第37話

「クルールゥ……てめえどういうつもりだ? そいつを返せよ。今ならギリギリ命だけは残してやるからよぉ」


 とてつもなく低い声が殺気と共に零れる。そんなラクトをクルールは満足げ笑うと、一言。


「や・だ」

「死ね」


 その瞬間、ラクトの体から黒い魔気が溢れ、一瞬でクルールとの間合いを詰めてその首を狩ろうとする。が、それより速く動き出したクルールはその一撃を避けると、遥か後方に移動していた。その顔はどこか不満げだ。


「ねえ、まさか今のが本気の動きじゃないよね? 昔よりずっと遅くなってるじゃないか。別に僕に遠慮してわざと遅くしなくてもいいんだよ。僕だって前に比べたらだいぶ強くなったんだし――」

「ば、かな……」


 ラクトにはクルールの動きが見えていた。しかしそれは見えていただけ。彼を捕えるどころか殺す気で放った一撃は、あっさり避けられた。その動きは今のラクトが本気になった動きよりもわずかに速い。その事に驚愕し、そしてそんな反応を見せたラクトを見てクルールもまた動揺する。


「え……嘘だよね? 本気じゃないだけだよね!?」

「――ッ!」


 再びラクトが攻勢に出る。その動きは常人どころか、並のA級ニードですら見極めることが不可能なほど速い。だがそれらも全てクルールに見切られ、リフォンという枷を背負った今でなお彼を捉えることが出来ない。

 今のクルールの実力は、A級ニードでもトップクラスと言われても遜色なかった。

 二人の距離が開いたまま、共に動きを止める。ラクトは驚愕と絶望を。クルールは驚愕と失望を。ここまでくれば二人とも認めてしまったのだ。今のラクトはクルールよりも弱いということを。そしてそれはラクトを至上の存在と思っていたクルールにとっても予定外のことだった。


「ふ、ふざけるないでよ! こんな、こんな弱いラクトなんてラクトじゃない! 『純粋悪魔(ピュア・ブラック)』が、最強の悪魔憑きがこんなに弱いわけないじゃないか!」

「……好き勝手言いやがって……いいからリフォンを放して返せよ」


 ラクトがそう怨念の籠った声で呟くと、クルールは花が咲いたような笑みを浮かべて喜びを表現する。


「あ、そうかそうか。この雌がいるから本気を出せないんだね。もうビックリしたじゃないか、それならそうと言ってくれれば良かったのに」


 そう言いながらリフォンをラクトに投げる動作をして、

「でもそれはそれでムカツクなぁ……なんでこんなのが君の中で一番になってるんだ。駄目駄目、僕達ニードと人間が慣れあうなんてやっぱりおかしいよ」


 その手を止めた。それどころか何かいいことを思いついたと言わんばかりに、リフォンを乱暴に扱うと、その頬を何度も叩く。


「ほら、起きろよ。いつまで寝てるつもりなんだ、この泥棒猫」

「う……ん…………っ」

「あ、起きた? 今の状況分かる?」

「……えっ? 何……ここは……?」

「リフォン!」

「あ、え……ラクト? えっ!? 何、何なの!?」


 覚醒して周囲を伺うと、見覚えのある広場だった。だが何故自分がこんな場所に居るのか、そして何故ラクトはこんなに焦った様子を見せているのか全く分からなかった。


「ここで状況説明。君は囚われのお姫様。ラクトは姫を助けに来た王子、そして僕が悪い魔女だ。そして悪い魔女はお姫様が嫌いだから、平気でこれくらいはするよ」

「あ――」


 そしてクルールは予備動作もなく、突如として具現化させた剣をリフォンの心臓に突き刺した。背中から刺された剣はリフォンの体を突き抜けている。


「――っ!」


 ラクトの目が見開き、喉から言葉とも取れない声が零れる。明らかに致命傷にしか見えない。この瞬間、リフォンという少女の命はこの世から消え去った。


「なんちゃって。ビックリした?」


 クルールが剣を引き抜くと、その体には傷一つ付いていなかった。それどころか噴きだすはずの血も一滴も零れていないし、リフォン自体衝撃は受けたようだが、痛みを感じているようには見えなかった。


「……えっ?」

「僕の力を忘れちゃったの? この剣は斬りたい物しか斬れない剣。それ以外は全て透過してしまうんだよ。はい、そんな君の驚いた顔も見れたし、もう返すね」

「あっ……」


 そう言うとそのクルールは言葉通り、リフォンから手を放すと追い出す様にその背中を押す。気分屋のクルールが何かをするより速く、ラクトは駆け出しその小さな体を受け止める。


「大丈夫か!? 何もされてないよな!?」

「うん……大丈夫だと思う」


 そう言いながら、必死にその体をまさぐる。だがクルールの言葉に間違いなく、体どころか服一つ傷はなく、そこまで確認してようやく安堵の笑みを浮かべる。確かにクルールの力は彼が言うようなものだということは知っていた。だが、動揺してそんなことにも気が付かなかったのはラクトの過失だ。


「よかった……よかった……」

「ラクト……心配かけてごめんね」

「謝んなよ、悪いのは全部あいつなんだから……」


 そして二人で抱き締め合う。一人残されたクルールはニヤニヤとその場面を見続けていた、それが不気味で、いったい彼が何を思っているのか理解不能だ。だが、このままクルールを放置しておけばいつまた同じようなことが起きるかわかったものではない。

