第28話

「ひっ――!?」


 レオナの口から悲鳴に近い声が空気と共に零れる。原因は豹変したラクトだ。


 ラクトは悪魔憑きでさえ本能に従って逃げ出しかねないほど凶悪な殺気を撒き散らしながら、銀髪の男――クルールを憤怒の表情で睨みつける。普段の飄々としたニヤケた顔とは百八十度異なり、今ラクトの内側では怒りと憎しみの感情が渦巻いており、『純粋悪魔(ピュア・ブラック)』として世界中の悪魔憑きから恐れられた男が、再び現世に舞い降りようとしていた。

 ざわ、ざわ、と周囲の人間も騒めく。平和な日常を謳歌していたはずが、いつの間にか地獄の門を開いてしまったかのように、凍える空気が吹き荒れ始めたのだ。実際に気温が下がったわけではない。ただ、そう勘違いしてしまうほど、圧倒的な死を撒き散らす存在が突如として現れた。ただ、それだけなのだ。

 人間であるよりも先に、動物としての本能が訴えかける。このままここに居ては殺されるぞ。逃げろ、逃げろ、逃げろ!


「う、うわぁぁぁぁぁ!」


 一瞬だった。悲鳴と絶叫、恐怖と泣き声が混ざり合った狂乱の宴は、次々と伝染する。一度崩れた感情は簡単には戻ってこない。世界一美しい鐘が鳴り響くことで有名なリングベルトの中心地は今、狂気と恐怖で埋め尽くされ、阿鼻叫喚の嵐が吹き荒れた。

 誰もが黒い悪魔から背を向け、みっともなく涙を流し、許しを請うように叫びながら駆け出した。数十秒後、そこ残るのはたったの三人だけ。


 怯えながらも、ラクトの傍から離れなかった、レオナ。

 この惨状を創り上げた悪魔、ラクト。

 そして、この状況が楽しくて仕方がないと言わんばかりに微笑む、クルール。


「ら、ラクト……?」


 レオナがラクトと出会って約二週間。彼が感情を表に出したことなど、たったの一度もない。一体目の前に立ちふさがる男はラクトにとってどんな関係の人物なのか。不安げにクルールと呼ばれた男を見ると、心地のいい春の風を受けているかのごとく、ご機嫌な様子でラクトに向かって微笑んでいた。


「いいねぇ。かつて世界中の悪魔憑きやニードから恐れられた死の権化。だけどまだだ。本当の君はそんなものじゃないだろう? 昔の君はもっともっと怖かったよ。そう、あの女が現れるまでの君は最高だった!」

「その汚ねえ口を開いてんじゃねえ! さっさと視界から消えねえと、殺すぞ!」

「殺す? 君が? 無理無理、それが出来ないから僕はこうしてここに立ってるんじゃないか。あんな女の約束を律儀に守って、本当にヌルくなったもんだよ」


 はあ、と呆れた様子で大きくため息を吐く。

 笑ったり、憎しんだり、呆れたり、ほんのわずかな時間で次々と顔を変化させる男を見て、レオナは背筋が凍る思いをする。どう見てもまともな感性を持っているとは思えない。感情の乱れ方がおかしい。きっとこの男は笑顔で人を殺せるのだと確信してしまう。


「もう俺は誰も殺さねぇ……だっけ? ハハハ……ハーハッハ! 不殺の『純粋悪魔(ピュア・ブラック)』なんて笑わせてくれるよね! その手でどれだけの悪魔憑きを殺してきたんだって話だよ!」  


 クルールはお腹を抱えてラクトを指さしながら、心底馬鹿にした様子で笑う。誰もいない街の中で彼の嘲笑は嫌なほど響き渡った。


「テ、メェ……っ」

「あ、そういえばどうしてここにいるかって聞いてたね? 簡単な話さ。依頼だよ依頼。ほら僕ってこれでも強いからさ、色んなところから依頼が来るんだ。あ、依頼主は秘密だよ? あの女狐のせいで僕もお尋ね者になっちゃったから、依頼主は裏の人間しかいないしね。面倒臭いうえにつまらない依頼だなって思ってたんだけど、まさかラクトと一緒にいるなんて思わなかったなぁ……ま、丁度良かったってことだね」


 その瞬間、おぞましい感覚がレオナを襲う。感覚の発信源は、今も相変わらず得体の知れない薄気味悪さを発揮している男の視線だ。

 ニコニコと自身の状況を説明していたクルールの視線が、突如レオナに移っていた。これまでずっといない者として扱っていたその瞳は今、獲物を見るものへと変貌していたのだ。


