいルックスだ。

 ただ……そんな彼女の顔はあまりにも無表情で、カッコいい見た目がちょっと冷たくて怖い感じになってしまっているのが、もったいないとも思った。


「そ、その……わ、わざとじゃあないんだからね!」

「……」

「ひぃっ⁉」

 無言で物を拾いながら、その娘は一瞬だけ、アキちゃんに視線を送る。それだけで、まるで天敵に睨みつけられた小動物みたいに、アキちゃんは怯えてしまった。

「…………ああ、もうっ! 悪かったわよ!」

 別に彼女に何か言われたわけでもないのに、そんなふうに謝罪の言葉を言って、アキちゃんは申し訳程度に、自分の近くに落ちていた紙切れみたいなものを拾おうとした。

 でも。

「ちょっと、触んないでよ!」

 その瞬間に、その黒人少女は厳しい口調でそう言って、アキちゃんよりも先に、その紙切れを拾い上げてしまった。

「……な、何なのよっ!」

 そのあまりの勢いに圧倒されて、さすがのアキちゃんも、もう何もできなくなっていた。



 ようやく落とした物を全部拾い終えた彼女は、フェリシーさんたちが集まっている方を向くと、

「一人よ。まだ、ベッドは空いてる?」

 と事務的に言った。


 ワンテンポ遅れて、オスピタレイロさんがその質問に答えようとする。

「え? あ、ああ……はい。ちょうど、最後の一つのベッドが……」

 でも、それを言い終わる前に、彼女はもう用が済んだとばかりに、あたしたちに背中を向けて、

「ベッドルームは、この扉の奥? ……夕食の時間まで、放っておいてくれていいから」

 とだけ言って、さっさと奥に行ってしまった。

「えと…………あ、あのっ⁉ 台帳に、お名前と住所を……」

 彼女が見えなくなってから、我に返ったオスピタレイロさんが慌てて彼女を追いかけようとする。それを、すぐ近くにいたフェリシーさんが引き留めた。

「あのかたは……ドイツからお越しになった、アミーナ・リーバーマンさんというかたです。これまでも、何度もわたくしとアルベルゲでご一緒させていただいているので、ご心配ありませんよ? わたくしから、あとで台帳に記入していただくように言っておきましょう。あのかたはあまり、他人と触れ合うのがお好きではないようですので……」



 そのあと、いろいろと落ち着いて、みんながまた元の雰囲気に戻って夕食の支度に戻ったとき。アキちゃんがあたしのそばに寄ってきて、こんなことを耳うちをしてきた。

「なんか……とんでもなく非常識なヤツでしたわね?」


 いや、アキちゃんがそれを言う? と一瞬思ったけど……。

 でも正直あたしも、その意見には完全に同意だった。

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