フォンセバドン②

 町を出て先に進むと、坂道の傾斜が徐々に急になってくる。それに合わせて、周囲には薄っすらと霧が出はじめていた。


 あたしはもう、ラバナル・デル・カミーノにとどまる気持ちはなくなっていた。その意味が、なくなったから。


 ログローニョでヤイコさんに指摘された、「あたしにはカミーノを歩く理由がない」ということ。それは間違いなく真実だった。あたしにはカミーノを歩く自分だけの理由なんてない。お師匠様に言われて、自分の意見も持たずに惰性でこんなところまで来てしまっただけだ。

 でも……。

 それは分かっていながらも、どこかで、いつかはそれを見つけられるんじゃないかって思ってた。

 この長い道を歩く中で、突然自分が何かに目覚めて、それで、自分だけの歩く理由が分かるときが来るんじゃないかって、思ってた。

 でも、そんなのは勘違いだった。



 霧はどんどん濃くなっている。

 道はまっすぐで迷うことはないけれど、数十メートル先の景色はもうよく分からない。まるで、真っ白な闇に包まれてしまったようだ。途中で小さな集落に通りかかったけど、あたしはもう立ち止まらなかった。


 真っ白な道を歩きながら、あたしは今までの旅を思い出していた。

 まるで、死ぬ間際に見る、走馬灯の風景のように。



 この旅は、アキちゃんと出会ったことから始まった。ヤイコさんに彼女を無理やり押し付けられて、あたしがアキちゃんと一緒に歩くことになったあのときから、あたしのカミーノは始まったんだ。

 それでアキちゃんは、この旅のことも、それ以外の人間の世界のこともいろいろ知らなくて、あたしはすごく苦労させられて……。でも、そんなに世間知らずのくせに、あれでなかなか意外としっかりしてるところもあって……。

 ブルゴス前のアルベルゲの夕食で、あの娘がアミーナさんを追って食堂を出て行ったとき。最初はすごく驚いた。けど……でも同時に、すごいと思った。

 人間なんて興味なかったはずの彼女が、あのとき、アミーナさんに興味をもって、彼女と向き合おうとしていた。彼女と対話して、彼女を救おうとした。

 ブルゴスの大聖堂で、アミーナさんのために嘘をつくなんて……最初のアキちゃんじゃあ考えられなかった。

 あの娘は自分の目的をもってこのカミーノを始めて……このカミーノの中で、確かに成長していた。それまでの自分の考え方を変えて、アミーナさんやフェリシーさんと、触れ合おうとした。

 あたしは、そんな彼女をすごいと思った。何も持たず、何も変わることのできなかったあたしは……そんな彼女に憧れてしまっていた。


 だから、そんな彼女があたしを置いて、フェリシーさんと別の道を進みたいと言ったとき……あたしはすごくイライラしてしまった。

 あたしは彼女と、ずっと一緒にいたかったから……。他の誰かじゃなく、あたしを選んで欲しかったから……。



 そうだよ……。

 そう、だったんだよ……。



 あたしの回想に合わせるように、周囲の霧の形が変化していく。まるで、ゆっくりと動いている雲が、偶然何かの形に見えてしまったみたいに。あるいは、カフェラテにミルクで絵を描いているみたいに。

 その理由は分かっている。無意識のうちに、あたしは物を動かす魔法で霧の形を変えて、自分の頭の中の回想シーンを周囲に再現していたんだ。


 でも、そんなことはどうでもよかった。

 あたしは霧を払うようにして、どんどん先に進んでいく。膝の痛みや、体の疲労も。移動距離とか、今日泊まる場所とか、ゴールのサンティアゴとかも。全部、もう気にしていない。後先のことなんか何も考えずに、ただただ自暴自棄で投げやりに、先を進んでいた。

 だって……。

 そんなことを気にしたって、もう意味はないから。

 あたしがここにいる「意味」は、どうせもう手に入らない。……もうとっくに手に入れていたのに、あたしのほうからそれを手放してしまったんだから。



 どんどん濃くなっていく霧をかき分けながら砂利道を進んでいると、突然、その霧がぽっかりと開けている場所が現れた。

 そこは、小石が積まれた小さな山だ。その山の頂上には、十メートルくらいの木製の円柱。そしてその円柱の上に、金属製の小さな十字架があった。


 この峠で有名な、クルス・デ・十字架フェロだ。


 その柱の周辺には、ハンカチのような布切れやキーホルダー、写真なんかが置かれている。ここは、巡礼者が生まれた土地から持ってきた石を置いて願い事をすると、その願いを叶えてくれるっていう伝説がある。その小高い石の山は今までの巡礼者が積み上げてきた石、つまり、彼ら彼女らの願いの山だ。そのハンカチや写真も、石の代わりに願いを叶える依り代として、巡礼者たちが置いたものだろう。