 だが、今の彼にクルールが倒せるかわからない。だから、最後になるかもしれないので、これだけは聞いておきたかった。


「なあ、リフォン……今朝言ってた大事な話ってなんだ?」

「えっ? それは……」

「もしかしてだけど、俺とお前の子供でも出来たか?」


 一気に不安そうな顔になるリフォンを見て、ヴァイゼの言葉が間違っていなかったことを確信する。結婚をしていない以上、子供が出来たから別れる恋人は少なくないらしい。


「あ、え……うん。そうなの……えっと……それで……」


 だがラクトはいつまでも彼女と一緒に居たかった。だから、そんなリフォンの不安を消し去るために、優しく頭を撫でる。


「じゃあ、帰ったら二人で名前でも考えるか」

「……あ……うん!」


 その笑顔だけで十分だった。リフォンを放すと、ラクトはクルールと向き合う。


「クルール……お前は人間を殺したんだ。どうせすぐに指名手配されて誰かに殺される。そうなる前に俺の手で殺してやるよ。お前みたいなやつでも、俺の弟分だからな」

「ふふふ、ようやく僕を見てくれたね。嬉しいよラクト」


 心底嬉しそうに笑うクルールの瞳はすでに正気を失っているように見えた。何故彼が今更こんな凶行に及んだのか分からないが、この歪んだ愛情は自分のせいだろうと思い、決着を付ける。


「だ、駄目だよラクト! 殺しは駄目!」

「リフォン……だが、こいつは……」

「もう二度と殺しはしないって約束したじゃない! 誰かを殺せば、その分傷付くのはラクトなんだよ!」

「……そう、だったな。約束したもんな……殺しはしない。けど、こいつは捕まえて然るべき場所に送る」


 そして二人は睨み合う。そこで何がおかしいのか、クルールは急に笑い出した。


「何がおかしい!」

「だって! 純粋悪魔(ピュア・ブラック)が殺しをしないなんて言うから! そんなの違うのに! あり得ないのに! は、ははははははあはははははははあははははは!」


 そして、一人で笑い続けた後、急にテンションが下がったかと言うと、その視線をラクトからリフォンに向ける。


「ああ、そう言えば僕のこの力なんだけどね、この二年で新しくなったんだ。今までは透過させるだけだったんだけど、なんと――」


 その瞬間、リフォンの体から鮮血が舞う。


「あっ」

「えっ?」

「透過させた後はいつでも、斬った時と同じ傷を付ける事が出来るんだ。凄いでしょ」


 そして、リフォンは何が起きたのかわからないまま、その短い人生を散らすこととなる。最後の言葉すら伝えることも出来ず、血溜まりを作って地面に倒れて、この世から去った。


「あ……あああああ……あああああああああああああああああ!!!!」


 大雨の中、ラクトの慟哭が天を突き刺さるがことく響き渡る。その全身を黒く染め上げ、涙を流し、世界中の悪魔憑きから恐れられた本物の純粋悪魔(ピュア・ブラック)が二年ぶりに再びこの大地に参上した。


「あはは、これだよ! それこそ君の真の姿だ! 最高だ! ようやく君が帰ってきた! さあ、これからその力で世界中を恐れさせよう! 本物の悪魔! 悪魔の中の悪魔! 純粋悪魔(ピュア・ブラック)のラクト!」

「あああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」


 その後、暴走したラクトによってクルールは半死半生されながらも、生き延びた。異変を感知したグリアや他のニード達が総力を挙げて抑えに走ったからだ。だが、このときラクトの力ならば皆殺しにすることも可能だったはずだ。それがなかったのは、人としての最後の理性が、リフォンの言葉を、彼女との約束を守ったためではないかと言われている。


 これが純粋悪魔(ピュア・ブラック)の最後だと言われている。結局、ラクトは深く負った心の傷が治らないまま行方を消し、その後を知って居る者は一人としていなかったのだから。

 クルールは指名手配されるようになり、世界中から追われる存在へと堕ちた。しかしその実力は並のA級ニードですら一蹴し、これまで捕まえる事すら出来ないまま、賞金ばかりが上がっていくことになる。


 そして現在。

 話を聞き疲れたレオナはラクトの隣で小さく寝息を立てている。全てを聞いた彼女は、すでに涙を枯らしてしまったラクトの代わりに泣いてくれ、そして何時間も抱きしめてくれた。その間、この一年感じることの出来なかった人の温もりを感じ、心が温かくなった。


「こうして冷静に話せるようになったのも、こいつのおかげなのかな。リフォン……」


 ゴミ箱から出る切っ掛けになった少女。ただその身に悪魔の気配を感じ取り、少しだけ興味を持っただけだったはずだ。それがこんなに大きな存在になるとは、思ってもみなかった。


「別に、浮気をしようってわけじゃない。ただ、こいつの為に出来る事をしてやりたいんだ。それくらい、許してくれるよな?」


 窓の外を眺めると、流れ星が一つきらりと輝いた。空に浮かぶ月は満月にほど近く、恐らく明日か明後日には真ん丸な月として空に輝くだろうと思える。

 満月の時は、近かった。

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