「っ――!」


 それに気付いたレオナが一歩後退る。ペロリと唇を一舐めすると、クルールは一言。


「ねえラクト。そっちの悪魔憑き、頂戴?」

「ふっざけんじゃ……ネェェェ!」


 あれほど殺気を撒き散らしておきながら、まだ全力ではなかったのか、ラクトの咆哮と共にどす黒い魔気が溢れだす。

 レオナも何度か見てきた姿だが、その威圧感が今までの比ではない。これだけ開けた街の中だというのに息苦しさを感じ、思わず喉を抑えて必死に空気を肺に入れようと試みる。その一瞬、目を離した瞬間にラクトの姿が掻き消えた


「オラァ!」

「おっと……」


 レオナが気付いたときには、五メートルほどあった彼我の距離を零にしたラクトが、力強く握った拳をクルールに向けて叩き付けているところだった。しかし大地を震わすその一撃も、どこから取り出したのか、クルールの持つ白銀の刃を携えた剣によって受け止められていた。

 そして、一拍置いてから鳴り響くのは、まるで地雷を踏み抜き戦車が吹き飛んだような、人智を超えた爆発音。ラクトの怒気に人々が追い出され、ゴーストタウンと化したこの場所が、一瞬で戦争における最前線の激戦区に変わったようだ。

 そして、レオナの目から二人の姿が同時に消える。次に爆発音が聞こえてきたのは、五メートル以上も上にある屋根の上から。そちらに目を向けるも、肝心の二人はもういない。次々と現れては音だけを置き去りにして消える、二人の悪魔。

 もはやレオナには捉えきれない動きで駆け巡り、街のあちこちが連続した爆竹のように、音が鳴り続けている。もっとも、その音は爆竹の様に優しいものではなく、一撃一撃が空気の振動で窓ガラスに罅が入る勢いだ。


 そんな中でさえ、不思議な事にレオナの耳には澄んだ空気のように、二人の会話が聞こえてきた。深い悲しみに満ちた寂しい悪魔の声と、それを嘲笑する孤高の悪魔の声だ。


「なあクルールよぉ……俺からリフォンを奪ったお前が、まだ俺から何か奪うって言うのか!?」

「奪う? 違うね。僕は取り戻そうとしているだけさ! あの女狐に奪われた本来の君を! あの誰よりも味方の為に体を張り、血を流し、襲い来る敵を全て薙ぎ払い殺してきた最強で最凶の君をね!」


 クルールが真横に薙ぎ払った剣を沈むように躱すと、ラクトはそのまま地面を踏み込み拳を突き上げる。が、それを予想していたのか、クルールが軽く体を横に向けるだけでラクトの一撃は空を切った。直後に上段から振り下ろされた剣をラクトは横に跳ぶようにして避けたが、僅かに服を掠り布が宙を舞う。


「くっ!」

「ほうら! 今の君はこんなに弱い! 僕に剣を掠らせるなんて、昔じゃありえなかった!」


 次の瞬間、二人は別の場所に姿を現していた。先ほどまで彼らがいた場所に残るのは、煉瓦で出来たストリートに刻まれた深い足跡をだけだ。

 何度も何度も、一つの街をバトルステージとし、二人は舞うようにして剣と拳を交差させる。


「弱い! 弱い! 弱いっ! ぶつかれば相手を破壊し! 泣いて懇願する相手を容赦なく潰し! 例え世界中を相手にしても負ける気がしなかった君が、今は僕程度と互角以下じゃないか! あんな、あんな女のせいで!」

「黙りやがれぇぇ!」 


 ラクトの蹴りがクルールの腹部を直撃した。まるでアクセルを全開にしたダンプカーとぶつかったかのように吹き飛ぶが、空中で綺麗に体勢を整えると、まるで何事もなかったかのように着地を決める。


「なんだい今の蹴りは? 殺傷力の欠片もなかったよ?」


 当然、ラクトは全力で蹴った。そして間違いなく直撃した。だというのに、効いた様子を一切見せないクルールに舌打ちしたい気分だ。昔なら今の一撃で勝敗は決していたはずなのに、そうでない以上、ラクトも認めざる得ない。確かに昔に比べて遥かに弱くなっているということを。

 だがそれは決して――


「認めるよ認めてやるよ! 確かに俺は弱くなった! だがそれは一年以上も堕落と惰性で生きてきたからだ! リフォンのせいじゃねえんだよ!」

「違うね! 君はあの女と出会った瞬間から弱くなった! 力だけじゃない! 心もだ! まるで牙を抜かれたライオンの様に! 飼いならされた野犬のように! 君は堕とされてしまったんだよ! ただの人間に如きにさぁ!」


 一気に距離を詰めたクルールが、剣が高速で振り落とす。とっさに右腕でガードをすると、固い金属同士がぶつかったような甲高い音が鳴り響く。ラクトの腕は切り落とされることなく、僅かな血を流すだけで、二人の間で膠着状態に陥った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る