 でもあたしは、バルセロナから石なんて持ってきてない。っていうか、そもそも捨て子のあたしには、故郷なんてない。あたしが生まれた場所なんて、誰も知らない。

 だから、この十字架のところに来ても、願い事なんてするつもりはなかった。別に、しなくてもいいと思っていた。


 でも……今はそのことが、すごく悔しく思える。故郷がなくて、鉄の十字架に願う資格がないことを、ひどく残念に思う。

 だって……。

 だって、もしも本当に、願いを叶えてもらえるなら……。

 本当の故郷も、石もないあたしだけど……今なら、叶えたい願い事だけはある。



 アキちゃんに、会いたい。



 あたしの頭の中は今までずっと、アキちゃんのことでいっぱいだった。

 アキちゃんと一緒だったから、これまでずっと楽しかった。アキちゃんと一緒だったから、あたしはカミーノを歩いてこれた。一人でいても、他の誰かと一緒でも、全然楽しくなんてなかった。

 自分がカミーノを歩く理由なんて……あたしは最初のロンセスバリェスからとっくに、見つけていたんだ。アキちゃんと一緒にいること……それが、あたしだけのカミーノを歩く理由だったんだ。


 レオンで、ヤイコさんに「ずるい」と言われた意味が、やっと分かった。

 あたしは自分の気持ちを誤魔化して、ずっと自分に嘘をついてきた。「彼女のそばにいたい」という気持ちを隠して、思ってもいないことを言ってしまった。

 あたしが嫉妬していたのは、「自分が持っていないものを持っているアキちゃん」に、じゃない。そんなアキちゃんと仲良くしていたフェリシーさんや、アミーナさんに嫉妬してたんだ。アキちゃんに、自分だけを見て欲しかったんだ。


 あたしはアキちゃんのことが、大好きだったんだ……。


 それなのに……。

 バカな自分のせいで、彼女と別々の道を行くことになってしまった。大好きな彼女と、別れてしまった。

 取り返しのつかない間違いを犯してしまった。


 サンティアゴへの道エル・カミーノ・デ・サンティアゴは、たった一つの目的地……聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラを目指す巡礼路だ。だから、途中でどんなルートをたどっても、結局最後は全員サンティアゴに到着する。

 ……でも。

 それは逆に言えば、途中で別のルートを選んだ人同士は、最後のサンティアゴまで会えないってことだ。二つのルートがもう一度重なってゴールするタイミングがぴったり合わないと、もう二度と会うことは出来ないってことだ。

 「フランス人の道」から大幅な遠回りをして「北の道」に向かったアキちゃんと、途中で倒れて休んでいたとはいえ、まっすぐ「フランス人の道」を進んでいるあたし。その二人が、タイミングよく合流することなんてありえない。

 もうあたしたちは、二度と会うことが出来ない。



 ガイドブックやウェブサイトでは、このカミーノは「人生」のようだ、と例えられる。

 何物にも左右されることなく、自分のペースで長い道のりを進んでいく旅。その道中では色々な人との出会いや別れがあり、そのたびに、自分は人間として成長していける。そんなところが、人生と同じだ……なんて。


 本当だ……。まさにこの旅は、あたしの人生そのものだ。

 虚勢を張って、自分の気持ちに嘘をついて、大事なものを自分で手放してしまう……。成長もなにもできず、後には何も残らない。

 チカ・ブランコ空っぽの女の子にふさわしい、無意味で空っぽの人生カミーノだ。



 絶望に打ちひしがれている気持ちをさらに闇の奥に突き落とすように……。感情が暴走して制御のきかなくなったあたしの魔法は、周囲の霧をアキちゃんの形に変えていく。

 あたしが今までに見てきた、アキちゃんのさまざまな姿。そのどれもが、すごく楽しそうだ。でも、それが楽しそうであればあるだけ……もう決して戻ってこないという事実が、重く胸を締め付ける。



 アキちゃんに、会いたい……。

 あたしは、クルス・デ・十字架フェロに、都合のいい願いを捧げる。


 もう一度だけでも……会いたい……。アキちゃんに、会いたいよ……。

 キリスト教への信仰心も、故郷から持ってきた石もないくせに。この結果は全部、自分が間違ったせいなのに。


「アキちゃん……アキ、ちゃん……」

 叶うはずのない願いを、バカみたいに、

「アキちゃんに……会いたいよ!」

 あたしは叫んでいた。



 そして……。



「だ、だから……あんまり恥ずかしーこと、言ってんじゃねーですわっ!」

「え……」

 霧で描かれたイメージの向こうから……本当のアキちゃんが現れた。



「願いが……叶った……?」

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